【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

山田和夫『映画で世界を読む』新日本出版社、2002年

2012-09-28 01:23:43 | 映画

              

           

 映画の歴史的,社会的背景を論じて,著者の右に出る人はいない。その山田さんが、先日、亡くなった。心からお悔やみ申し上げたい。中津川映画祭という映画の祭典があり、いまも続いているが、一度だけお会いしたことがあった(2002年10月)。一緒に写真に入っていただき、この本にサインをいただいた。

 本書では「海の上のピアニスト」「タイタニック」でアメリカ移民の問題を,「ウエールズの山」でイングランド,アイルランド,スコットランド問題を,「ミツバチのささやき」でスペイン人民戦線の問題を,「旅芸人の記録」で現代ギリシャの悲劇を,「エビータ」でナチ戦犯と南米のペロニスモとの関連を,「苺とチョコレート」「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」でキューバ社会主義を,「芙蓉鎮」「青い凧」で中国文化革命の負の遺産を,「風の丘をこえて」と絡めて朝鮮問題を,「友だちのうちはどこ」でイラン革命の意義を,「季節のなかで」との関係でベトナム戦争を,「シンドラーのリスト」でホロコーストを,それぞれ論じている。

 以上は、この本のなかでわたしが観たことのある映画。観ていないものでは「スペシャリスト」「無人の野」「猿の惑星」「ユリシーズの瞳」「グランド・ゼロ」「遠い空の向こうに」は必見のようだ。

 ハリウッド映画のひとつの特徴として,「自衛団」思想=世界の憲兵,「核肯定の核固執論」があることの指摘は重要である。


片野優『フクシマは世界を変えたか-ヨーロッパ脱原発事情-』河出書房新社、2012年

2012-09-27 00:32:54 | ノンフィクション/ルポルタージュ

               

  著者の思いは「本書が脱原発意識を少しでも深める一助になれば幸甚である」ということ。


  この願いを実現するために、第一章では欧米の原発事故の実態が、第二章ではフクシマ原発事故が欧米各国のエネルギー政策に与えた影響が、第三章ではヨーロッパ格好での脱原発エネルギー政策に関するヒアリング調査の結果が、示されている。

  より具体的にみていくと、第一章では旧ソ連時代のマヤーク核施設でおこった3つの原子力事故の参事(1950-60年代)、イギリスのウィンズケール原子力事故(1957年)、アメリカのスリーマイル島原発事故(1979年)、ウクライナのチェルノブイリ原発事故(1986年)、ドイツのエルベ川沿いの原子力施設で起こったと推定される放射能漏れ(1986年)、フランスのサン・ローラン・デ・ゾー原発での核燃料溶融事故(1963年)、南フランスのガール県マルクールの核施設での爆発事故(2011年)などが、福島第一原発事故と照合されながら解説されている。情報の隠ぺい(ソ連、イギリス)、住民の強制移住(ソ連)、確率がきわめて低いとされた原発事故が小さな人災の重なりで現実化した実相(アメリカ)などは、明らかにフクシマ原発事故と重なる。チェルノブイリ原発事故は、いまもって真相が不明で、著者は該当箇所で3人のオペレータの人間的確執に踏み込んで事故の原因に迫り、また新たな事故原因としての地震説に言及している。

  第二章ではフクシマ原発事故の主要な国の反応を紹介している。ただちに反原発の方向を打ち出したドイツ、イタリア、原発路線を変更しないことを宣言したフランスでは、推進派のサルコジ大統領が原発半減を唱える社会党のオーランドに大統領選挙で完敗した(本書出版時では、両者の一騎討ちが予定されていることが指摘されている)。イギリスは独自の反応を示し、原発支持派が増加する珍現象がおきた。

  第三章ではポスト原発エネルギーを睨んだヨーロッパ各国の再生可能エネルギー開発の実態が紹介されている。著者の取材によるもので、オーストリアの巨大バイオマス発電プラントを成功させたウィーンの経験、バイオマスプロジェクトで蘇生したギュッシングの場合、ソーラーシステム開発を地道にすすめるグラーツなどである。オーストリア、ハンガリーのバイオマス発電は森林国日本にとってヒントとなりうる、ようだ。イタリア、アイスランドの地熱発電も火山国日本にとって有益だ。デンマークの風力発電も日本にとって参考になるはずである。イタリアの凧発電は目新しい試みで、今後の進展に期待が寄せられている。

  フクシマ原発事故は各国のエネルギー政策に大きな影響を与え、また与えつつあるが、著者は日本人の意識はまだ変わりきれていない、と不安を募らせている。


三国清三『料理の哲学』青春出版社、2009年

2012-09-26 00:23:23 | 医療/健康/料理/食文化

            

   四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」のフレンチの店を開き、いまやこの分野ではおしもおされぬ第一人者の三国シェフがフレンチの奥義、哲学を、自身が神様として敬愛する5人(正確には6人?)のフランス料理人(フレルディ・ジラルデ、トロワグロ兄弟、ポール・エーベルラン、アラン・シャベル、ジャン・ドラベーヌから学んだものをベースに語った本。


   著者は北海道の増毛で漁師の子として生まれ、札幌のグランドグランドホテルで料理人の丁稚奉公。次いで東京の帝国ホテルで修行するなかで村上料理長に見込まれ本場のパリへ。ここでフレンチの神様たち、三つ星シェフと出会い、それぞれに個性的な一流シェフにフレンチの真髄を学ぶ。

   三国の「奇跡の一皿」はいい素材を使うことを基本に、毎月一回新たなメニューの作成、伝統(オリジナル)を継承しつつ新たな料理への挑戦によって裏付けられる。「ソース」へのこだわり、「肉を焼くとはどういうことか」、「香草」の活かし方、「酸味」の加減など、ミクニの秘密が開陳される。しかし、それらも「料理人が最低限守らなければならないのは、『食べる人を楽しませ、満足してもらえるもの』をつくることだ。料理はこれに尽きるのだ」という言、「すべてに『もてなす心』に」という姿勢に収れんされる。

   最後に料理人としての人生哲学が綴られている。それらは、人と同じことをしたら終わり、失敗(食中毒)を踏まえての再スタート、子供たちの味覚を育てる、「食」はどこへ行くのか、料理は時代とともに呼吸している、第5章の各小見出しに続く文章のなかに刻みこまれている。


高任和夫『転職-会社を辞めて気づくこと-』講談社、2004年

2012-09-25 00:25:45 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

            

  著者はかつて総合商社に勤務していた。在職中から小説を書き二足のわらじの時期がしばらくあり、50歳になった時点で依願退職。その自身の経験の話からスタート。続いて、山一証券が自主廃業(1997年11月22日)したことを契機に、転職に直面した山一マンの本音がまとめられている。


  終身雇用制は過去のことであり、著者はいまを「職業多段階時代」と特徴づけ、その時代を生きる人々の姿を山一マンに見ている。会社勤めのサラリーマンの悲哀を描いた本は、少なからずある。しかし、会社を辞めた後のことについて書かれたものは、それほど多くはない。

  「第三章:会社を辞めるための準備運動」「第四章:家族との平和条約」「第五章:会社を辞めることを怖れるな」では、この退職後の過ごし方を真摯に具体的に考察している。会社を辞めてから何をすればよいのか、どう過ごしたらよいのか、「地域社会」への溶け込み方、転職後の友人の確保の仕方、妻との車間距離の取り方、「半隠居」の勧め、など参考になる提言がいくつかあるので、一読に値する。

  余生が長くなった今日、ありあまる時間をいかに使うかは、社会全体にとっても、個々人にとっても深刻な問題になりつつある。


パリ紀行⑩(トラベルとトラブル)

2012-09-24 00:02:22 | 旅行/温泉

         

 パリ紀行も今回をもって最後としたい。テーマは「トラベルとトラブル」。


 旅行(トラベル)には、トラブルがつきものである。それが長期にわたるにせよ、短期間にせよ、旅行は限られた時間制約のもとでの行動なので、旅行計画を綿密にたてるにこしたことはない。
 計画の範囲は広い。行程の効率性の検討はもとより、コストや持ち物の確認、訪問先の情報入手など。旅行は多かれ少なかれ時間制約をともなう生活空間であるから、あらかじめの設計図、プランがたよりないと無駄、損失に結果し、後悔することになる。計画をしっかりもつことで、トラブルに遭遇したり、巻き込まれることを未然に防ぐことができる。

 しかし、旅行が計画どおりにいかないことも事実である。机上のプランどおりに進むことは稀であるから、ことが起こっても柔軟に判断し、臨機応変に対処できるようにしなければならない。旅行の醍醐味はそこにあるのかもしれない。

 一般論で言えば上記のようなことなのだが、人にはそれぞれに個性があるので、この計画性と現場主義とのウエイトづけは、旅行する当事者によって異なる。計画を綿密にたてることを重視する人もいれば、それは最低限におさえ、現場での対応に重きをおく人もいる。わたしは、こと旅行に関しては、計画性に乏しい人間と自覚している。計画をたててもそのとおりにならないと思っているので、ガイドブックをあらかじめ読むことが得意でないし、情報の入手も十分でない。反省しているが治らない。

 話が予定していないほうに向かい始めたので、軌道に戻して、今回の旅行ではパスポートの紛失も、持ち物の盗難もなく、旅程は比較的順調だった。同行人の用意周到な計画があずかって大きかった。

 トラブルを、小さいもの、トリビアルなものも含めて列挙すると、同行人の転倒による軽い怪我、ルーブル美術館での入口の早合点、モロー美術館の休館日・休憩タイムおよびマルモッタン美術館が改装中との情報把握の不徹底、日本料理店「きんたろう」を出てからの迷子、帰国の日にシャルル・ドゴール空港でのバスから下車する場所の誤りがある。最初に掲げた同行人の怪我以外は、結果オーライだったし、この程度の躓きなら必ず生じることなので、「よし」として、ここでそれらの顛末をひとつひとつ書くことはしない(ルーブル美術館での入口の早合点、モロー美術館の休館日・休憩タイムの情報把握の不徹底については既に当該の箇所で言及した)。

 同行人の怪我は、一番大きなトラブルだった。怪我をするにいたった経緯は次のようであった。
 セーヌ河は遊覧船(バトビュス、「バト」は船の意、「ビュス」はバスの意)で観光できる。エッフェル塔の前、オルセ美術館前、シテ島をまわり、ルーブル美術館前を通過して、時計廻りと反対に周航する。一回り一時間ほど。多くの橋の下をとおり、河からの眺めは趣があり、川面をわたる風がここちよい。人気の観光コースである。

 わたしは同行人とエッフェル塔前から、これに乗船した。日射しが強かったので、これを避けるため座席をあちこち変えていたが、そのうち疲れがでてきたのか、オルセ美術館前を過ぎたあたりからルーブル美術館前あたりまで、居眠りをしてしまった。シテ島あたりは記憶がない。、ここら辺はノートルダム寺院が見えて眺望がいいスポットである。バトビュスは15ユーロだが、コースを一周すると降ろされるわけではなく、望んでいればいつまでも乗っていられる。いつ、どこで降りてもよい。それに一日何回でも乗船できる。

 わたしは同行人の許諾を得て、コースを一周してからさらに見そこなったノートルダム寺院をみるためにもう半周ほどして、ルーブル美術館前で下船することにした。そこからならホテルまで歩いて帰れる。

 思惑どおり、ルーブル美術館で下船。船着き場から上方の遊歩道まであがって、やや広めの車道を渡ろうとしたまではよかった。信号は赤だったが、車の往来はなかった。パリでは信号が赤でも車がきていなければ人々は平気で車道を横断する。危ないことだが、習慣化している。その習慣が身につきはじめていたわたしたちは、赤信号の車道をわたりはじめた。車はきていなかったが、遠くからオートバイが徐々に近づいてきたことに気をとられた同行人は、車道の中央の低い分離帯に躓ずいて前のめりに転倒した。その様子を遠くから見ていたフランス人が「大丈夫ですか」と声をかけてきたほどだったから(フランス語はわからなかったが、そういうことを言ったのではなかろうか)、危険な倒れ方だったのだろう。

 同行人はこの転倒で、左足の親指をつき指し、時間の経過とともに軽い腫れの症状にみまわれた。腫れは足首から下に広がり、応急処置で持参の膏薬で湿布し、様子をみた。傍からみると何とも痛々しそうだった。大丈夫だろうかという想いが去来した。幸い、歩けなくなるまでにはいたらなかったが、歩行に若干の支障が懸念されたため、翌朝、薬屋で湿布をしてもらい、比較的足に負担がかからないサンダルをもとめ、観光を続けた。痛みの詳細は本人しかわからないが、旅行を継続できたのは、同行人の気力だろうか?

 その後、この怪我にともなって発生するかもしれない保険の手続きの仕方をANAの事務所で問い合わせた。ここで、いろいろなことがわかった。現地の薬屋で購入したものは保険の対象外であること、帰国後の治療は対象になるがそのためには帰国前に現地で必要な手続きをしておかなければならないこと、などである。約款には書いてあるのであろうが、人は保険には入ってもその適用を実際にその適用をうけなければならない段になって初めて真剣になる。トラブルにあって初めて行動し、考え始める。

 人生は旅行とかさなる部分がある。計画をしっかりたてることは大事だ。しかし、計画通りにいくことはまずないから、その都度立ち止まって臨機応変に問題に対処できる能力が必要だ。そんなことを考えながら、いまパリでの旅を回想している。


パリ紀行⑨(国立自然史博物館)

2012-09-23 00:21:54 | 旅行/温泉

       
 手許に一枚の絵葉書がある。国立自然史博物館でもとめたものである。動物たちの行進の写真が、ハガキになっている。先頭からゾウ、サイなど。3頭のシマウマ、3頭のキリンが目立つ。子どものキリンもいる。他にカバ、シカ、さらに小さな動物もたくさん隊列をくんで続いている。これだけ連なって行進しているのを見ると、壮観だ。この行進の展示は、「アフリカのキャラバン」と名付けられているそうだ。

 一頭、一匹の大きさはほぼ実物大だろうか。だから剥製のように見える。この写真はここの博物館の目玉、象徴で、ガイドブックに出ているほど有名だ。
 
 国立自然史博物館は、3つの館からなる。われわれが訪れたのは、「進化の大ギャラリー」。他に鉱物学・地質学館、比較解剖学・古生物学館がある。この全体がパリの植物園内におさまっている。すごい規模だ。

 博物館の位置は、パリ左岸、セーヌ川沿い、カルチエ・ラタンが近い。

 進化の大ギャラリーの誕生は1889年。1994年に改装され、再オープンした。建物に入ると(0階;日本の1階に相当する階がフランスでは0階)大きなクジラの骨が目に飛び込んでくる。ここは4層(階)からなり、エレベータで移動するのが便利。0階では上記の動物の行進の他に、海の生物の世界を体感できる。1階は大地、アフリカなどのさまざまな地域の動物をみることができる。ここに「アフリカのキャラバン」の展示がある。上は吹き抜けになっている。天井にむかって、鳥、さるなどが見える。このように館の下から上方にいくにしたがって、実際の動物の生息の様になっているのである。

 いろいろな工夫が見事だ。その工夫はさりげなくなされているので、工夫の跡が露骨でないのがいい。それゆえ、観る人は自分の関心、気持ちにそいながら、自然に愉しんでいける。子どもは子どもなりに、大人は大人なりに。

 フランスの学校は9月1日から新しい学年が始まる。直前だったので、子どもの姿がめだった。両親などに連れられて来ていた。子どもたちの眼は、好奇心で一杯だ。あかずに、集中して観ている。

 同行人が面白いことを口にした。館が夕方になって閉館し、真っ暗な暗闇になると、不動のさまで展示されていた動物、生物に生命が戻って、いろいろな会話を始め、戯れたりで、彼らだけの生きた世界が繰り広げられる。そこは素晴らしい世界で、人間には知られない、計り知れない空間。そのドラマは、夜明けとともに終焉し、動物たちは何事もなかったように元の位置に整列。なろほど、奇想天外ではなく、子どもたちが見る夢の世界にはありうるかもしれない。

 「進化のダイギャラリー」はこの日、午前中に見物したのだが、ひととり見終えると、正午近く。付近のベンチにすわってもってきたパンやリンゴなどで簡単な食事をとっていた。そこへ、3人姉妹の小さなこどもを連れた母親。簡単な会話をかわした。わたしがもっていた日本の絵葉書を子どもたちにわたすと、喜んで受けっとって、眺めていた。4歳の女の子は、フランス語の「メルシ」を日本語では「ありがとう」という、ことを教えたら、一度で覚えてしまった。何度も「ありがとう」と愛くるしい表情で繰り返していた。覚えのいい子で、感心した。この子どもさんたちも、博物館の展示を楽しんだのだろうか。屈託がなかった。


パリ紀行⑧(ギュスタフ・モロー美術館)

2012-09-19 00:02:31 | 旅行/温泉

              

  美術館訪問の最後は、ギュスタフ・モロー美術館。この美術館を最後に訪れようと計画したのではなく、結果的にそうなった。その顛末は、あとで述べる。


 モロー(1841-1919)は、19世紀のキリスト教の話をテーマにした幻想的な作品をのこした画家。美術館はもとはモロー自身の私邸で、アトリエが美術館に改造された(1903年)。熱狂的支持者がいたこともあって、死後すぐ開館したモロー美術館だったが、古典的な題材の作品が多く、時代の風潮に必ずしもあわなかったこともあり、20世紀の前半はほとんど忘れ去られた美術館だった。

 再び脚光を浴びたのは、1961年パリでの個展がきっかけ。訪れた人は、壁一面に展示された膨大な作品に驚愕。約1200点にもおよぶ油彩、水彩、カルトン、約5000点の素描は、「オイディプスとスフィンクス」「出現」など作品の習作から完成にいたる全行程を垣間見ることができる。それらはモロー自身が指示した部屋、配置にしたがって展示され、モローの編んだ世界観にたっぷりひたることができる。何という至福の時間だろう。

  「ユルピテルとセメレ」は、モローの作品のなかでも傑作として知られる大作。完成後売却されたが、幸運にもこの美術館にもどってきた。モローが最晩年に制作した大作で、モローが死の3年前となる1895年に、わずか4ヶ月で仕上げたといわれる。
  この作品は、神話「ユピテルとセメレ」を主題に独自的解釈に基づいて構成された。「ユピテルとセメレ」は、主神ユピテルとの間に子を身篭ったテバイ王の娘セメレに嫉妬する女神ユノ(ユピテルの正妻)に、「お前の愛する男が本当に神であるか確かめてみよ」と唆されたセメレが、ユピテルに一度だけ本当の姿を見せて欲しいと懇願し、ユピテルが神の姿に戻った途端、セメレの身体が神の威光(稲妻とされる)に焼き尽くされたという逸話。
 この作品にはユピテルやセメレの他にも、サテュロス、ファウヌス、ドリュアス、ハマドリュアス、天使、妖精、聖鳥(鷲)などがモロー独自の解釈で取り入れられている。画面中央からやや上に位置する主神ユピテルは、赤々とした稲妻を背後に伴い玉座に君臨し、その姿は神としての威厳に満ちている。その傍ら(ユピテルの右手側)に配されるセメレは白く輝く肌が高貴な身体を甘美に反らせながら、ユピテルへと視線を向けている。神話画としても(ある種の)宗教的図像としても伝統的展開から大きく逸脱し、独特の雰囲気を醸し出している。

 この他、多くの未完の作品からも、モローの精気のほとばしりを感じることができる。その数は、約5000点といわれる。モローの作品は生前から、完成するとわりとすぐに売れたらしく、そのため、作品はあちこちに分散してしまった。ここにあるのはほとんどデッサン、「中間製品」のようだが、それゆえにじっくり眺めればモローの思索のディテールに触れることができる。

 さて、この美術館には3回、美術館の前までいって、ようやく入れた。一回目は、火曜で休館だった。ガイドブックで調べ、月曜が休館だとばかり思っていたのだが、そうではなかった。地下鉄の駅をおりて、暑い日射しのなか、ビルの陰にそって歩くが、なかなか見つからない。犬を連れた通行人に聞いて、ようやく所在がわかった。小さな美術館だ。
 門扉はしまっている。ドアをたたくが、堅牢でびくともしない。そのうち、同行人が、美術館の2階に女性が見えたというので、その彼女に向かって手をふる。しばらくして気が付いてくれたのはよかったのだが、門扉にかかっている「注意書きを読め」とジェスチャーする。よくみると休館日、とある。ガックリ。ガイドブックの見間違いか、それとも誤記か。確かめる元気もないほど疲労困憊で、その日はほうほうのていで引きあげた。

 2回目。カルチエ・ラタン付近の自然史博物館を午前中に観て、午後から再度、ギュタフ・モロー美術館へ。道順はわかっているのと、この日はやや日射しが弱かったので、すんなり到着。すると、なんと昼休みとか。12時45分から14時までの昼休み。美術館が昼休みとは、珍しい。地元のおばあさんが階段に座っている。やはり昼休みと知らず、来たのだろうか。また、若い女性がふたり。彼女たちも昼休みを知らなかったようだ。聞くとメキシコからきた姉妹だという。姉は英語が流暢だ。わたしは持っていた日本の絵葉書をプレゼントに渡すと、パリの美術館ガイドを、2冊持っているからと、そのうちの一冊をくれた。
 モロー美術館のあとはオペラ座のなかを見学しようと思っていたのだが、さて困った。モロー美術館はあきらめるか、どうするか。というのも、この日がパリ滞在の最終日で、16時には空港行きのバスに乗車しなければならない。熟慮の末、オペラ座をやめ、1時間ほど付近でお茶して、時間をつぶし、モロー美術館をとることにした。

 そして3回目。ようやく美術館に入ることができた。やっと入れた飢餓感があり、じっくり鑑賞時間をとって、作品と対話した。3階まであり、壁にところ狭しと作品がならなんでいる。モローが使っていた書斎もあった。

 願いがかなってようやく入れた美術館。めげることなく、攻略したかいがあった。

               
                


葉室麟『蜩ノ記』祥伝社、2011年

2012-09-18 01:01:00 | 歴史

                    
         
   羽根藩の戸田秋谷は江戸屋敷で側室と密通し、そのことに気づいた小姓を斬り捨てたとのかどで、七代藩主義之から10年後と期限を区切って切腹を命ぜられ、その間、向山村に幽閉され、そこで三浦家の家譜編纂をおこなうことが義務付けられた。編纂作業の日々を綴ったのが「蜩ノ記」であった。

   編纂作業に勤しむ秋吉のもとへ檀野庄三郎が使わされる。名目は秋谷の監視である。藩の政治に明るく、聡明で、正義感の強い秋谷が農民たちとかかわることがないよう、秋谷の行動を見張ることであった。庄三郎も、いわくのある過去があり、それは家老の甥にあたる信吾と些細なことで場内での刃傷沙汰をおこし、家老の所領である向山村に預けられたのだった。庄三郎は秋谷の家族と生活をともにしながら、次第に秋谷の人柄にうたれる、病床にある妻(織江)、娘(薫)、郁太郎という息子とも親しくなっていく。秋谷の失脚はいわれのないものであった。庄三郎はその背景をさぐり、次第にことの真相にせまっていく。

   この小説は余命が定められた秋谷がその時間をいかに大切にし過ごしたかを、また庄三郎の生き方をとおしてこの時代の人間関係の不条理さ、あるまじき出世争いの理不尽さを、当時の人々の人間関係、習俗のなかに物語化した作品である。

   読後の余韻が心地よい。


パリ紀行⑦(ロダン美術館)

2012-09-17 00:39:07 | 旅行/温泉

             
 
 再び美術館に戻って、今回は「ロダン美術館」。パリには個人名が冠された美術館がたくさんある。このロダン美術館もそうだが、ピカソ美術館(訪仏中は休館だった)、ギュスタフ・モロー美術館、ダリ美術館、ドラクロア美術館など。

 わたしのなかのロダンは、松方コレクション、国立西洋美術館とともにある。上野の国立西洋美術館に行けば容易にみることができる「地獄門」「カレーの市民」「考える人」。それはそのままロダン美術館の屋外にある。もしかすると、ロダン美術館の作品の屋外配置は、上野の西洋美術館の屋外でのそれのヒントになっているのではなかろうか。想像をたくましくしすぎたかもしれないが、またこじつけのようにも思うが、そう考えさせる何かが、ロダン美術館にはあった。 

  
  ロダン美術館の建物はロダンが1908年から生涯を閉じるまでの10年間アトリエとして使い、かつ生活していた「ビロン邸」(Hotel Biron)」である。1911年、フランス政府がこのビロン邸を買い取ることが決まったとき、この館に強い想いがあったロダンが、自己の作品及びコレクションを国家に寄付する見返りに、美術館として残して欲しいと提案。このことが実って、ロダン死後、1919年に開館した。2005年に一度改修され、現在にいたっている。
 ここにはロダンの彫刻約6600点、デッサン約7000点が所蔵されいるといわれる。ロダンの描いた画もあった。他に、あるときから生活をともにしたカミーユ・クローデルの作品、ブールデルの作品も陳列されていた。意外だったのは、ここにゴッホの有名な「タンギー爺さん」が展示されていたことだ。この作品はここにあったのかと、驚いた。どのような経緯で、この美術館にあるのだろうか。
 美術館に入ると、庭園が美しいことに気づく。ここにロダンの作品を含め20点ほどの彫刻が配置されている。手入れが生き届いたバラも、夏の日差しのなかで、がんばっていた。

 ロダン美術館の梗概を書きながら、わたしの西洋美術との出会いを思い起こしていたいた。それは、上記のように、わたしのなかのロダンが松方コレクション、西洋美術館と切っても切れない関係にあるからである。

 西洋美術との接触、それはわたしが札幌に住んでいた頃、父と旅行で上京したおり(1961年ごろでないかと思う)、上野の西洋美術館に連れて行ってもらったことが最初の契機であった。小学6年生のときだった。そこで初めてわたしは、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ミレーといった画家の名前を知り、ロダン、ブールデル、マイヨールなどの彫刻家の名前を覚えていった。生の実物の絵画と彫刻は、こまかな作品の知識はなにもなかったが、鮮烈な印象だった。

 この西洋美術館の母体が松方コレクションであることは、その後だいぶたって知った。当時暮らしていた札幌に松方コレクション展がきて、父がそのことを話題にしていたことからだ。この展覧会にわたしが行ったのか行かなかったのかはわからない。あまり記憶がないのは、行かなかったからだろう。しかし、その時のカタログが家にあったことは覚えている。それをめくりながら、絵の世界にであった。
 当時のカタログなので、白黒のものも多かったような気がする。カラーでも、鮮度はあまりよくなかったに違いない。しかし、そんなことはどうでもよかった。ページをめくると見たことのない風景、事物、観念がそこにあり、あきることなく眺めていた。
 少し横道にずれるが、この記憶があったので、ネットで松方コレクションがいつ札幌で開催されたのか、ダメモトで調べたら、このコレクションの巡回展の履歴が出てきた。それによると札幌での開催は1964年8月22日から9月3日となっている。東京オリンピックが開かれた年で、わたしはその時13歳だった、ことがわかった。
 
 いくばくかの時間が過ぎて、高校に入ると、「藝術」の時間があり、「音楽」「美術」「書道」「工藝」の4分野からひとつを選択することになった。わたしは迷わず、「美術」を選んだ(多くの生徒は「音楽」を選んでいたようである)。「美術」の時間は、初めて経験することばかりで、愉しかった。授業内容ほとんど、塑造などのクロッキーである。油絵は2年生からだったろうか。絵の世界が面白く、わたしは美術部に入った。毎日、木炭と食パン(木炭を消す時に使う)での、デッサンばかりだった。
 その頃、河出書房から西洋美術全集が発売となり、わたしは美術への関心から第1回配本(ルノワール)から全集を購読しはじめた。印刷はむかしのカタログより格段によくなっていた。配本順は、ルノワール、ゴッホ、セザンヌだっかろうか。今から思えば、印象派画家からの画集の配本は、そのことで全巻購読者を固定しようという出版社の戦略に他ならない。むかしも今も、美術全集の販売戦略は変わりなく、日本人の印象派好みを見越してのことである。
  日本人のこの嗜好は、松方コレクションの影響、あるいは明治時代以降の西洋美術の流入の仕方が源流にある。この全集を、毎月こずかいで購入しながら、わたしの西洋美術に向かう感性は確実に広がった。ルノワールによって描かれた女性の官能的で健康的な裸体、ロダンが表現した男女の愛の交歓、思春期真最中のわたしにとって、それは十分に自身の感性を豊かにする素材だった。

 大学に入ってからも美術部に入ったが、大学紛争で部室がめちゃめちゃになり、部員が活動する場所が構内になくなり、わたしは描くことを次第にあきらめるようになった。

 長々と、いままで書いたことも、ふりかえったこともないことをしたためたが、パリのロダン美術館訪問は過去のわたしのちっぽけな美術体験を想起させた。

             


パリ紀行⑥(パリという街)

2012-09-15 00:57:31 | 旅行/温泉

          

 「ルーブル美術館」「オルセ美術館・オランジェリー美術館」と書いてきて、あと「ロダン美術館」「ギュスタフ・モロー美術館」との出会いをしたためなければならないのだが、ここで美術館訪問記はいったん小休止して、パリの街のことをまとめておきたい。


 パリの街の観光の対象となる地域は、せまい。東京の山手線のなかに入ってしまう。そこを先日書いたように、地下鉄が網の目の状に走っている。高層ビルはなく、空は広く見える。このエリアの人口は220万人ほど。

 パリの街は19世紀から20世紀の境目に大きく変わった。パリ万博の影響が大きかったが、この時期、街のつくり(オスマンによるパリ大改造)が一新された。 19世紀半ば頃までのヨーロッパの都市では、パリも含めて、道路は敷石で舗装がなされていたものの(大都市で)、家畜(豚など)が放し飼いにされていたり、住民は日々に出る生ゴミや汚物を通りに投げ捨てていたりで、道の窪みや溝にたまったゴミは悪臭をはなち、河川は、動物の糞・廃棄物・汚物などともに流れこんだ水で汚染されていた。生活環境・都市衛生はきわめて劣悪だった。
  1853年から1870年まで17年にわたってセーヌ県知事を務めていたオスマンは、ナポレオン3世の構想にそった大規模な都市改造を企てた。パリに光と風とをとり入れることを目的に、幅員の広い大通りを敷き、道路網の整備を行なった。街区の内側に中庭を設け、緑化した。計画地にある建物は強制的に取り壊され、スラムは排除され、この事業によってパリは生まれ変わった。
 改造によって、パリの市街地はシンメトリーで統一的な都市景観の表情をみせ、さらに当時名を馳せた建築家を登用してルーブル宮やオペラ座(1874年竣工)などの文化施設の建設も進められ、代表的な近代都市となった。

 生まれ変わったパリは今では大変美しく、エッフェル塔や凱旋門から見る街の眺望はすばらしい。今回、エッフェル塔には上らなかった。「待ち」の人がたくさん列をなしていたので、回避した。そのかわり、エトワール凱旋門の屋上からはパリを一望し、シャンゼリゼ通りを中心に放射線状のブルヴァールと呼ばれる広い12本の大通りは幾何的な印象ととともに記憶にのこっている。

 わたしたちが泊まったホテルは、サンラザール駅から2-3分のところ、「メルキュール・オペラ・ガルニエ」である。小道に入ったところで、オペラ座からは徒歩で5分ほどの距離。ホテルの入り口の前にはレストラン、日本料理店「京都」などが並んでいた。近くにはMONOPRIXというスーパーがあり、ここは日用品、食品を買うのは便利である。ほとんど毎日、通い、ニンジンサラダ、ハム、ペットボトルの水、シャンパン、ハブラシ、パンなどを調達した。このホテルの界隈から、ルーブル美術館までの道を基幹として、その通りから小道が入りくんでいて、何度も往復し、迷いもした。
 たとえば、ルーブルから、ホテルまで、帰る道筋を少し西寄りに違えるとマドレーヌ広場があり、そこには大きな寺院がある。また、この基幹通りをホテル側からオペラ座を通過し歩いていくと、右手奥にヴァンドーム広場がみえる。
 さらに一角に、日本料理を提供しているお店がいくつかあるエリアがあり、面白い。日本酒の「獺祭」の樽が道路に面してみえるようにおかれた店があったかと思うと、ラーメン屋があり、うどん屋があり、寿司屋もある。にぎり鮨のネタは、サーモンやアボガドが多く、何となく距離感があって、手が出ない。
 「きんたろう」という日本の蕎麦・うどんやプラス定食屋のような、普通に食べる日本食なら何でもメニューにあるお店も発見した。「十番や」というガイドブックによくでている日本食提供の有名なお店の近くである。このあたりではBOOK・OFFの本屋も目に、懐かしかった。

 美術館巡りがメインだった今回の旅。ショッピングに時間を費やすということはなかった。わたしはあまり買い物が好きではない。身の回りにモノが増えていくことを、極度に、年齢が重なるのに比例して忌避している。
 それでも、シャンゼリゼ通りをぶらぶら歩いた。通りは広い。多くの人が散歩し、優雅に時間を愉しんでいる。パリの名店が並ぶシャンゼリゼであるが、東京の銀座より空間的に余裕がある。圧迫感はなく、開放的である。地下鉄「シャンゼリゼ・クレマンソー」駅をあがると、シャンゼリゼを闊歩するド・ゴール将軍の銅像がある。要するに言いたいことは、凱旋門あたり、「シャンゼリゼ・クレマンソー」駅、あるいは「シャンゼリゼ・ルーズベルト」駅あたりまでを、われわれは歩いたのである。もっと、南下すると、この通りはコンコルド広場にぶつかる。

 ちょうど、夕食時だったのでレストランに入る。ワインと簡単な食事。といってもボリュームはある。おなかいっぱいになる。メニューが和訳されていた。それがフランス語からの直訳である。最初に「始動機」とある。クエッションマーク。いったい何なのことか。ようやく判明。コース料理なので、コースの最初の「アントレ(Entrée)」が「始動機」と訳されていたのだ。ネイティブ・チェックを受けなかったのだろうか。

 河がながれている街は美しく、落ち着いて、風情がある。パリもセーヌ川あってこそ、パリである。観光客めあてに、遊覧船が、定期的に運行されている。バトーブスは、手軽に楽しめる。遊覧船からのみるパリも捨てがたい。川べりには、人々が、恋人が座って語りあっている。

 話が食事、料理のほうに脱線しそうである。それはまた別の機会として、シャンゼリゼ通りで呼び込んだレストランでのエピソード。


 街を歩くと、人種の多様さに驚かされる。その情報は知らなかったわけではないが、体感するとなるほど、と思う。
 「ボンジュール」の挨拶があちこちで聞こえる。ホテルで、あるいはレストランに入るときは当然といえば当然なのだが、パリっ子は気安く声をかけてくる。挨拶が生活に定着している。


パリ紀行⑤(モンマントル)

2012-09-12 00:17:15 | 旅行/温泉

        

 日本人はフランスをどのような国と理解しているだろうか。藝術、文化の分野の紹介はかなりある。絵画、文学、映画、シャンソンなど。あるいは、フランスを象徴するキーワードには、どんあものがあるだろうか? キーワードの確認は、フランス理解の最初の一歩だ。


 早川雅水という人が『フランス生まれ』(集英社)という新書を著している。そこにフランス理解のキーワードが並んでいる。例えばリモージュで生まれたウエストンの靴(モカシンとダービー),織の手法がルイ14世時代そのままのゴブラン,90cm×90cmで75gのエルメスのスカーフ,コットン製で紙質が抜群のカスグランのレターペーパー等々。他にもマーガリン,カマンベール(神の足の臭い),マヨネーズ,ベレー,ビデ,ネオン,ファックス,点字,BCGは,フランスが発祥の地。言葉(エレガナンス,レストラン)にまつわる文化と伝統。

 わたしのようにフランスについての基礎知識が乏しい人間は、まずキーワードを確認し、そこから一歩を踏み出すしかない。さいわい、今回の旅行では、同行人が、事前にモデルコースをいくつか想定してくれたので、抵抗することなくそれを参考にした。短期間での美術館巡りは、それで可能になったのである。

 そのモデルコースを参考に、かつわたしがパリとくれば連想するキーワードを手掛かりに、計画を練り、実行した。一度、どうしても行きたかった地域は(2003年の前回旅行で実現しなかった場所)、モンマントル、モンパルナスなど。わたしの中では、連想のキーワードであり、キーワードにとどまっているかぎり、それは「記号」でしかない。単なる「記号」に意味を持たせるには、体感、経験、そこの空気を吸うことが必要。というわけで、モンマントルに向かうことにした。

 モンマントルは、パリ北方の小高い丘のような地域。そのてっぺんにたどり着くと、美しいパリ市内を一望できる。モンマルトルの名は、「Mont des Martyrs(殉教者の丘)」の意。紀元272年ごろ、この丘の付近で、後にフランスの守護聖人となったパリ最初の司教聖デニス(サン・ドニ)と二人の司祭ラスティークとエルテールの3人が斬首され殉教死した。首をはねられたサン・ドニは、自らの首をかかえ北方に数キロ歩き、息絶えた。その場所がサン=ドニの大聖堂である。
 近くには観光名所として名高い、サクレ・クール寺院、テアトル広場、キャバレー「ムーラン・ルージュ」、モンマントル墓地がある。ゴッホが一時住んでいた家、またダリ美術館もある。このあたりを散歩した。
 サクレ・クール寺院まではかなり急勾配の階段。そして結構長い。これがきつい人のためだろうか、両サイドに傾斜のなだらかな歩道がある。また、ミニ・ケーブルカーがある。
 この寺院はロマネスク様式・ビザンチン様式のバジリカ大聖堂。ギベール・パリ大司教がその建造計画を提唱し、アバディが設計を担当。エッフェル塔とともにパリ市内を眺望できる名所である。第三共和政憲法が発布された1875年に、フランスの新しい政体の門出を祝う意味をこめ、政府の直接的な支援のもとに建設がはじまった。実際に着工したのは1877年で、約4000万フランの費用と40年の歳月をかけ、1914年に完成をみた。
 寺院の正面、両サイドには聖ルイ9世、オルレアンの少女ジャンヌ・ダルクの騎馬像が威風堂々とパリ市街を見下ろしている。また、3枚のキリストの死をあつかったレリーフがある。

 この界隈は芸術家が活動したエリアである。とくにテアトル広場には、いまでも多くの画家がたむろし、油絵を画き、売っている。通りがかった人たちに声をかけては、似顔絵をかいてあげるよ、と勧誘している。生活のたしにしているのだろう。 

 ここからダリ美術館に行き、さらにゴッホの家の前で写真撮影をし、墓地まで歩いた。約2時間半。圧巻はダリの美術館である。ダリ美術館は、スペイン・フィゲラスにある「ダリ劇場美術館」が有名であり、世界のあちこちににいくつか点在していて、その一つがここである。地下に続く階段を下りると、ダリ・ワールドが広がっている。広いスペースに彫刻、オブジェ、リトグラフなど300点以上の作品が展示されていた。シュールレアリスト、ダリの代表作「溶ける時計」や「空飛ぶかたつむり」のオブジェに遭遇。また、ダリ独自の解釈による「ドン・キホーテ」「ロミオとジュリエット」の挿絵もあった。ダリのアトリエにいるような雰囲気である。

 この日の散策は、あまり暑くなく、涼しめの心地よいパリの風を感じながら過ごせた。もはや、モンマントルは、わたしのなかでは、「記号」ではない。そこの喧騒(賑わい)、風(空気)を感じながら頭のなかでイメージできる土地になった。


パリ紀行④[美術館3[オルセー美術館・オランジュリー美術館]

2012-09-11 00:09:45 | 旅行/温泉

          

 オルセー美術館はルーブル美術館からセーヌ河の橋を渡ってすぐ、歩いて15-20分ほど。オランジュリー美術館はさらにそこから徒歩で同じく15-20分、テュイルリー公園内にある。


 オルセー美術館には、印象派であるルノワール、セザンヌ、ドガ、ポスト印象派のゴッホ、ゴーギャンのコレクションからなり、日本人には人気である。
 もともとは1900年のパリ万博開催に合わせ、オルレアン鉄道が建設しオルセー駅駅舎兼ホテルであった(2個の大時計はその象徴)。この建物はその後、さまざまな用途で利用されたが、1970年代にフランス政府によって保存活用策が検討され、19世紀美術を展示する美術館として生まれ変わった。1986年の開館で比較的新しい。
 美術館の中央ホールは、地下ホームの吹き抜け構造をそのまま活用され、駅舎の構造が残っている。建物の構造がそのようなので、初めて美術館を訪れると、多くの絵が掲げられている複数の部屋の配置がわかりにくい。ほとまわりしてこれで終わりかと思うと、その奥にまた部屋がある。1・2階がメインかと思うと、5階に大きな部屋があり、重要な作品がずらりと並んでいる。ルーブル美術館ほどではないが、ここも一度では全体構造を理解し、鑑賞したことにはならない。
 館による画の収集方針は、原則として2月革命が勃発した1948年から、第一次大戦が始まった1914年までの作品の展示である。確認した主要作品をいくつか掲げる。
 ・カバネル「ヴィーナスの誕生」(1863)
 ・ミレー「落ち穂拾い」(1859)
  ・マネ「草上の昼寝」(1862-63)
 ・ルノアール「ムーラン・ド・ギャレット」(1863)
 ・セザンヌ「カード遊びをする人々」(1890-92)
  ・ルソー「戦争」(1894)
  ・ゴッホ「ローヌ川の星月夜」(1888)
 ・ゴッホ「自画像」(1889)
 ・ゴッホ「アルルのゴッホの寝室」(1889)
  ・マネ「オランピア」(1863)
 ・アングル「泉」(1856)
  ・ゴーガン「タヒチの女」(1891)
  ・ゴーガン「自画像」(1893)
 ・ドガ「踊りの花型」(1878)
 ・カイユポット「床に鉋をかける人々」(1875)
 
 オランジュリー美術館はセザンヌ、マティス、モネ、ピカソ、ルノワール、シスレー、ユトリロ、スティンなどの作品を収蔵しているが、1965年にフランスに寄贈されたジャン・ヴァルテルとポール・ギョームのコレクションが中心になっている。
 一区のコンコルド広場に隣接するテュイルリー公園内にセーヌ川に面して建っている。もともとはテュイルリー宮殿のオレンジ温室(オランジュリー)だったが、1927年のモネの「睡蓮」の連作を収めるために美術館として整備された。一階が印象派を中心とした画家の作品、二階にはモネの「睡蓮」の作品が壁紙のように連なっている。部屋の中央に大きな椅子がおいてあり、そこに座ってゆっくり鑑賞できる。
 オランジュリー美術館では、鑑賞用のイアホンガイドを借りた。説明が詳しい。該当する画が描かれた経緯、鑑賞のポイント、その絵がオランジュリーに収められて経緯は、解説される。時間を測りはしなかったが、一枚の画について7-8分の説明がある(イヤホンガイドは日本でも一般的になっているが、一枚の画に要する説明時間は2-3分で、内容も浅い。最近は人気俳優が借り出されているが、舌足らずな説明が多く、わたしはあまり利用しなくなった)。多くのいい作品がここにもあるが、限定して列挙するのは難しいが、あえて印象に残ったものを掲げると・・・。
  ・モディリアーニ「ポール・ギョームの肖像」(1915)
  ・モディリアーニ「若い奉公人」(1918-19)

  ・ルソー「ジェニコ爺さんの二輪馬車」(1908)
 ・ルソー「人形を持つ子ども」(1908)
 ・ルソー「婚礼」(1905頃)
 ・ルノワール「ピアノに寄る娘たち」(1892頃)
 ・ルノワール「バラの髪飾りをつけたブロンド嬢」(1920頃)
  ・セザンヌ「セザンヌ夫人」(1890頃)
 ・セザンヌ「花瓶、シュガーポットとリンゴ」(1890-93頃)
 ・ピカソ「青年たち」(1906)
 ・ピカソ「大きな浴女」(1921)
 ・マリー・ローランサン「雌鹿}(1923)
 ・マリー・ローランサン「シャネル嬢の肖像}(1924)
 ・マチス「赤いキュロットのオダリスク」(1921)
 ・ユトリロ「オルレアン大聖堂」(1913)

 今回のオルセー美術館、オランジュリー美術館では、アンリ・ルソーの絵に注目した。調べてでかけたわけではなかったが、両美術館で「あー、ここにあったのか」というルソーの絵が数枚。それというのも、わたしは旅行前に原田マハ『楽園のキャンヴァス』(新潮社)を読んで、ルソーに強い関心を覚えたからだった。

 この小説は、美術(アート)の世界を題材にした異色作。あらすじを簡単に示すと、ニューヨークにあるMoMA(Museum of Modern Art)に所蔵されているルソーが画いた「夢」(不思議な風、熟れた果実の香り、獣たちの遠吠え、名も知れぬ花々の花弁を揺らすミツバチの羽音。そして、赤いビロードの長椅子に横たわる裸身のヤドヴィガ)に似た構図の「夢をみた」という作品の真贋性を問う2人のキュレーターの「競技」がテーマ。
  この作品はバーゼル(スイス)にあるバイラー・コレクションにあり、その真贋を見極めてもらうために、コレクションのオーナーである長老のバイラーがMoMAのアシスタント・キュレーター、ティム・ブラウンとソルボンヌ大学で、ルソー研究で博士学位を26歳の若さで取得したオリエ・ハヤカワ(早川織絵)に鑑定を依頼するという設定だ。審査のプロセス、審査後の講評でしのぎをけずるとサスペンス・タッチで展開される。この話の中でルソーが克明に紹介されていた。
  アンリ・ルソーはしがない税関吏であったが、50歳を過ぎる頃から奇妙な画を書き始めた。日曜画家と呼ばれ、その構図は嘲笑の的となった。くわえて、この画家のことはあまりわかっていない。何百点もあるはずの画は散逸している。小説のなかでは、バイラーコレクションの「夢をみた」(ルソー)の下絵にピカソの「青の時代」の大作があるかもしれないという秘密がこめられていて、ピカソとルソーとの関係が明らかにされる。笑われ者だったルソーを評価したのはピカソであり、交友関係もあり、ルソーの画に出会わなければあのピカソはいなかったとさえ断定される。

        


 ルソーの画は上記の4枚をみたが、「楽園のキャンヴァス」を読破してあまり時間がたっていなかったので、親近感を強くもった。オランジュリー美術館には、この小説に出てきたマリー・ローランサン(詩人アポリネールの恋人)の画も数枚あった。


パリ紀行③[美術館2[ルーブル美術館]

2012-09-09 14:33:41 | 旅行/温泉

       

 ルーブル美術館には10年ほど前(2003年)に訪問したことがある。この時はドノン翼にある作品だけを観た。今回はそこを改めて見直し、リシュルュー翼のパビリオンにならぶ作品も鑑賞した。


  この美術館はセーヌ河の右岸に位置するループル宮殿がのなかにある。形容しきれないほどの壮大さだ。わたしが泊まったオペラ座付近のホテルから、徒歩だと30分ほど。もともとは12世紀末の建造に始まったパリの街を守るための要塞だったが、その後フランス王家の宮殿にもなった。
 構成は「古代オリエント部門」「古代エジプト部門」「古代ギリシャ部門」「」イスラム美術部門「絵画(フランス)部門」「絵画(イタリア)部門」「絵画(イギリス・スペイン)部門」「彫刻部門」「工芸部門」「グラフィック・アート部門」からなる。所蔵美術品は30万点を超えると言われる。

 
 2日かけて(半日約3時間づつ)、鑑賞した。最初の日(8月31日)、入館で若干のトラブルがあった。
 9時半開館なので、早めにホテルを出て、ガラスのピラミッドにある入口に、首尾よく比較的まだ短かかった列に加わった。行列に並びながらガイドブックを見ていると、入館の穴場があると書かれている。それはガラスのピラミッドからはかなり離れたセーヌ河沿いの2頭のライオンの彫刻がある小さな入口(ライオン門入口 [Entrée Porte de Lions])で、「並ばないで入館できるかもしれない」と書かれていた。
 迷い、逡巡したが、列を思い切りよく抜け出し、そちらへ。そこでは誰も並んでいない。2・3人のパリっ子がいるだけだった。「楽勝」で入館できそうだった。待つこと数分。しかし、開館時間になっても一向に開く気配がない。しびれを切らしていると、われわれと同じようにここに来ていた地元の男性がプレートに「水曜と金曜にはここから入れない」との注意書きを見つけ、教えてくれた。ガックリ。しかたなく、もとのガラスのピラミッドの入口に戻り、その最後尾に並び、ようやく入館。時間をロスした。
  しかし、繰り返すが、とにかく巨大な美術館なので、相当たくさんの入館者がいても、それをまるごと飲みこんでしまう。この程度の時間のロスは、鑑賞にさしたる影響はなかった。運がよかった。そして、入口変更のこのときの失着は、2日後の2回目の入館に幸運を呼ぶことになる。

 というのは、ルーブル美術館は、毎月第一日曜日は、入館料が無料である。それを狙って2回目の鑑賞(9月2日)に出かけたのだが、予想以上の長蛇の列。その長さ、数百メートルほど。最後尾について入館しようとすると1時間以上かかりそうだった。
 そこで、半ばあきらめつつ、くだんの秘密の入口におもむくと、何と日曜日なのに開いているではないか。ガラスのピラミッドの入口で順番をまって並んでいる方々には全く申し訳なかったが、われわれは全く並ぶことなくスムースにセキュリティ・チェックを受けて入館。ズルをしているわけでもなく、違法な行為でもなかったので、溜飲をさげ、合点した。

 さて、本題に戻るが、ルーブル美術館は聞きしにまさる巨大な美術館施設である。2・3日では、しっかり観ることはできない。真剣に鑑賞しようと思えば数カ月、あるいは数年かかるのではなかろうか。あきれるばかりの充実ぶりだ。いまさら言うまでもないが、ホントに凄いことをあえてまた記しておきたい。観光客は、いきおい、鑑賞と言うよりはざっと眺めて通り過ぎる。なかには眺めることもしないで、「銀ブラ」のように歩いて、モナリザと「サモトラケのニケ」、「ミロのビーナス」などを眺めただけで帰る観光客もいる。

 この強大な宝殿のわたしなりの「攻略法」は、ガラスのピラミッドの入口から入館したら、迷うことなく中二階の「サモトラケのニケ」をめざすこと。そして日本人によく知られている作品が多く陳列されているドノン翼の2階にあがることだ。ここに入ると、次のような名品がずらりと並んでいる。初日(8月31日)はドノン翼だけ。
 ・チマブーエ「天使に囲まれた荘厳の聖母子」(1270-80頃)
 ・レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナリザ」(1803-06)
 ・ダビッド「ナポレオン一世の戴冠式」(1806-07)
 ・ドラクロワ「サルダナバールの死」(1827)
 ・ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」(1830)
 ・ジェリコー「メデュース号の筏」(1816-19)
  ・アングル「グランド・オダリスク」(1814)
  ・ラファエロ「聖母子<美しき女庭師>(1507)
  ・レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子」(1508-10)
 ・ベロネーゼ「カナの婚礼」(1562-63)

 2日目(9月2日)には、リシュリュー翼を中心に鑑賞。どんな作品があるかというと、たとえば次のようなもの。
 ・プーシェ「水浴のディアナ」(1742)
 ・フラゴナール「かんぬき」(1777頃)
 ・アングル「トルコ風呂」(1860)
 ・フェルメール「レースを編む女」(1664)

 他にホーホ、ロイスダールなどのオランダ画家の作品の鑑賞で、豊かな時間を過ごせた。

 ここでは一枚一枚の作品に解説をつけたり、コメントを加えたりすることはよそう。そのような力量はわたしにはもともとないし、スペースもない。
 ただ、ドノン翼に並んでいた作品に10年ぶりに再会できたことを喜び、リシュリュー翼に陳列された作品群との初めての対面に新鮮な感動をうけたことだけを書きとめておきたい。わたしは高校時代に美術部に所属していたが、その頃、大好きだったプーサン、ワトーの絵におめにかかれたのは、単純に嬉しかった

 強く感じたことが2点ある。第一は鑑賞者がカメラで作品をバチバチ撮っていたこと、フラッシュもおかまいなしだ。作品を背に記念撮影している人もいる。10年前に来た時にもそうだったが、あれからかなりたち、デジカメが発達し、鑑賞よりも撮影という状況がまかりとおっている。監視員は要所にいるが、余程マナーが悪くないかぎり、とくに注意もしない。日本の美術館では考えられない。わたしは日本の鑑賞者のマナーの良さを知っているし、それが当然だと思っているので、ルーブル美術館のこのような状態は不自然に感じる。わたしが保守的なのだろうか。

 第二は日本の西洋美術の紹介の仕方、あるいは義務教育から高校までの西洋美術の歴史の内容は、ある種の偏りがあるのではないか、ということ。ヨーロッパ、とくにフランス、イタリアなどでは美術の歴史の教育をどのように編んでいるのだろうか? ゴッホ、ルノワール、セザンヌ、ミレー、コロー、ドラクロワなどはもちろん素晴らしいが、ここルーブル美術館にくると、そのほかにも優れた画家はたくさんいるし、いい作品はいくらでもある。日本では聞いたこともない画家、観たこともないすばらしい作品群が目白おしである。わたしのルーブル美術館「攻略法」は、日本で西洋美術の歴史を習った人間のやりかたで、教科書に出ている作品や、人気のある作品をまずおさえてしまうというやり方で、これはある種の偏見によっていると自覚している。

 最後に、パリの美術館を廻るには「PASS]があり、期間限定であるが、これで格安で多くの美術館の訪問が可能である。しかし、ルーブル美術館でこれをもとめるとなると、目立たない片隅の小さな事務室のようなところでしか購入できない。ようやく、その売り場をみつけて入手した。


                


パリ紀行②[美術館2(クリュニー中世美術館)]

2012-09-08 21:46:14 | 旅行/温泉

           

 今回の旅行の目的は、美術館巡りだった。訪れた美術館は、ルーブル美術館、オルセ美術館、オランジュリー美術館、クリュニー中世美術館、ロダン美術館、ダリ美術館、ギュスタフ・モロー美術館。3回ほどに分けて記述する。


 まず、クリュニー中世美術館。旅行前から、可能なら出かけたいと思っていた。というのも、以前TV番組でこの美術館の紹介があり(内容はあまり覚えていない)、ここにある「貴婦人と一角獣」の6枚のタペストリー(つづら織)に関心を惹きつけられたからだ。

 クリュニー美術館は5区にあり、カルチエ・ラタンの学生街が近い。ソルボンヌ大学や、自然史博物館にも、徒歩でいける距離である(クリュニーの名は、中世の時代、ローマの公共浴場跡のこの場所にクリュニー修道院院長が別邸を建てたことに由来する)。
 この美術館は2つの大きなカテゴリーに区分されている。
ひとつは敷地部分の、紀元前1世紀頃のものであるローマ時代の公共浴場。もうひとつは中世の約24,000点の美術品。「中世」はさらに、5世紀のローマ時代、5-10世紀の中世初期、11-12世紀のロマネスク時代、12-15世紀のゴシック時代に細区分されている。
 美術館は一階とニ階とに分かれ、一階にはローマ時代の浴場および中世の教会会で使われた彫刻、織物、工芸品、ステンドグラスなどが陳列されている。
 
 二階には「貴婦人と一角獣(La Dame à la licorne)」の6枚のタペストリー。「ありました、ありました」。強い想いで、何年も恋焦がれていたタペストリー。
 実際にみると、その重厚感はたまらない。幻想的なやや暗い色調の赤を背景に、デザインは精緻で、奥深い。一角獣(ユニコーン)は、非常に獰猛な動物だが、処女に抱かれるとおとなしくなるという。一体、誰が、どのような意図で作製したのだろうか。多くの謎が秘められている。


 調べてみると、今日の研究では、このタペストリーは15世紀末に、パリで下絵が画かれ、フランドルで織られたもの、ということがわかっているらしい。

 テーマも不透明であるが、6つの感覚がそこに示されているというのが通説。それぞれ「味覚(Le goût)」「聴覚(L'ouïe)」「視覚(La vue)」」「嗅覚(L'odorat)」
「触角(Le teoucher)」、そして「我が唯一の望みに(À mon seul désir)」である。この「我が唯一の望みに」というのは、「理解すること」と解釈される。

 6枚の壮大なタペストリーには、若い貴夫人が想像上の、伝説の獣ユニコーンとともにいる場面が描かれ、他に猿、獅子、ウサギなどがいる。背景は千花模様(ミル・フール:複雑な図柄の花や鳥が一面に描かれた画)が配されている。タペストリーにはさらに旗や紋章が記録され、それらはフランス王シャルル7世の宮廷の有力者だったル・ヴィストのものではないかと考えられている。

 このタペストリーは1841年に、歴史記念物監査官であり、作家でもあったプロスペル・メリメによって、クルーズ県のブーサック城で発見されたようだ。作家のジョルジュ・サンドがこれを激賞し、有名になった。
 
 ここには、上記のように、他にも多くの美術品、工芸品があり、「王冠についていた十字架(7世紀)」「聖クレールの像(15世紀)」はその代表的なもの。また「金のバラ(1330年)」もあった。文字通り、金でできたバラなのだが、精巧にできている。バラは四旬節に欠かせないもので、13世紀の教皇ジャン22世の注文で製作された最古の作品、ミヌビッキオ・ジャコビ・ダ・シエナの作、とガイドブックにあった。 (パリの美術館は多くの場合、作品の説明が英語で書かれていない[日本では英語の作品名が必ず付いている]。なので、作品の意味が何が何だかわからないことがしばしばで、いきおいガイドブックに頼らざるをえない)。 

 美術館のサン・ミッセル通りにはローマ時代の公共浴場があり、塀越しにこれを覗くことができる。瓦礫の山のようになっていて、工事中のようにもみえる、そうではないので、要注意。

 この中世美術館は、その価値の大きさにもかかわらず、日本ではまだ十分な紹介がない。フランス語の読解ができて、この美術館に何度も足を運んで、資料を集め、ここにいるかもしれないキュレーターに話を聞いたりすれば、ひとかどの研究者になれる気がする。もちろん、その前提として研究意欲と姿勢が大事なことはいうまでもない。この美術館を研究する若い人が現れることを期待したい。 
 


パリ紀行① [地下鉄]

2012-09-07 20:09:10 | 旅行/温泉

                 

   

 昨日、パリから帰ってきた。いろいろな経験をした。想い出を備忘録の形で、記しておきたい。10数回を予定している。日記のように時系列でつづるのではなく、テーマ別に。それも毎回があまり長くならないように、ポイントを書き連ねていく。

 第1回は、地下鉄。パリの地下鉄の特徴を書こうとすると、どうしても日本との比較となる。日本の地下鉄事情に詳しくはないが、東京、札幌、京都、仙台のそれなら知っている。
 パリ観光巡りの交通手段は、この地下鉄が便利で、リーズナブル(他に郊外電車、バス、TAXI)。地下鉄が「蜘蛛の巣」のように張りめぐらされている(14ライン)。日本とはかなり事情は異なるが、乗り方もなれれば簡単、乗り換えも難しくない。地下鉄が網の目状になっているのは、東京に似ているが(札幌、京都などと違う)、網の目状の過密度は東京以上かもしれない。充実した地下鉄、これがパリの強い印象のひとつであったが、こういうものはモスクワのそれのように、第二次大戦の防空壕などを再利用したものだろうか。パリの地下鉄の歴史まで、まだ調べていないが、さぐってみるのも面白そうだ。(1900年、いまの1号線ができたとのこと)。

 *少しばかりネットで調べると、各国の地下鉄はそれぞれに特徴があるようだ。フランクルト、上海、モスクワなどなど。地下鉄に電車が走るようになったのは、ブダペストが最初のようである。

 チケットは自動販売機で、その都度、購入か、10枚つづりが安くて便利で窓口でかった。どこまで乗っても、いくら乗り変えても1.7ユーロ(170円程度)。十枚つづり[カルネという]だと、130円くらいになり、ものすごく安い。したがって改札は自動機械で通過していくが、出口には改札はないことになる。
 乗車するプラットフォーム、車体そのものはあまりきれいでない。古い車両は、戸口についたハンドルをひねって、あるいはドアの取っ手あたりについた緑のボタンを押して、下車する。電車がプラットフォームに滑り込み、速度を落とし、まだ動いてる最中なのに、開けて降りている人もいる。比較的新しい車体は日本のそれと同じで自動で開閉する。
 チケットで入る自動改札の装置は、堅牢である。乗り越えてはいることはできない、ガッチリした施設である。かと思うと、隅の入口ががら空きで、チケットなしで入っていく人が数名。そんな光景もみた。

  運転間隔は5分。誠に正確に運転されている。5分、4分、3分・・・と次にくる電車までの表示があるので、わかりやすい。目的地にたどりつくには、路線を確認したら、その電車の最終停車地を確認すればいいので、簡単だが、日本人、とくにわたしのようにフランスの地名を覚えるのが苦手な人は、その都度、地図をみながらの判断になる。パリっ子は、14のラインの2つの終点(起点)が頭にはいっているのだ。

 車体内部は、お世辞にも綺麗とは言えない。落書きもある。座席は日本のそれとは異なり、4人がけの向かいあうスタイル。それもあまり空間的余裕はなく、膝はぶつかりあう。立っている人がつかまる吊り輪はない。座席の上部につかまり立ちするか、あるいは要所に遅い鉄柱があるので、それに摑まる。
 そしてなによりも、人種が多種多様。このような状況は、日本人には想像しにくい。それはそのままフランスの、あるいはパリの人種構成の縮図である。
 談話している様子はほとんどなく、みな互いに無関心である。本を読んでいる人、携帯電話をかけている人、さまざまである。裸足で乗りこんできて、騒いでいる御人もいた。
 時々、若い男女が、激論していることがある。喧嘩ではない。女性も気後れなしに、対等に議論している。人間として当たり前のことなのだが、女性が一歩引いている感じは全くない(日本でも最近では変わってきたが、それでもパリの男女の関係とは全く違う印象をうけた)。この空気に慣れるまでには、かなり時間を要する。

  あまり治安はよくないようで(実際には目撃しなかった。また、経験もしなかった。)、何か殺伐とした感じがパリの地下鉄にはある。深夜は地下鉄は利用しないほうがよい、と言われていたので、今回はわたしもやめた。数回、フランス人の女性に、バッグのもちかた、チャックが閉まっていないと、親切心から注意された。日本人は、無防備、脇があまいと思われているのだろう、あるいは、実際に被害にあう日本人もいるのだろう。地下鉄のプラットフォームでの場内でも、わざわざ日本語で、スリに注意するように、アナウンスが何度もあった。このことから推してわかるのは、この種の事件がかなり一般化していることである。

 驚いたのは、ある駅では車内に楽器をもった人が乗り込んできて、アコーディオンとギターでシャンソンを奏で始めたことだった。2度ほど体験した。誰もうるさいとも言わないで聴いている。演奏に対して、気持ちばかりのお金をわたしている人が何人かいた。数回見かけたということは、こういうことは禁じられていないのだろうか。演奏はうまいので、それ事態は悪いことではなく、心をなごませる。しかし、日本の地下鉄内で演歌、民謡をうたう光景などは、考えられないし、想像もできないことだ。

 地下鉄の乗り換え移動はラクだが、障害者のことは何も考えられていないかのようである。階段の登り降りにエスカレータは稀にしかみられない。エレベータ施設も未発達である。