【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

スタンリー・ドーネン監督「いつも二人で(Two For The Road)」(アメリカ、1967年)

2017-07-23 23:57:43 | 映画

              

 この映画は、現時点で互いが相手に対する関心を失っている夫婦関係を中心に、結婚前の二人、結婚直後の二人が同じ旅路をたどりながら、二つの過去の関係を交錯させ、男女が、とりわけ夫婦が結ぶ絆の表と裏とを描いた作品である。ストーリー展開のなかで時間が現在と過去の間を頻繁に行き来し、しかし演技や会話はつながっていることがあるので、そのつもりで見ていないと筋が分からなくなってしまう。この点を注意すれば、話の展開は非常に面白く、身につまされる。フランスの田園風景を背後にした、一組の男女の移ろいやすい愛をテーマに扱った、見ごたえのある作品である。

 話しの筋立ては、 三三歳の建築家、マーク・ワレス(アルバート・フィニー)と妻ジョアンナ(オードリー・ヘプバーン)との一組の夫婦がたどった十二年間の愛の軌跡である。現在、中過去、大過去での二人の愛が巧みに交錯されて話が展開して行くが、話の中心は現在である。若さだけで財産も何もないが無邪気にいつもよりそい、愛を確認しながら明日にむかって生きている結婚前の二人。社会でのポジションが確立し、仲睦まじい結婚直後の二人。社会的地位は獲得したが、愛の輝きを失なってしまった現在の二人。カメラは三つの時間を自在に往来し、時代を経て変化していく愛の危うさを明るみにしていく。

 マーク・ワレスとジョアンナは、二人が初めて知り合った地、フランスを自動車旅行をした。仕事で世話になっているサン・トロペのモーリスに会いに行くのが目的であった。ワレス夫妻は、熱烈な恋愛で結婚し、外見こそリッチな生活を送っていたが、夫婦仲はしっくりいっていなかった。ジョアンナはこの旅行も結局、モーリスに遠隔操作され、他人につきあわされて自分たちの生活がないと嘆いていた。相手を理解しあおうという心の余裕はとうに消え、離婚の話も会話にのぼる。マークは仕事一点張り、妻を大邸宅と高級車などで満足していればいい存在としてしか見ていない。それにも拘わらず他方では何を与えても満足しない嫌味な女、と軽蔑していた。ジョアンナは、望むものを得ていないという不満足でフラストレーションがたまっていた。その一番の原因は、マークが自分に関心をもたなくなったことにあった。自動車旅行の間も口喧嘩、揶揄と皮肉は絶えない。

 かつて、二人の出会いは偶然だった。ひょんなことからヒッチ・ハイクをすることになった二人。安宿に泊まってひもじい思いをし、海岸で日向ぼっこするなど、無邪気に付き合っているうちに恋心が芽生えて結婚した。

 結婚後、二人が知人のマンチェスター夫妻とドライブ旅行をしている場面。夫のハワードは計算づくの人間。ドライブ中も運転距離を正確に計算し、旅行にかかった経費も緻密に勘定するタイプの男性。妻のキャシーは、かつてマークと関係があった。娘が一人いたが、大変にわがままだ。自分の意見がとおらないとキーを抜いて車を止め、それを投げ捨てて、大人たちを困らせた。そのような家族に愛想をつかし、ジョアンナとマーク夫妻は共同の旅行を中止した。家族というものの、やりきれなさを感じたのだった。 

 自動車旅行の末、リゾート地に着いた二人だが、マークは妻を放りだして、卓球に興じた。夫に無視され、退屈で不満が一杯のジョアンナは、知人に紹介されたデビットという男性と遊び、一夜をともにした。マークはそのことに気づき、ムカつきながらことの次第を追求した。ジョアンナにとってデビットは気のおけない存在であったが、くつろぐことのできない。一時の男にすぎなかった。彼女は結局、マークのところに戻ってきた。「戻ったわ」「楽しんだ?」「おかげであなたが恋しかった、ほんとよ」「君は僕を傷つけた、傷つけたあげく戻ってきた」。そのような断片的な会話が交わされる。

 オドリー・ヘップバーンが演ずるジョアンナのプレタポルテの衣装が楽しい。また、小道具としての「パスポート」の使い方にセンスを感じる。マークはしばしばパスポートの所在が分からなくなって慌てるが、ジョアンナはそれをしっかり管理している。

恋人、夫婦、家族、女と男のつながりは、時とともにその形は変わり、危うい。危うい関係で綱渡りしながら、二人は再び同じ方向を向いて歩んで行く。

 オドリーは巧みに屈折した感情を表現し、難しい大人の演技をこなした。アルバート・フィニーは、イギリスの舞台出身の名優。複雑で起伏のある男女の感情の葛藤が見事に演じられた。


ヘンリー・コスター監督「オーケストラの少女(One Hundred Men and A Girl)」(アメリカ、1938年)

2017-07-21 14:24:05 | 映画

        


  天才少女歌手と騒がれたダイアナ・ダービン、指揮者で当時の最高権威であったレオポルド・ストコフスキー、そしてフィラデルフィア交響楽団が出演し話題となった作品。全編に少女の願いと行動、人間の善意が溢れ、心が温まる。原題は「100人の男と少女」。

 冒頭、レオポルド・ストコフスキー指揮、フィラデルフィア交響楽団によるチャイコフスキー交響曲第六番「悲愴」第四楽章が流れる。失業中のトロンボーン奏者、ジョン・カードウェル(アドルフ・マンジュー)を父に持つパトリシア[愛称パツィ](ダイアナ・ダービン)はまた楽団で演奏できる機会をつくりたいと願っていた。ジョンはいくつかのオーケストラに楽団員として雇ってくれないかと頼みにまわったが、どこにも相手にされなかった。コンサートで演奏を終えたストコフスキーにも雇ってもらおうとしたが、ホールの従業員に追い返された。コンサート会場からアパートにしょげて戻る途中、彼は偶然、財布を拾い、遺失物として劇場に届ける。しかし、従業員に再び有無もなく締め出された。その財布をもち帰ったことで話しが展開を始める。帰宅後、大家に家賃を請求された父は成り行きでその財布から支払いをした。パツィに問われたジョンは真相を言いそびれ、「楽団員に雇われた」と嘘を言った。

 翌日、楽団のリハーサルに出ていった父のあとを追ったパツィは、事の真相を知った。パツィは財布の持ち主がフロスト夫人だとつきとめ、彼女に財布を返そうとした。実業家たちのパーティにいた気前の好いフロスト夫人は、財布を受け取るとパツィを仲間のなかに招いた。パツィは得意の歌を披露して喝采を浴び、次いで父の窮状を話すと、夫人は気軽に(冗談半分に)失業者たちを集めてオーケストラを編成できたらスポンサーになり、ラジオにも出演させると約束した。話しを真に受けたパッツィは父にその話をし、アパートで隣に住むフルート奏者のマイケルたち失業者の演奏家100人を集め、急遽オーケストラを結成。

 パツィは練習会場の費用捻出の依頼にフロスト夫人を訪れたが、彼女は既にヨーロッパ旅行に出かけてしまっていた。留守で実業家の夫は、芸術に関心がない。加えて彼にとって、オーケストラのスポンサーの話は寝耳に水。大指揮者が指揮を引き受けないかぎり、出資はしないと突っぱねられた。パツィは一計を案じ、楽団の指揮をストコフスキーに依頼しようと奔走。ストコフスキーがオーケストラのリハーサルをしている場所に乗りこみ、モーツァルトの「ハレルヤ」を歌って交渉のきっかけを得た。しかし、ストコフスキーには既に半年間の欧州旅行の予定が入っていて、パツィは失業者楽団の指揮はできないと断られた。パツィが意気消沈して帰ろうとしていると、劇場の従業員に見つかり、追いかけられた。パツィが逃げこんだところは、マネージャーの部屋。そこに偶然に入った新聞社からの電話にでた彼女は、ストコフスキーが失業者楽団の指揮をすると「でまかせ」を言った。新聞社はこの情報を特ダネとし、号外に。実業家フロストはこの話で一儲けを企み、スポンサーを買ってでた。パツィは再びストコフスキーに楽団の指揮の依頼に赴く。最初はパツィの強引なやり方に不快感を示していたストコフスキーであったが、熱意にほだされ待機していた失業者楽団が「ハンガリー狂詩曲第二番」を演奏すると、彼の手がしだいに動き出し、やがていつもの力のこもった指揮をとった。

 ストコフスキーは少女の願いを全面的に受け入れ、楽団員はホールで彼の指揮のもと、感激で胸一杯の演奏をした。パツィはストコフスキーに挨拶を求められドギマギ。その時、聴衆のなかの世話になったタクシー運転手から「歌ったらどうだい」と声がかかった。幸運を感謝し、喜びの涙で頬を濡らしながらのトラヴィアータを歌う少女パッツィ。いつまでも胸に残る感動的なラストシーンであった。


「四十二番街(42nd Street)」(アメリカ、1933年)

2017-07-20 14:33:40 | 映画

         
  30年代後半、トーキー時代に突入した映画界は、それ以前にはなかった音楽映画を盛んに製作した。華やかな歌とダンスを売り物とするミュージカル映画が量産された。ルヴィッチ映画のパラマウント、ブロードウェイ・メロディのMGM、アステア・ロジャースのRKO等々。舞台ミュージカルがそのまま映画化されることもしばしばであった。「四十二番街」は、バック・ステージものの代表的作品である。

 ストーリーは玩具会社の社長で出資者の老人アブナー・デイロンとミュージカル・スターを目指す女性ドロシー・ブロック(ビービ・ダニエルス)、そして彼女に恋する若い男性パット・デニング(ジョージ・ブレント)の三角関係を軸に、演出家ジュリアン・マーシュ(ウォーナー・バクスター)が苦労して男女のダンサーたちを統率し、「プリティ・レディ」というミュージカルを成功させるというもの。

 バーンズ・バリーという芸能プロが「プリティ・レディ」という新作ミュジカル・ショーを企画。出資者はデイロン。演出家にマーシュが起用された。彼はその分野では魔術師とも、ヒットを生む機械とも呼ばれ、仕事熱心な厳しい演出で知られていた。デイロンはスポンサーとなる条件として、目をかけていた女性ドロシーを主役に抜擢させた。オーディションの結果、出演者が決まった。人数が一人足りない。アマチュア・ダンサーのペギー(ルビー・キーラー)が急遽採用された。舞台の初日まで五週間。昼も夜もない踊りっぱなしの猛特訓が、マーシュの演出のもとで行われた。主役のドロシーは、パット・デニングという青年と交際していた。スポンサーであるデイロンの手前、その付き合いをおおっぴらにするわけにはいかなかった。しかし、あるところから二人の付き合いが、マーシュに知られた。ドロシーとパットとの関係が知られれば、デイロンはスポンサーを降りかねない。マーシュは下町のギャングに手をまわし、パットを追放するべく仕組む。パットの才能の開花に期待し、将来を案ずるドロシーは、しばしの別れを提案、パットはフィラデルフィアに去った。

 ハードな練習の結果、ショーは舞台の初日に間に合ったが、場所は当初の予定であったアトランティック・シティからフィラデルフィアに変更となった。ドロシーは、パットが居るフィラデルフィアでの興業と知って気が動転。しかもフィラデルフィアで、ドロシーたちの泊まるホテルには、パットも宿泊していた。彼女は、そのことを知り、うろたえる。苛々を募らせていたドロシーは、前夜祭のパーティでデイロンに「田舎おやじ、カモおやじ」と罵ってしまった。ドロシーはパットと電話連絡がつき、部屋に来てくれと嘆願した。パットはドロシーと再会したが、その場にペギーが現れたため、ドロシーは嫉妬からペギーにくってかかった。仲裁に入ったパットともみあいになり、ドロシーは足首を骨折、初日を前に公演が危ぶまれた。代役にペギーが起用された。気を取り直したドロシーの励ましがあり、短時間のマーシュの特訓で、ペギーは代役をこなし、公演は大成功。血と汗がにじむ猛烈なマーシュの演出とそれについてきたダンス・メンバーの奮闘、それに代役を見事に果たしたペギーのダンスと歌の賜物であった。満足したお客は「演出家なんか楽なもんだよ、マーシュはついていたな、成功はペギーのおかげだ、明日の大スターだ」と帰途につくのであった。

 愛あり挫折あり、いろいろなエピソードがおり込まれ、最後に大レビュー・シーン。圧倒的な壮観のレヴュー。女性ダンサーはステージで整列、脚線美を披露し、エネルギッシュに、華麗に舞う。大勢のダンサーが画面一杯に踊りまくるフィナーレの魅力は、何とも言えない。ペギーの歌うテーマ曲「四十二番街」とタップダンスは、見ごたえ十分である。


ヴィンセント・ミネリ監督「いそしぎ(Sandpiper)」(アメリカ、1965年)

2017-07-19 23:17:50 | 映画

                

 開巻のカリフォルニア州モントレイからピッグ・サー付近とおもわれる雄大な自然の風景にまず圧倒される。流れる、メロディが心地よい。男社会での女性の生き方を本質的に問うセリフがたくさん出てくる。また、敬虔な牧師エドワード(リチャード・バートン)と無神論者で自然のなかで生活することを信念に持つ絵描きのローラ(エリザベス・テーラー)との愛を中心に、女と男の愛とは何か、社会や法とは何か、数々の問題提起がある。

 最初にいそしぎが浜辺で遊ぶシーンがある。傷ついたいそしぎをローラが介抱し、それが回復して家の中を飛び回るシーンもある。いそしぎの使い方がうまい。また、明るい服に身を包み活動的な装いのローラと、清楚で気品に満ちた身なりのエドワードの妻クレア(エヴァ・マリー・セイント)とは、立ち居振る舞い、衣装でも好対照。きめの細かな工夫がある。

 ローラはダニーという男の子と二人で海辺の小屋で生活していた。ローラは独身であり、父親のいないダニーは学校へは通わず、自然のなかで屈託なく遊び、学んでいた。勉強もしていた。チョーサーの「カンタベリー物語」を暗唱できた。ダニーは時々、悪戯で小さなトラブルを起こしていた。ダニーが鹿を射殺した事件をきっかけに、ローラは判事から子どもをサンシメオン学園という学校(寄宿舎)に入学させることを勧められた。法定命令である。騒々しい社会から逃げだし、自然のなかで子どもと静かに暮らすことを信条としていたローラを、学園の牧師エドワードはそれでは人は生きていけないと諭す。ローラはダニーを人あたりの良い人間に育てるつもりはないと突っぱね、子どもを学園に入れまいとした。ローラはものすごい剣幕でこの主張をした。エドワードにはそのような彼女に何をか感ずるところがあった。

 子どもを学校に入れて学ばせることは法律で定められていたので、ローラはこの勧めを受け入れざるをえなかった。エドワードはダニーに関すること、また礼拝堂のステンドグラスの絵を依頼することなどの件で、たびたびローラを訪れた。羽を痛めた「いそしぎ」を介抱したり、自分の身上を話したり、礼拝堂建立のお金を人間のために使うべきと言うローラに、エドワードは惹かれていった。男性との幸福な出会いに恵まれなかったローラも優しく、温和なエドワードに愛を感じ、「人は愛したあとに次に何を望むかも分かった」と想いを伝えた。

 牧師エドワードには、妻クレアがあった。牧師である己の不実な愛が彼を苦しませた。ある夜、エドワードはダニーの保護に関する書類に母親ローラのサインが必要とあって、彼女を訪れた。エドワードは、そこで一夜を過ごす。「もう離れられない、こうなったのはいいことなの」とローラ。エドワードはローラを愛しながらも、牧師であるかぎり「自分を許せない」と自戒。しかし、彼はローラを忘れがたく、密会を重ねるうち、どうしようもない力が自らを牧師の道から外していくことを自覚した。

 エドワードの妻クレアは、エドワードのまわりで起こっている何かを感じないわけではなかった。事実が明らかになる時が来た。礼拝堂を建てる計画をめぐって、奨学金制度設立への計画変更の提案をするエドワードと従来計画の継続を唱える理事のウォードとが対立し、ウォードはエドワードに対し、妻のクレアの目の前で「わたしの考えは不完全でも借り物ではない。あなたはその考えを誰から借りたのか。ローラからか」と怒鳴りつけた。事実が発覚したエドワードは、ローラとの関係を妻に全て話した。クレアはエドワードをののしり、またそのことを聞かされたローラはエドワードに「わたしの秘密、わたしのプライバシーを話した」と怒りをぶつけた。後日、落ち着きを取り戻したクレアはエドワードに「ローラさんはあなたの若い頃の情熱と愛を思い出させてくれたのね」と語りかけた。エドワードは教会を去る決心をし、その決意をミサの席で列席者に話した。同じ席で彼は「自由のみがよく反抗的な荒れた心をなだめうること、檻はいらないのです」と言ってローラに、また「女々しい弁解や謝罪をいれるにはあまりに潔癖なこの人は、考えることは一種の祈りなのですと生きる証を与えてくれたのです」と語ってクレアに、それぞれ暗に謝意を述べるのだった。

 エドワードは暫く旅に出ることを伝え、クレアは「残って今までの生活を考えたい」と夫に話した。ローラも「ここに留まって今までの生活を続け、ダニーも学校に通わせる」と言う。それぞれの生き方が暗示されてドラマは完結を見る。主題歌の The Shadow of Your Smile は第38回(1965年)アカデミー賞音楽賞に輝いた。


チャールズ・チャップリン監督「独裁者(The Great Dictator)」(アメリカ、1940年)

2017-07-18 22:10:11 | 映画

    

  大戦間に時代は設定されている。世界制覇を画策するトメニア国の総統ヒンケル(チャールズ・チャップリン)は、ユダヤ人抹殺、自由の国オスタリッチ侵略をねらい、バクテリア国の独裁者ナバロニと覇権争いをしていたおり、背格好がヒンケルとそっくりのユダヤ人の床屋とすりかわり、最後にこのユダヤ人が独裁政治との決別と民主主義の勝利を演説するという物語。この映画は第二次大戦直前の一九四〇年に完成されたが、ナチスの独裁政治を風刺し、その台頭が危険であることを訴えた作品である。登場人物のヒンケルはヒットラーであり、ナバロニ(ジャック・オーカー)はナポレオンとマカロニの合成語でムッソリーニが念頭にある。ヘリング元帥(ビリー・ギルバート)はゲーリングを、ガービッチ内務大臣(ヘンリー・ダニエイル)はゲッペルスをもじっている。トメニア国の紋章はダブル・クロス、裏切りを意味する。トメニア語はドイツ語をまねたもの。

 ラストに有名な大演説があるが、この演説が凄い。ヒンケルとすりかわったユダヤ人理髪師が喋るという設定であるが、形相は生のチャップリンその人である。「申し訳ない、わたしは皇帝になりたくない。支配はしたくない。できれば援助したい。ユダヤ人も、黒人も、白人も、人類はお互いに助け合うべきである。他人の幸福を念願して、憎みあったりしてはならない。世界には全人類を養う富がある。人生は自由で楽しいはずである。貪欲が人類を毒し、憎悪をもたらし、悲劇と流血をまねいた。スピードも意思を通じさせず、機械は貧富の差を作り、知識をえて人類は懐疑的になった。思想だけがあって感情がなく、人間性が失われた。知識より思いやりは必要である。思いやりがないと暴力だけが残る。航空機とラジオはわれわれを接近させ、人類の良心に呼びかけて世界をひとつにする力がある。わたしの夢は全世界に伝わり、失意の人々にも届いている。これらの人々は 苦しんでいる。貪欲はやがて姿を消し、恐怖がやがて消え去り、独裁者は死にたえる。大衆は再び権力をとり戻し、自由は決して失われぬ。兵士諸君。犠牲になるな。独裁者の奴隷になるな。彼らは諸君を欺き、犠牲をしいて、家畜のように追いまわしている。彼らは人間でない。心も顔も機械になった。諸君は機械ではない、人間だ。心に愛を抱いている。愛を知らぬ者だけが憎み合うのだ。独裁を排し、自由のために闘え。神の王国は人間のなかにある。諸君は幸福を生み出す力を持っている。人生は美しく、自由であり、すばらしいものだ。諸君の力を民主主義のために終結しよう」。演説はラジオをとおして、避難地のオスタリッチ国で突撃隊に襲われ、倒されていたハンナ(ポーレット・ゴダート)の耳にも届いた。

 人間の真実を訴える演説は以上であるが、この映画は独裁政治にたいする批判的風刺で貫かれている。第一次世界大戦の西部戦線でドイツ軍兵士のチャーリーは戦線で負傷した空軍将校シュルツを飛行機で助けたが、不時着。チャーリーは記憶を失い、病院に入れられたが、逃げてユダヤ人街にある自分の理髪店に戻った。おりしもトメニア国では反乱が起こり、ヒンケルが政権を握り、アリアン人による世界支配、民主主義の破壊、陸海軍の増強、ユダヤ人抹殺を画策していた。チャーリーはこの政変を知らなかった。突撃隊がユダヤ人街を襲い、狼藉をはたらき、略奪行為が行なわれた。洗濯娘ハンナは出来あがりの洗濯物を届けに出たところでトマトをぶつけられるいじめにあった。チャーリーが彼女を助けようとしたが、逆に突撃隊員にとりおさえられ、縛り首になりそうになる。そこに居合せたシュルツ閣下(大戦中飛行機の不時着のおり、チャーリーに助けられた)のお蔭で見逃された。

 ヒンケルは自由の国オスタリッチ進駐をねらうが、軍資がたりず、ユダヤ人にこれを借りようとし、一時的にユダヤ人懐柔策をとった。ユダヤ人街に一時、平和が訪れた。チャーリーはハンナとトマト事件以後、親しくなり、彼女の美容を理髪業の練習台に使ったり、デートもした。その後、ヒンケルは資金借り入れが「ユダヤ人を迫害する中世の狂人を援助できない」とことわられたことを恨んで、ユダヤ人迫害を強行した。これに異議をとなえたシュルツは解任され、ユダヤ人街に逃げ込む。潜伏したシュルツはヒンケル暗殺計画をたて、実行者を抽選で選ぼうとした(銀貨の入ったプディングにあたったものが決死の暗殺者となる)。その計画に疑問を持ったハンナの機転で、暗殺者の選出という計画は頓挫した。

 局面が悪化し、突撃隊がユダヤ人街を襲うようになると、人々は自由と豊穣のオスタリッチ国に逃げたが、シュルツとチャーリーは逮捕されてしまう。オスタリッチ国侵略をねらっていたのは隣国ナバロニ国も同じであった。この問題でヒンケルとナバロニは会見、「署名が先か、撤退がさきか」の国境問題が戯画化されて描かれ面白い。この論争は、ガービッチ案にしたがった形式的な署名で、バクテリア国の軍が撤退後、ナバロニ国がオスタリッチ国に進駐する策がとられた。チャーリーとシュルツは、首尾よく士官の服をうばって捕虜収容所を脱走。カモ討ちに出掛けていたヒンケルは、ユダヤ人の理髪屋と間違えられ連行された。追っ手や取巻きをうまくだましたもののチャーリーは、ヒンケルと間違えられオスタリッチ国の民衆の前で演説するハメになった。ガービッチ内相の演説のあと、シュルツにうながされてヒンケル(実はチャーリー)の演説が始まった。これが先に引用した長い演説である。

 映画には随所にチャップリンらしい風刺と笑いの演技がある。ブラームスのハンガリー舞曲のメロディにのってパントマイム風に理髪をする場面、ヒンケルが一人悦にいって風船の地球儀を手玉にとって踊る場面(アメリカの裸のダンサー、サリー・ランドのパロディといわれる)、躁病的なナバロニに対する心理作戦で互いに相手を見下ろそうと椅子をせりあげていく場面、ヒンケル暗殺者を決めるくだりで自分にあたった銀貨をこっそりと他人にまわして自分が助かろうと虚々実々のかけひきの展開、チャーリーの演技はいたるところで輝いている。


エイドリアン・ライン監督「フラッシュダンス(Flashdance)」(アメリカ、1983年)

2017-07-16 21:38:51 | 映画

      

 才能だけでは一流になれない。努力があればやって出来ないことはない。苦労は一杯ある。人間関係は、結構ややこしい。それでも人生の目標は持って、最後にはことをやり遂げたい。見終えて、そういう活力がもらえる映画である。

 ダンスを取り込んだアメリカの青春映画である。舞台はペンシルヴァニア州の工業都市ピッツバーグ。十八歳のアレックス(ジェニファー・ビールス)は昼には製鉄所の溶接工として、夜には酒場でダンスを踊って舞踏学校に入るためのお金をためている女性であった。田舎から出て来た彼女は倉庫を棲み家とし、グランドという名の犬と暮していた。彼女の夢はプロのダンサーになること。習ったことはないが音楽がなると自然に体が躍動する天性の素質が彼女にはあった。ハンナ(リリア・スカラ)という元クラシックのダンサーだった老女が側にいた。アレックスがまだ小さかった頃、彼女をクラシックに連れていってくれた人であった。

 アレックスは、製鋼所の上司ニック(マイケル・ヌーリー)と恋に落ちた。バレエ養成所への申し込みに行くが、経歴がなく自信を失い一度は願書提出を諦めたが、ハンナに励まされ、ニックの後押しもあってオーディションを受け、審査員の前で無我夢中に踊った。この間、それぞれに夢を持つ周りの人々との交際がリアルに描かれ面白い。フィギュア・スケートのオーディションで失敗した友人ジーニーが自暴自棄になっていかがわしい店で踊るのを辞めさせたこと。アレックスがハンナとバレエを見に行った夜、ニックが女性を車で送る姿を目撃し、怒った彼女がニックの邸の窓ガラスに石を投げつけたが、後日ニックと一緒にいた女性は離婚した妻だったと知りアレックスの怒りも収まり仲直りしたこと。さらに恋人ニックがオーディション前の書類審査で友人の芸術関係の人に手をまわしたと大喧嘩したこと。挿話がたくさん盛り込まれ、ドラマとしての見せ所は十分にある。アメリカの場末の酒場とそこに出入りする人達の様子は丁寧に、現実的に描かれている。

 何と言ってもラストシーンでの主役アレックスのオーディションの踊りが光る。しなやかに伸びた手足、躍動感にみちた肢体、はじけるようなリズム感、力強いステップとスピン、どれをとっても見ているものを昂奮させる。アレックスは最初、自信がなさそうで、ダンスにも失敗し再挑戦し、結果的に立ち直るのだが、このあたりの場面の盛り上げ方の演出は上手である。不熱心な姿勢がありありであった審査員たちは、彼女のダンスを審査しているなかでしだいに彼女のダンスに引き込まれていく。テンポは小気味よく、巧みである。主題歌のFlash Dance …What a Feeling は、第56回(1983年度)アカデミー賞音楽賞受賞。


ルイ・マル監督「恋人たち(Les Amantes)」(フランス、1958年)

2017-07-15 21:27:09 | 映画

    

 とかく、人生は不可解なことがある。何が起るか分からない。女と男の関係はなおさらである。一人の青年との出会いから結婚して八年、倦怠期にある三十歳の人妻ジャンヌ・トウルニエ(ジャンヌ・モロー)の生活が思わぬ方向へ進む。愛が仕掛けたその顛末を、女性の心の動きと行動で表現した異色の作品。

 ジャンヌは夫アンリ(アラン・キュニー)、娘エレーヌとディジョンの田舎に住んでいた。アンリはブルゴーニュの地方新聞社の社主で、多忙。夫の勧めもあって、彼女は月にニ度、パリの幼な友達マギー(ジュディイト・マーダル)を訪ね、大都会の独特の雰囲気を楽しんでいた。パリ滞在のおり、ジャンヌは社交界の常連であるポロの選手ラウル・フロレス(ホセーリ・ド・ヴィラロンガ)との逢瀬も楽しむようになった。夫には相手にされなかったが、彼女はいつしかそれがひとつの解放感になっていた。パリでの滞在は頻繁になり、滞在期間は長くなっていた。ジャンヌは、ラウルのことを夫には友達マギーの恋人だと偽り、とても優しく、頭のいい人と紹介していた。

 ジャンヌの行動、ラウルとの関係にしだいに疑惑を持つようになったアンリは、マギーとラウルを邸でのパーティに招待するよう、ジャンヌに提案した。ジャンヌは彼らを案内するためにディジョンから一人車でパリに向かったが、途中、エンジンが故障、車を乗り捨てする羽目になった。通りがかった青年考古学者ベルナール(ジャン・マルク・ボリー)は、車の故障を直そうとするが、拉致があかなかった。ジャンヌは、ベルナールに邸まで送ってもらうことになった。ジャンヌは夫アンリの甥であるこの青年に何か惹かれるものを感じた。成り行きでベルナールもパーティに参加することになった。一同、食事をとるが、会話ははずまず、陰鬱な気分のジャンヌ。団欒の後、マギー、ラウル、ベルナールは、トウルニエ夫妻の邸に泊まることになった。彼女はこの時すでに、自身の世界が崩れて行くのを読み取っていた。耐え難い夫アンリ、滑稽になっていた恋人ラウル。ジャンヌは、これまでとは違う別の人間になりたかった。

 ラウルは彼女を部屋に誘うが、彼女は応じない。ジャンヌは、眠れないまま入浴の準備をするが、その前に首飾りをはずし、それを飾り棚の上のワイングラスに入れた。カチカチと乾いた音がなった。この響きはこの後のベルナールとの逢引きで使われたウイスキー・グラスのぶつかり合う音の布石である。

 ジャンヌは気分を変えるつもりで、白いネグリジェのままウイスキーのグラスを持って月明かりの庭に出ると、ベルナールがそこに現れた。最初「恋人気取りはやめてちょうだい」と彼女はベルナールを拒否した。そのうちに二人は池の辺で互いに瞳を見つめあい、ウイスキーのグラスをあわせた。この時のグラスを打ち合わせる音が、漆黒の闇のなかに象徴的に消えた。彼らは水車小屋からボートへと散策する。「恋はまなざしから生まれる」のであり、ジャンヌはこの時「恥じらいの消える思いがした」。

 家のなかに導くジャンヌに、ベルナールは「君の家に入りたくない、出て行こう」と誘った。「着替えをしたい」とジャンヌは部屋に彼を導き、寝室に入った二人は裸身になり、激しい抱擁に惑溺した。情事のあと、バスタブで無邪気に戯れる二人。「いつも一緒に眠りましょう。私の人生はあなたのもの。私たちは素敵、今に分かるわ」とジャンヌ。

 この幸福のまま、永久に過ごしたいと思ったジャンヌは、翌朝、唖然とする夫と「何てこと、驚きだわ」と言うマギーの前を通りぬけ、ベルナールとともに車で家を出て行く。この先、彼女はどうなるのであろうか。不安な思いを抱きながら夜明けの危険を潜り抜けた彼女は、新しい人生に向け出発したのだった。三十歳の人妻は一人の女になり、顔を硬直させながらも、確信を持ってその行動に自らの運命を賭けたのであった

 月夜の庭での逢引きのシーンでバックに流れるブラームスの「弦楽六重奏曲」の扇情的なメロディとアンリ・ドカイエの官能的映像美は、この作品の評価を不動のものにした。


志ん生の芸とその家族

2017-07-14 15:00:15 | 古典芸能

美濃部美津子『おしまいの噺ー落語を生きた志ん生一家の物語』アスペクト、2005年。
                      おしまいの噺
 「志ん生」師匠の娘,美津子さんが父母,兄弟の思い出を熱く,優しく語ります。

 破天荒に生きた父(志ん生),しかし話芸では絶品といわれました。著者の弟には馬生と志ん朝がいます。妹に喜美子。

 落語家家族を影で支えたのは「りんさん」(母)でした。極貧ともいえる「なめくじ長屋」での生活。

 父は酒と女に金をつぎこみ,家にあるものをことごとく質に入れてしまったこともあったとか。りんさんは文句ひとついわず,志ん生の芸を信じて(?),内職と夜なべの日々でした。

 ふたりの弟も落語の世界へ。姉である著者の弟想いが行間に滲みでています。

 わたしは2年ほどまえに,志ん朝の落語をCDで10枚ほど聴いて,その芸のつやに感心していたので,この本を大変に興味をもって読みました(「佐々木政談」「抜け雀」「寝床」など)。

 「志ん生」がいかに卓抜な芸人だったとしても、りんさん,美津子さんなど女性の力がなくては,一人前の男はなかったような・・・。そんな感慨に一瞬とらわれました。

 この本は、このブログのカテゴリーで言えば、「評論(評伝)」に落ち着かせるべきなのでしょうが、世紀の話芸の「志ん生」のことが中心なのであえて「古典芸能」のカテゴリーに入れました。

おしまい


フランソワ・トリュフォー監督「大人は判ってくれない(Les Quatre Cents Coups) 」(フランス、1959年)

2017-07-13 15:18:38 | 映画

                 

   原題は直訳では「四百の殴打」であるが、むしろ「悪さ」といったニュアンスの言葉である。1950年代後半にフランスに起きたヌーベルバーグ(新しい波)の記念碑的作品。

 12歳の少年アントワーヌ・ドワエル(ジャン・ピエール・レオー)は狭いアパートで邪険な母(クレール・モリエ)と継父(アルベール・レミー)との三人暮らし。幼かった頃、アントワーヌは両親の喧嘩から彼が未婚の母親の子で、母が中絶するかどうかで祖母と口論になり、祖母の口添えで生まれたとの事実を知っていた。生まれてこの祖母のもとに里子にだされた彼は八歳の時に両親のもとに引き取られたが、親は子育てに関心がなく、つまらないことで始終子どもを叱った。家は貧しく、生活はがさつであった。夫婦の口論も絶えなかった。おまけに母親には男がいるようで、帰宅は残業と称して遅い。父親とアントワーヌの二人での夕食というのも稀でなかった。アントワーヌは、心にいろいろな傷を持った子どもであった。

 学校では彼は、教師に目をつけられていた。授業中、運悪くアントワーヌのところに裸の女性の絵がまわってきたところを見つかり、立たされる。学校は面白くなかった、彼は友だちに誘われ、父母にだまって学校をさぼった。遊ぶ場所は、ゲーム・センター。途中、街角で男とキスをしている母を見た。昼食代を使って遊び、学校へは嘘の欠席届ですませようとするが、「休んだ理由は、おおげさなほどいい」と悪友にすすめられ、教師には「母が死にました」と言い逃れをした。ところが、友だちが家まで欠席をつげに来たので、父母は学校に出掛け、アントワーヌの嘘はばれ、教師に大目玉をくらった。彼は両親とは暮らせない、自分一人で生きていこうと家出を決意し、「お父さん、お母さん、嘘をつきました。もう、一緒に暮らせません。だから、ぼくは一人でがんばります。一人前になったら、話し合いましょう」と置き手紙を書いた。友だちの叔父さんの印刷工場で一夜を明かし、牛乳を盗んで飢えをしのいだ。

 家出をしていても学校には出ていたアントワーヌを母親がむかえに来た。「行儀が悪くて、成績も悪い」と反省する息子に母はこの時ばかりは、優しく、自分の子ども時代の話しをしてきかせ、「父親が出世できないのは学校を出ていないからだから、作文でがんばるよう」に言い聞かせた。少年は作文で努力し、作家バルザックの写真の前にローソクの火をともすが、運悪くカーテンに引火し、またしても叱られることとなった。アントワーヌは再び家出をし、友だちのところに居候。金がなくなると父の会社からタイプライターを盗んで質屋に売ろうとしたがうまくいかない、タイプを返しに戻ったところで捕まり、警察に補導されてしまった。アントワーヌは少年審判所から、ついには少年鑑別所へ。ここで、アントワーヌはサッカーに興じている最中に、海辺へ向かって脱走を試みた。

 何気ない大人の言動が知らず知らずに子どもの心を傷つけ、寂しさに閉じ込めていくことをこの映画は、訴えている。警察から護送車で少年審判所に送られるとき、アントワーヌは夜の街の様子をじっとながめているが、何とも言えずやるせない顔が印象的である。また、最後の脱走のシーン、夢中で走って逃げて海岸まで来るが、そこでアントワーヌの顔がストップモーションで大写しになる。その眼差しは寂しげであり、心の空白を訴えているようであり、何かを求めてすがるようでもある。アントワーヌ少年の多感な心情がみずみずしく詩的に引き出され、印象に残る映画である。トリュフォー監督自身の少年時代を想起させる内容の映画と言われる。第12回(1959年)カンヌ映画祭監督賞


コンスタンティン・コスタ・ガブラス監督「Z」(フランス/アルジェリア、1969年)

2017-07-12 11:44:49 | 映画

                       

   背筋が寒くなるような怖い映画である。このような陰湿な謀略が現代に本当にあったのだろうか。映画の幕開けから不気味な予感がする。国の高級官僚を前に農務次官、憲兵隊司令官がレクチャーをしている。内容はぶどうの病気の予防との類推で国家の成長、治安維持を思想の病害から救う手だてについて。司令官は平和運動、ヒッピーあらゆる思想が病原菌であり、寄生虫であり、それらの根絶と早期予防を熱っぽく語っている。

 この映画は、実際にギリシャで起こった左翼政治家暗殺事件「ラムブラキズ事件」を題材に、その顛末を扱っているが、事件は迷宮入りし、結局、闇に葬られてしまった。映画では舞台は「地中海に面した架空の国」となっている。軍事政権に反対する勢力が日増しに大きくなって行く最中、大物議員で大学教授・医学博士(イヴ・モンタン)の演説会が企画された。彼の暗殺計画があるという噂が流れ、会場提供拒否など当局の嫌がらせがあった。変更された労働組合のホールに向かう途中、彼は何物かに殴られた。さらに、演説を終え、会場からでた直後、自動車事故のように装われて殴打された。実際にはこの事故死は、走って来た軽三輪車の荷台にのっていた暴漢による行為であった。議員は数回の手術を受けるが死亡する。飲酒による過失致死というのが当局の公式見解。事件に疑問を持った予審判事(ジャン=ルイ・トランティニャン)は新聞記者(ジャック・ペラン)と組んで真相究明にのりだし、解剖結果からの頭蓋骨陥没の脳挫傷で議員は転倒したのではなく棍棒で殴打されたこと、暗殺計画に王党派行動隊(CROC)の関与があり、それをあやつっていたのが政府高官、王室、警視総監、憲兵隊司令官であったことなどの証拠から、事件が政治的な暗殺であったことをつきとめた。検事総長からの圧力にも屈することなく、予審判事は警視総監、憲兵隊司令官らを共犯容疑の起訴を通告した。

 映画そのものはここで終わる。その後の経緯が字幕で入り、軍事政権が権力掌握に出て、関係者が不起訴となったこと、証人たちが行方不明になったり、死んだりしたこと、予審判事が解任されたこと、新聞記者が公文書不法所持と流布で懲役になったことなどが伝えられる。真実が眠らされたのである。また、軍が禁じた項目が列挙される。長髪、社会学、ミニスカート、ポピュラー音楽、トルストイ、ソフォクレス、現代数学、等々。要するにあらゆる人間的価値が否定されたのである。暗澹たる気持ちにさせられる。Zの文字は古代ギリシャ語で「彼は生きている」という意味。第22回カンヌ映画祭主演男優賞(ジャン­­=ルイ・トランティニャン)。第42回(一九六九年度)アカデミー賞外国語映画賞。


「ヘッドライト(Des Geno Sans Importance)」(アンリ・ヴェルヌイユ監督、フランス、1956年)

2017-07-11 20:22:31 | 映画

             

 
親子ほどにも年が違う男女にも愛は生まれます。その愛は純粋そのもの。何の打算もそこにはありません。それにもかかわらず、社会、家族の制約は超えられないのです。束の間の幸せは、長続きしなません。不幸がはりついている一時の幸福。


  人生は万人に平等ではなく、不公平にできてはいないでしょうか。貧しい者には、幸福を味わうことも、限られた範囲でしか認められないのでしょうか。

 この映画は、初老のトラック運転手ジャン・ヴィアール(ジャン・ギャバン)と街道の宿屋を兼ねた居酒屋「ラ・キャラバン」の若い娘クロことクロチルド(フランソワーズ・アルヌール)との哀しい愛の物語です。原題は「取るにたりない奴ら」。

 物語はこの運転手、ジャンの回想から始まります。ボルドーに近い街道沿いの「ラ・キャラバン」で仮眠をとる彼の脳裏に、今は亡きクロチルドの面影がちらつきます。二年前のクリスマス・イブの夜、同僚のベルティと長距離運転で立ち寄ったそこにクロチルドがいました。

 ふたりは親子ほどにも年が違いました。ジャンには長年の貧乏暮しで生活疲れした妻と生意気盛りで女優を夢見る娘ジャックリーヌ、それに二人の男の子がいました。家族は夜勤の仕事から戻っても愛想もなく、荒んでいました。妻はイヴに帰って来なかったことを怒りましたが、ジャンの会社の仕事はそれほど大変なのです。

 陰鬱な生活、厳しい労働から逃れたい寡黙なジャン。母と義父は自分を受け入れてくれず、自活していかなければならない若いクロチルド。孤独という点での共通項はふたりを結びつけました。この関係はジャンにとっても、クロにとっても心地よいものでした。パリとボルドーを往復していたジャンは週に二度、クロに会い、クロも彼が来ると心が揺れました。深夜のトラック運送のオアシスです。

 5ヶ月がたりました。ジャンは、クロのところに必ず寄りました。愛情が強く通い合うほど、クロは立ち寄るだけで、ろくに話しもできないジャンに不満を向けるようになります。「愛じゃなくて、習慣よ。習慣にしたいの?」と。「妻子を路頭に迷わせることはできない」と現状を壊して新しい境地を見出そうとしないジャンに、クロは腹をたてました。

 クロとのボルドーへの二人だけの旅行の計画が実現できそうになったとき、ジャンは仕事の路線をパリとボルドーの往復から別のルートに変更されてしまいます。ボルドーの路線でジャンが気ままに、女と過ごしていたのを知った会社が故意に決めた配置転換でした。ジャンは、このことから生じた諍いで会社を辞めてしまいます。収入源が絶たれてしまいました。それは、ジャンがクロの待つ店に行くもできなくなったことを意味しました。

 クロは、そのとき既に妊娠していました。ジャンから音沙汰のないことに心を痛め、会社のジャン宛に手紙を出しましたが、手紙は首になったジャンには届きませんでした。彼女は思い余ってパリに出て、ようやくジャンとその家族に会いましたが、妊娠を打ち明けることはできませんでした。ジャンはそのことを後日、会社から家にまわって来たクロの手紙で知りました。

  しかも、この手紙は娘のジャックリーヌに先に開封されて読まれてしまっていました。そこには妻もいあわせました。クロとの仲が家族に知られるところとなったジャンは、「今は用無し」と家を出ました。クロはパリの連れ込み旅館の女中として仕事を得ましたが、妊娠で思うように体が動きませんでした。女将のマダム・バコーは気さくな人で、そんなクロを追い出すでもなく、費用までくれて、堕胎を勧めます。

 かつての同僚に勧められた新しい運転手の仕事。ジャンはクロチルドを連れだし、トラックに同乗させてボルドーに向かいました。クロは堕胎手術後の経過が思わしくなく、衰弱。ヘッドライトをつけたトラックは夜の降りしきる雨の国道をひた走りましたが、途中、道を間違えたばかりか、濃霧で視界が悪く走れなくなりました。ジャンはトラックから降り、近くの家から電話で救急車を呼びました。その救急車も霧で到着が早朝にまで遅れ、担当員の手当ての甲斐もなくクロチルドの命は、はかなく消えてしまいました。余りにも悲しい結末でした。底辺で生活する人は、この世に生まれて幸せをつかむ資格がないのでしょうか。可愛そうすぎるクロチルド。

 ジョゼフ・コスマのメロディは、貧しい生活者の人生のはかない喜びと哀しみを切々と訴えるように流れます。


「カビリアの夜(Le Notti Di Cabilia)」(フェデリコ・フェリーニ監督、イタリア、1957年)

2017-07-10 21:49:52 | 映画

     

   男に何度も騙されながら、無垢な魂の持ち主であるカビリアは、気高く生きて行く,というのがテーマです。


  カビリア(ジュリエッタ・マシーナ)は、夜の女。純真無垢な彼女はジョルジュという男友達と散歩をしていましたが、バッグをとられ、川べりで突き落とされ、溺れかかります。子どもたちに助けられ一命をとりとめます。息を吹きかえして事の次第を理解した彼女は、ジョルジュを「ダニ野郎」「地獄に落ちろ」と罵り、家のなかの彼のものを焼きすてました。

 それも束の間、今度は映画俳優のアルベルト・ラツェリ(アメデオ・ナザーリ)に誘われナイト・クラブへ。恋人との諍いでやけになっていた彼は、暇つぶしにカリビアに声をかけたのでした。別段、悪巧みがあったわけではありません。家に連れて、夕食をすすめます。ベートーヴェンの交響曲5番を聴き、シャンパンを飲み、キャビア、ロブスターなどを食べようとしたところに、恋人が乗り込んで来ました。アルベルトはカビリアをフロ場に隠し、彼女と諍いに決着をつけようとします。

 「憎み合う前に別れよう。君の嫉妬はたくさんだ。女と話すのも仕事だ」とアルベルトが恋人に喋っているのを、鍵穴から見ているうちに、寝込んでしまったカリビア。翌朝、彼女はアルベルトに起こされ、ベッドのなかで眠っている恋人に気づかれないように帰されます。俳優との夢のような一夜は、こうして泡のように消えました。

 「神の愛」の巡礼集会に参加した彼女は、聖母に願いごとをと誘われます。集会にまき込まれた彼女は、勝手が分からずおろおろしていましたが、一瞬、敬虔な気持ちになり「生活を変えたいのです、力をお貸しください」とひたすらに祈るのでした。集会が終わって、カリビアは「わたしのすることを見て、家も何もかも売り払う、こんな生活とは縁をきって出て行くの」と叫びますが、奇跡は起こりません。「誰も変わらない、みんな変わらない」と無力なマリアに、怒りとも、悲しみともつかない言葉をぶつけました。

 ショーを見ようと入った芝居小屋でカリビアは客席から舞台に引き出され、催眠術をかけられます。催眠のかかった状態で、青年オスカーと恋に落ちたマリアの役を演じさせられます。舞台では、花を摘んだり、「メリー・ウイドウ」のワルツにあわせてダンスをしたり。催眠を解かれキョトンとしているカリビアに客席は、拍手喝采。「わたしに何をさせたの」と怒ってその場を出た彼女を追って来た青年。彼は自分の名はオスカー・ドノフリオ(フランソワ・ペリエ)で、舞台でカリビアが演じたラブシーンの相手と奇しくも同じ名だと言います。デート約束をし、付き合いが始まりました。彼は、ナポリ近郊の寒村で生まれ、家族はなく一人ぼっちで貧乏を知り自活してきたと、嘘とも本当ともつかない身上話をしました。二人は親密になり、彼はカビリアに結婚を申し込みました。

 真に受けたカビリアは、女友達のワンダにオスカーがいい人で、すぐにも結婚すると嬉しさ満面に吹聴。今度こそ幸福をつかめると、家も家具も売り、持参金75万リラを用意します。ところが、このオスカーも「金が目当て」の男でした。林で散歩中、彼に「湖に夕日を見に行こう」と誘われた彼女はまた、あり金をまきあげられてしまいます。あまりの惨めさにカリビアは、「もう生きていたくない、殺して」とその場に泣き崩れ、転げまわります。

 とぼとぼと歩く彼女。それも束の間、彼女の泣き顔に、再び笑みが戻ります。ギターやアコーディオンを鳴らす若者とともに生き生きと歩く彼女。男によって傷つけられたカビリアは、ある女性に「ボナセーラ(こんばんは)」と声をかけられ蘇生します。ニーナ・ロータの哀切極まりないメロディをバックに、カビリアの泣き笑いのクローズ・アップ。「カーニバルによって人生が肯定される」というフェリーニの人生哲学が示された名場面です。

 社会的地位がなく、金持ちでもなく、あるがままの人生を受け入れて生きる女性カリビアの無垢な魂は、逆に社会的地位があり、有名であり、金持ちである男性の狡猾さ、偽善、悪業を断固として否定する強さがあります。疑うことを知らず、愛を信じて生きて行く姿、無垢な女の魂の遍歴を優しい眼差しで捉えた作品です。主演のジュリエッタ・マシーナは、第10回カンヌ映画祭主演女優賞。第30回(1957年)アカデミー賞外国語映画賞。

                 


「髪結いの亭主(La Mari de la Coiffuse)」( パトリス・ルコント監督、フランス、1990年)

2017-07-09 22:57:46 | 映画

            

 12才の少年アントワーヌは、床屋に行くのが大好きです。いきつけの床屋は男性専用でアルザス出身の少し太めの美女シェーファー夫人が経営しています。彼は大人になったら女の床屋さんと結婚し、髪結いの亭主になろうと胸をふくらませます。その物言いは父親をいたく怒らせ、頬を叩かれました。

 成人したアントワーヌ(ジャン・ロシュフォール)はある床屋の店を訪れ、美しい女性理容師マチルド(アンナ・ガリエラ)に出会います。一目で彼女を見初めた彼は、いきなりプロポーズをします。一端は軽くあしらわれましたが、再びその店に出向きます。そしてまたプロポーズ、そして結婚。

 理髪は彼女が担当し、彼はそれをながめる毎日です。理髪店にきてむずかる子どもを奇妙なアラブ風の踊りであやす程度が彼の役割しか果たしません。店の窓から射し込むやわらかな陽ざしのなかで、匂うような官能美を放つマチルド。二人は10年もの間、愛し合い、色褪せることのない甘い至福の暮らしを続けました。「二人が離れるのは死ぬとき」とマチルドは言います。これがこの映画の伏線になります。

 ある日突然、悲劇が訪れる。二人の男性のお客が「死」とは何かについて会話をかわし、店を出ていきます。マチルドは、彼らの背中を見ながら「また背中がまがった、人生って嫌ね」とつぶやきます。夕立を背景に店のなかでマチルドは、アントワーヌと濃厚な愛を交歓した直後、彼女は「買い物をしてくる」言い、傘もささず店をでました。そして、川に身を投げ、自ら命を絶ちました。

  遺書で語られた死の理由に、彼女の愛の深さが示されていました。「あなたが死んだり、わたしにあきる前に死ぬわ。優しさだけが残っても、それでは満足できない。不幸より死を選ぶわ。抱擁の温もりやあなたの香やまなざし、キスを胸に死にます。あなたがくれた幸せな日々とともに死んでいきます」と。残されたアントワーヌは、客とともに得意の踊りを披露しながら、一人で店を続けます。

 性愛とともにある精神的な愛。彼女が夫を求める姿に性愛の深さが示され、自殺することで永遠の精神的な愛が飛翔したのです。世話物風の味わいをみせながら、豊饒な悦楽の後の深い哀しみを結晶させた独特の美学を持った映画として記憶に残ります。


「草原の輝き(Splendor in The Grass)」エリア・カザン監督、アメリカ、1961年

2017-07-08 11:05:02 | 映画

              

 
厳格な権威、古いモラルと、秘められた若い恋人同士の愛との相克。若者の愛、性、モラルについて真摯な問題提起をした注目すべき作品です。

 タイトルは、イギリスの詩人ワーズワースの詩句からとったものです。映画のなかで主人公のディーニー(ナタリー・ウッド)がこの詩を朗読する場面があります。

 1928年、カンザス州南部の高校三年生のバッド(ウォーレン・ベイティ)は、フットボールのキャプテンで女性徒の人気の的。彼には町の食料品店の娘ディーニーという恋人がいました。バッドは結婚を前提に、ディーニーの肉体を求め、苦しんでいました。

 彼女はバッドを深く愛しながらも、セックスを不浄なものとする厳格な教育を母親から受けていたので、最後の一線である肉体をバッドに許しません。石油成金で現実主義者のバッドの父は「すべての希望をお前にかける」「女と遊ぶのなら簡単な娘を選べ」と言います。バッドはディーニーとすぐにでも結婚し、農科大学に進んで、将来は牧場をもちたいと望んでいましたが、父は彼をエール大学に入学させ、石油会社に就職させることにやっきで、ディーニーとの恋愛には否定的でした。

 バッドにはジニーという姉がいました。ジニーはディーニーとは対照的な奔放で「とんでもない女」と風評がある女性でした。男関係はだらしなく、妊娠、中絶の経験があります。バッドに対しても、結局「パパのいいなりの意気地なし。今に後悔するけど、その時は手遅れよ」とはっぱをかけます(ジニーはその後、自動車事故死)。

 バッドはディーニーを心から愛し、夢中でそたが、乗り越えられない一線があることにいつも苛立っていました。その気持ちを彼はスポーツに向けて抑えていましたが、ディーニーの同級生で、浮いた話の多いファニタと関係を結びます。

 その噂がディーニーの耳に入り、気もそぞろの彼女は学校でワーズワースの詩の朗読中に突然泣きだし、以来家にひきこもってしまいました。母がバッドとの関係を聞き、彼を一度呼ぼうかと問うと、ヒステリックに「そんなことをしたら私は何をするか分からないわ。バッドはわたしを汚してもくれなかった。わたしは生まれたままの処女よ。誰にも汚されない処女。わたしはいい子。身持ちの良い子。パパとママの言うなりになって。パパとママは憎い」と取り乱します。情緒の不安の露呈。気が落ち着くと長い髪をカットしてしまいました。

 二人の関係は疎遠になりましたが、卒業パーティで再会。ディーニーはバッドに「身持ちなんか構わない。このままでは気が狂いそう。どうにでもして。自尊心なんかどうでもいい。私は死にたい」と迫り、その場を走り去りますた。直後、彼女は車のなかでバッドの友達に抱きつかれます。前後不覚の状態のまま、滝に飛び込みます。運よく仲間に助けられ、一命をとりとめました。

 ディーニーの父は、彼女を療養所に入れます。他方、バッドはエール大学に入学したものの、本意ではないため結局、学業に身が入りません。成績は悪く落第し、早々に退学。株で大儲けをたくらんでいた父は、ウォール街に始まった株の大暴落で、飛び降り自殺します。大学をやめたバッドは在学時代に通っていたピザ・ハウスのウエイトレス、アンジェリナと結婚し、念願の牧場を営むことになります。

 それから数年。病気が治癒し精神的に回復したディーニーは、療養所で知り合ったシンシナティに住むジョニーという名の医者に結婚の申し出をうけました。療養所を退院し、家に戻ったディーニーは、父からバッドが町のはずれの牧場に居る事を聞き、友達と彼を訪ねます。

  そこには、妻のアンジェラと男の子がいました。彼女はその事に寂しさを感じながらも、今ではひとまわり成長し、これからが自分の人生だと思うのでした。しかし一方で、バッドにもディーニーにも何かが欠落していると感じていたことは疑いがなかったのです。根底にあったのは「何故自分は天より授けられた自由の力を行使しなかったのかという悔しい思い*」した。

 友達に今でもバッドを愛しているか問われるディーニー。彼女はこれには応えず、この場面で再びワーズワースの詩が流れ、エンディングとなります。

 Though  nothing  can  bring  back  the  hour  of  splendor  in  the grass、 of  glory  in  the  flower、  we  will   grieve  not.  Rather find strength in what remains behind.(草の輝くとき 花美しく咲くとき/再びそれは還らずとも 嘆くなかれ/その奥に秘められた力を見出すべし)

 *なかにし礼『時には映画のように』読売新聞社、1997年、123ページ。


ブーベの恋人(La Ragazza di Bube) ルイジ・コメンチーニ監督、イタリア/フランス、1963年

2017-07-07 20:22:55 | 映画

                    

  人を愛するなかで人間として自立し、成長していく女性を描いた気品のある作品。


  マーラ(クラウディア・カルディナーレ)が刑務所にいるブーベ(ジョージ・チャキリス)に電車で逢いに訪れるところから映画は始まります。何かを思いつめた眼差し。白いスカーフは清潔感があり、印象的です。二週間に一度のブーベとの面会です。

 ブーベは刑務所に入って7年、あと7年刑期が残っています。ブーベが刑務所を出ると、そのとき彼は37才、マーラは34才。遅い結婚になるが子どもは持てます。刑期が終わるのを待ちながら、マーラはブーベのいる刑務所に面会で通い続けます。

 ブーベは通称。本名はアルツロ・カペリニ。ブーベはファシストの残党と闘うパルチザンで共和党員です。ブーベとマーラの最初の出会いは、1944年6月、ブーベが北イタリアのマーラの家に兄(異父兄弟)サンテの死を知らせに来た時でした。兄はドイツ人のファシストに捕まり、殺されました。マーラは、初めてあったブーベに心が惹かれます。ブーベも同じで、彼女に絹でできた落下傘の布をプレゼントしました。一ヶ月後、ブーベは再び、今度はマーラに逢う目的で家に立ち寄りました。プレゼントの布でブラウスを縫ったマーラは、それをブーベに着てみせました。淡い愛の交流です。

 ところが任務で彼女の前から立ち去った彼からは、その後長く、音信がなかったのですが、ようやく手紙が来ました。マーラは愛の告白かと期待しましたが、それは家族のみんなをいたわる手紙でした。マーラは「家族より私のことを思って欲しい」と不服です。冬を迎え、ブーベは再び現れ、マーラの了解のないまま彼女の父に結婚の許しを乞いました。自分の気持と別なところで行動する勝手なブーベに腹をたてるマーラ。

 数ヶ月経ち、ブーベは突然、彼女の家に来ました。ブーベはファシストに協力した司祭とのいざこざのなかで憲兵に射殺された同志の復讐のため、憲兵とその子どもを逆に射殺する事件を起こしてしまたのです。ブーベは、この事件の犯人として追われました。ブーベは身を隠すため故郷のボルテラに帰ることを決め、許婚のマーラも連れて行きます。ボルテラに戻る途中、二人はコッラという町によりました。マーラはこの町でブーベに蛇皮のハイヒールを買ってもらったり、レストランで食事をしたり、ひとときの愛を楽しみました。それは若い二人の新しい出発の予感でした。

 ボルテラに着いた二人。ブーベの家は汚く、家族の諍いもたえませn。ここにも官憲の追手は、迫っていました。二人はかつてパルチザンが利用した町外れの紙工場の廃屋に身を隠しました。「隠し事はしない」と約束する二人。しかし、ブーベは外国に逃亡しなければならず、二人は当分、離れなければならないことになります。別れを前に、「なぜ、私を抱かないの。私を抱きたくないの」と迫るマーラ。「とても、抱きたい。でも、もう婚約者と思うことはない。愛しているからこそ、幸福にしたいが、できないからだ」とブーベ。身をよせて朝をむかえます。二人の愛は、急速に燃え上がります。

 厳しい時代背景のなかで結ばれた二人、とくに幸せな結婚を夢見るごく普通の屈託のない若い女の子だったマーラは、恋人ブーベとの愛情のなかで彼のおかれた立場を理解し、強い精神を持った人間として育って行きます。リリシズムに貫かれたストーリー展開は清潔感で溢れています。