【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

富山和子『日本の米ー環境と文化はかく作られた-』中央公論、1993年。

2018-02-06 23:43:55 | 歴史
富山和子『日本の米ー環境と文化はかく作られた-』中央公論、1993年。
                  
 本文の一番最後の文章、「米を語る。それは水を語ること、緑を語ること、土を語ることであり、相撲をはじめとする民族文化を語ることであり、日本文化の土台と特性を語ることであり、「地方」を語ることであり、地球環境を語ることであり、そして、日本人のアイデンティティを語ることであった」(p.222)。これが結論です。

 冒頭では著者の不満が書かれています。「吉野ヶ里」遺跡から始まり、この遺跡の発見当時のフィーバーぶりはともかく、そこにかつて栄えた集落と文化があるとき、忽然と消え、その消滅が米の問題と重ね合わせて論じられなかった、と。

 日本人との米とのつきあいの問題を軸に、新田開発、治水(水抜き、溜池)、堰、条理制、用水、干拓、埋め立て、森林、治山、砂防、客土について、著者は大きな視野で論じていきます。 「水田はダムである」という言葉に象徴される富山理論です。

 壮大な日本文化論であり、それは日本の土地制度上の大改革を「大化の改新」「太閤検地」「地租改正」という長い歴史のなかに鳥瞰しつつ、全国を津々浦々めぐって得た地理学的知見に見事に凝縮しています。

 ほとんど無名に近い土木の天才の存在にも驚かされました。また、「文明とは余剰生産物の結果」(p.110)などのテーゼが出てくるかと思えば、土地の測量との関連で和算の話が出てきたり、宮本ユリ子のおじいさんである福島県典事で安積開拓の父・中条政恒(p.154)、新渡戸稲造の兄である著名な土木技術者・新渡戸七郎(p.158)が登場したり、「米」を基点に縦横な展開には感心しました。

おしまい。

竹村公太郎『日本史の謎は「地形」で解ける』PHP研究所、2014年

2014-04-14 22:48:00 | 歴史

              
  著者の経歴は、日本史の執筆者としては、いっぷう変わっている。土木工学関係の専門家で、建設省仕事をし、とくにダム・河川関係に詳しいようである。地形、気象にも造詣が深い、とある。歴史をその視点から分析、解明しようというわけである。いろいろな問いを掲げて、インフラの視点で論じている。


 いわく「なぜ日本は欧米諸国の植民地にならなかったか」「日本人の平均寿命をV字回復させたbのは誰か」「なぜ家康は『利根川』を東に曲げたか」「なぜ江戸は世界最大の都市になれたか」「貧しい横浜村がなぜ、近代日本の表玄関になれたか」「『弥生時代』のない北海道でいかにして稲作が可能になったか」「上野の西郷隆盛はなぜ『あの場所』に建てられたか」「信長が天下統一目前までいけた本当の理由とはなにか」「『小型化』が日本人の得意技になったのはなぜか」「日本の将棋はなぜ『持駒』を使えるようになったか」「なぜ日本の国旗は『太陽』の図柄になったか」「なぜ日本人は『もったいない』と思うか」「日本文明は生き残れるか」。番外編として「ピラミッドはなぜ建設されたか」がある。

 これらの問いに対する回答、またその回答が正当化どうかは、この本を読んで考えてもらうしかないが、随所に面白い指摘がある。
 いくつか例をひくと、日本人の平均寿命は世界でも有数であることはしられているが、平均寿命とはゼロ歳児の平均余命であるから、乳児死亡率の低下のもつ意味が大きい。日本の乳児死亡率は大正10年以降、激減した。なぜか? 水道の塩素殺気が、東京市で、この年から始まったのである。そして、その塩素殺菌はどのような契機で始まったのか。意外な事実が明らかにされている。他にも、鷹狩が好きだった家康は、それを遊興で行っていたのではなく、地形を観察することの一環でそれを行っていた。関東防衛にその知見を活用していたのである。といったように、従来の歴史の本でお目にかからなかった視点に、目からウロコがおちる。

 このような調子で、謎が解明されているので、最後まで興味がなえることなく、読み通すことができた。


井上慶雪『本能寺の変 秀吉の陰謀』祥伝社、2013年

2013-10-09 22:38:26 | 歴史

                     


  本能寺の変は、豊臣秀吉の陰謀によるものである、明智光秀は冤罪である。著者が長らく主張してきたこの主張の集大成が、本書である。

  秀吉陰謀説の根拠は、信長が本能寺で横死したおり、秀吉は高松城で毛利を水攻めにしていたが、翌日には小早川隆景との間に講和を成立させ、直後、いわゆる中国大返しによって山崎まで、2万の兵を移動させ(約218キロ)、山崎の合戦で光秀軍を打ち破ったというが、そんなことができるはずがない、ということである。兵への食糧はどうしたのか、雨中の行軍だったというが、草鞋の調達はできたのか、これらはきわめて疑わしい、という。

  秀吉は天下盗りにむけて、水面下で動いていたというのだという。著者は書く、「本能寺の変」の通説とは、「初めに光秀の謀反ありき」に端を発し、『信長公記』に起因し、『川角太閤記』で潤色され『明智軍記』で完成された歴史事象が、さまざまな分野にも飛び火して、たとえば歌舞伎・文楽などの『絵本大功記』や『時今也桔梗旗揚げ』などの大衆芸能まで敷衍されて、江戸時代後期につくりあげられたものを、現代の作家諸氏の力作の賜物でまた引き継がれているのである、と(p.228)。

  著者は「本能寺茶会」に端を発し、信長の「御茶湯御政道」の一端にも触れながら、周到緻密に仕組まれた「秀吉の陰謀説」を明るみにだし、さらに明智光秀が祀られている御霊神社を取材し、奉納されているある系図の意図的書き違いにま言及している。著者は種々の歴史的資料を批判的に読み込み、光秀主犯説の誤り(本当の実行犯を著者は杉原家次とみている)、秀吉の陰謀、本能寺の変の真相を傍証している。

  本書に対しては、歴史の専門家からの反論もあり、斯界では論争になっているらしい。門外漢のわたしには、どちらが正しいのかを判断できる決定打がない。しかし、この本を読む限りでは、歴史上の大事件であるにもかかわらず、通説どおりの理解では、不可解なことが多すぎる。今後の研究の進展を期待したい


福田千鶴『江の生涯-徳川将軍家御台所の役割-』中公新書、2010年

2013-06-30 22:23:18 | 歴史

          
 
 「江」(1573~1626年)は浅井三姉妹の末娘。彼女の実像が、極度に限られて資料をもとに、語られている。彼女については、虚像がふりまかれている。徳川二代将軍、秀忠の妻だったが、6歳年上の姉さん女房で、多産のうえ、嫉妬心が強かった、と。筆者は、彼女をこの虚像からそろそろ解放してあげたいと言っている。


  本書の内容は、その「江」の人生とその周辺の人たちとの関係を、彼女の3度の結婚を軸に解き明かし、その自分実像を彫琢していることである。小谷の方(織田市)を母に、浅井三姉妹の末娘として生まれた「江」は11歳で母を失い、父母の仇でもある伯父信長や義兄(養父)秀吉の庇護のもとで幼少期を過ごし、三度目結婚で徳川秀忠の妻となった。「江」と秀忠の間に生まれたのは、千、初の二女と忠長の一男(通説では、二男五女の子宝に恵まれたことになっているが、千、初、忠長以外の子は、「江」以外の女性からの出生であるという)。この事実を、著者は江戸時代の系譜や家譜にみられる作為、当時の大奥の制度(あるいは侍妾制度)、状況証拠、先行研究などから解明している。

   最初の結婚は知多の領主、佐治一成と(本書によれば入輿は無し)。通説ではこの結婚は、秀吉によって破談させられたことになっているが、著者によれば、これは誤伝であり、家康に嫁いだ朝日のそれとの混同されたものと断定している。著者は生前の信長による政略結婚であり、その際、三姉妹のなかから「江」が選ばれたのは「市」の意向だったと推定している。

   二度目の結婚は秀吉の甥、羽柴秀勝との間に成立した(実質的初婚)。ふたりの間には女子ひとりが生まれたが、秀勝自身は文禄の役の最中、発病し、急死した。享年二十四。そして三度目の結婚の相手が秀忠である。秀吉の養女としての、いわば政略結婚であった。

  「江」は秀忠の妻として、公儀ににおける表向きの母としての役割(将軍家御台所)を十二分に果たしつつ、表における自己主張を極力避け、夫に忠実につかえ、将軍家光の母、天皇女御和の母としてその生涯を終えた。頼るべき縁が薄かった江は、実子の婚姻や大奥において浅井人脈を重視し、徳川将軍家を支えながら浅井・豊臣の供養を一身に引き受けた。

  「江」という一人の女性をとおして、戦国期の女性の生き方を問い、正室の役割とは何かを明らかにしたのが、本書である。あまりにも少ない資料から、地道で正確な資料解読と推理を働かせて、真実に近づこうとする著者の姿勢に敬服した。誰もができる仕事ではない。


武光誠『お江-浅井三姉妹の戦国時代-』平凡社新書、2011年

2013-06-21 22:06:24 | 歴史

            

  浅井長政に嫁いだ織田信長の異母妹、お市の方には3人の娘がいた。茶々(淀殿)、お初、お江。彼女たちはそれぞれ、数奇な人生をたどる。

  茶々は秀吉の側室となり、秀頼を生んだ。お初は京極高次の妻に、お江は離婚を重ねて徳川秀忠の妻に。

   本書は、この3人の女性を基軸に戦国時代の推移を天下取りに向けた信長の野望から大坂夏の陣で豊臣が滅びるまでを解説している。薄い新書スタイルだが中身は濃い。

  切り口が斬新(と思える)。大坂夏の陣を、親キリシタン大名群と反キリシタン大名群との決戦とみたり、それを淀殿とお江との姉妹の争いとみたり。
  お初はここで姉の淀殿につくような動きをみせるが、お江と内通し、徳川方を勝利に導くための工作を行っていた。
  女性の能力を評価していることも特徴的である。男性と女性との役割をしっかり心得、対等の関係にあったととらえている。戦国時代は戦いに明け暮れた「男の時代」のようにみえるが、動乱の歴史のなかのかなりの部分が女性によってうごかされていた、とまで言い切っている。阿茶局、北政所しかり、お江、淀殿しかり。

  著者の戦国時代を見る目は、わたしにはあたらしかった。織田信長の国造りの構想、兵法の斬新さ。秀吉はどちらかというと「いけいけ」タイプで、民衆の統治を構想する力が弱かった。家康は詭計にたけ、情報戦略の意義を把握し、民衆統治への配慮も行き届いていた、など。

  さらに歴史に「もし、ならば」は禁句だが、人間のある主観的判断がその後の運命の岐路となったことも事実である。関ヶ原の合戦では真田昌幸が秀忠軍を粉砕し、その時点では西軍が優勢であった。石田三成のまずい指揮が西軍の大敗を結果させた。夏の陣で、淀殿があれほど決戦に執着しなければ、豊臣家が消滅することはなかった。歴史の無常を思い知らされる。

 「序章:関ヶ原以降、戦さは合戦から謀略戦に変貌」「第一章:天下統一とお市の姫たち」「第二章:お市の姫たちの生き方」「第三章:関ヶ原合戦」「第四章:豊臣家復興の謀略に動く淀殿」「第五章:大阪冬の陣」「第六章:大阪夏の陣」「終章:戦国の終わりとお市の姫たち」


長内敏之『「「くにたち大学町」の誕生』けやき出版、2013年

2013-05-12 14:32:52 | 歴史

             

  「国立」の街が、満洲の長春の街区に酷似していることに着目し、この街の成り立ちの経緯を調べ、いくつかの問題提起を行った珍しい本。


  本書では、国立の成立には、医者であり、満鉄総裁でもあった後藤新平が深く関わっていたと推測されている(「都市研究会」の人脈)。新平は若いころに都市計画あるいは測量に関心をよせ、台湾、満洲でいくつかの都市建築を指揮した経験をもっていた。その国立市は西欧の近代都市(ベルリンのウンター・デン・リンデン、パリのシャンゼリゼ通りなど)を範とする人造の田園都市であり、神田にあった一橋大学が関東大震災を契機に、当時の谷保村に移転する案が煮詰められ、「くにたち大学町」として具体化された。
  この「くにたち大学町」の特徴である道路が囲む矩形の構成は台北の三線道路に構造的に酷似し、また都市計画図は加藤与之吉が創ったといわれる満洲の長春や奉天の都市計画図が、新平から箱根土地株式会社の堤康次郎と中島陟(設計)に受け継がれたのではないかというわけである。


  著者はこの関係とともに、堤康次郎と当時の佐野善作学長との間にかわされた「覚書」にも注目し、「くにたち大学町」の成立の経緯を細かく分析している。この覚書には、上下水道の敷設、駅舎や停車場の用地提供、広い並木道の構想が示されているという。さらに取り壊された、ユニークな姿をもっていた旧国立駅舎は誰によって設計されたのかと問い、それは建築家ライトの影響を受けた河野傳ではないかと推定している。

  著者はさらに、このように「くにたち大学町」が歴史的価値、文化的価値をもつものであるので(日本最初のロータリー?、富士山を通景、大正から昭和にかけての建築物群)、それらが次世代に引き継がれなければならないと結論付けている。


中野等『立花宗茂』吉川弘文館、2001年

2013-05-02 23:52:21 | 歴史

          

  大変な本に遭遇してしまった。

  わたしは一旦読み始めた本を途中で投げ出すことはしない。わからなくとも、どんなに時間がかかっても最後まで読みとおす。そのわたしがこの本に入り込んだまではよかったのだが、難解で時間がかかり、長く抜け出せなかった。しかし、漸く完読した。

  本書は、立花宗茂を、残っている文書などから推察して、その人となり、功績を描きだそうとうしているのだが、歴史家のそういう仕事にまず驚いた。古文書を読み込むことができなければならない(「立花近代実録」「立花家譜」「立花家記」「薦野家譜「立斎様御自筆御書之写」「寛政重修諸家譜」「宗茂公戦攻略記」「豊前覚書」など多数)。素人では、この理解が容易でない。字が読めなければ話にならないが、昔の人が書いた文字を読むのには、かなりトレーニングが必要なのではなかろうか。さらに、残っている文書は相当あるようだが、それらが断片であることにはかわりなく、それらから纏まった結論を出すには現実的な想像力がいると思うが、それは誰にでもそなわっているわけではない。
  歴史家の仕事の成果物であるこの本は、いうまでもなく現在の人がわかるように工夫されているのだが(古文書には簡単な要約がついている)、難しかった。

  と、前置きが長くなったがこの本は、わたしがいくつかの小説で読んだ立花宗茂の人物と功績をまとめたものである。その出生から死まで、文書から分かることだけが書かれている。宗茂入嗣の経緯、立花城のこと、宗麟、道雪、紹運、千代のこと、日向耳川の合戦、島津の脅威、筑後へ軍政の展開、、秀吉への援軍要請、高鳥居居城攻略の戦い、秀吉の国割、山門部拝領、柳川移封、家臣団形成、家臣への知行給付、直轄地の代官職補任、朝鮮渡海、全羅道経略、碧蹄館の戦い、関ヶ原合戦、牢浪生活、大坂の陣、秀忠の「御噺衆」、再封、「内儀」の隠居、忠成への権限移譲、天草・島原の乱、隠居「立斎」など緻密。

   巻末に「戸次・立花家略系図」「吉弘・高橋・立花(三池)家略系図」「由布家略系図」「安東家略系図」「十時家略系図」「略年譜」「主要参考文献」。


堀井憲一郎『江戸の気分』講談社新書、2010年

2013-03-13 00:18:08 | 歴史

         

  落語を通して、江戸の気分をリアルに想像しようというのが、本書の狙いのようである。著者によれば、「落語は、口承芸能なので、江戸のころの空気がところどころに残っている」ので、「その当時の生活の空気が感じられるのだ。そこをとっかかりに江戸を暮らしてみる気分になってみる、という試みである」というのだ(「まえがき」p.3)。


  それで、どういう江戸の気分がかもし出されてくるのかと思って、本文に入っていくと、著者は、「まえがき」で宣言したとおり、いろいろな落語を引き合いに出して、病にかかった場合、神信心にすがる場合、武士が刀をぬく場合、火事の場合、花見をする場合、葬式の場合、カネを使う場合など、江戸の人たちの生活の臭いかぎとろうとしている。よく落語を聞いていないとこういう本はかけない。索引には何と116の落語が並んでいる。

  著者は1959年生まれのコラムニスト。落語関係の著書が多い。本書の目次は以下のとおり。
「第1章:病と戦う馬鹿はいない」

「第2章:神様はすぐそこにいる」
「第3章:キツネタヌキにだまされる」
「第4章:武士は戒厳令下の軍人だ」
「第5章:火事も娯楽の江戸の街」
「第6章:火消は破壊する」
「第7章:得江戸の花見は馬鹿の祭典だ」
「第8章:蚊帳に守られる夏」
「第9章:棺桶は急ぎ家へ運び込まれる」
「第10章:死と隣り合わせの貧乏」
「第11章:無人というお楽しみ会」
「第12章:金がなくとも生きていける」
「第13章:米だけ食べて生きる」
「附章:京と大坂と江戸と」


長辻象平『元禄いわし侍』講談社、2005年

2013-02-06 20:47:24 | 歴史

            

  時は元禄年間、綱吉の治世。具体的には、江戸城松の廊下の刃傷事件があった翌年という設定である。世の中にどこか異変の兆しがあった。生類憐みの令に始まって、元禄8年には四谷村と中野村に幕府の御用犬屋敷が造営された。また、この時代には、江戸には浪人があふれていた。各藩大名が些細な理由で改易、減封を被った結果である。


  この小説の主人公である笹森平九郎はそのような浪人のひとりであり、彼はかつて津軽藩家中だったが、藩財政の失政で家臣の召し放ちに応じたのだった。その半九郎は深川佐賀町の干鰯問屋武蔵屋の用心棒として雇われていた。武蔵屋の主は家付き娘の以登。婿をとっていたが、わけあっていま夫はいない。深川は鰯揚場で、武蔵屋はおりからの鰯の豊漁で潤っていた。景気がよく、みいいりがいいだけ、揺すり、タカリ、夜盗には好餌と映るはずで、そのために雇われたのが半九郎だった。

   話はこの武蔵屋を中心に、出自不明の吉田沢右衛門(後に吉良邸討ち入りの赤穂浪士のひとり)、弘前藩の忍びで討ち入りの動向を伺いながらこれを牽制する手廻り組に謹士する浪岡蔵人、怪しげな蛇使いの女おみのがいきいきと描かれる。武蔵屋を狙う阿漕な徒党、そして武蔵屋と取引のある九十九里浜の漁師たちとの駆け引き、その地に介入する上方資本との確執など、複雑多様な人間関係とそれにまつわる事件が、興味深く展開され、ぐいぐいと読者の心をひっぱていく。

   筋立てもそうであるが、登場する人間の心の機微と葛藤が、それぞれの背後にある過去と現在の諸相と重ねて、無理なく描かれているところが魅力である。イワシ漁の網の開発のくだりも、いろいろな苦労話が挿入され、興味深い。

   最後はどうなるのか、末尾の文章が心地よい。「手にした料紙を宙に舞わすと半九郎は抜き放った脇差を一閃させた。新春の陽光に丁子の華やかな刃文を浮かべた備中長船の白刃が眩しくきらめいた」。この文章の鮮やかさは、この小説を最後まで読み終えたものだけが味わうことのできる幸福である。


葉室麟『蜩ノ記』祥伝社、2011年

2012-09-18 01:01:00 | 歴史

                    
         
   羽根藩の戸田秋谷は江戸屋敷で側室と密通し、そのことに気づいた小姓を斬り捨てたとのかどで、七代藩主義之から10年後と期限を区切って切腹を命ぜられ、その間、向山村に幽閉され、そこで三浦家の家譜編纂をおこなうことが義務付けられた。編纂作業の日々を綴ったのが「蜩ノ記」であった。

   編纂作業に勤しむ秋吉のもとへ檀野庄三郎が使わされる。名目は秋谷の監視である。藩の政治に明るく、聡明で、正義感の強い秋谷が農民たちとかかわることがないよう、秋谷の行動を見張ることであった。庄三郎も、いわくのある過去があり、それは家老の甥にあたる信吾と些細なことで場内での刃傷沙汰をおこし、家老の所領である向山村に預けられたのだった。庄三郎は秋谷の家族と生活をともにしながら、次第に秋谷の人柄にうたれる、病床にある妻(織江)、娘(薫)、郁太郎という息子とも親しくなっていく。秋谷の失脚はいわれのないものであった。庄三郎はその背景をさぐり、次第にことの真相にせまっていく。

   この小説は余命が定められた秋谷がその時間をいかに大切にし過ごしたかを、また庄三郎の生き方をとおしてこの時代の人間関係の不条理さ、あるまじき出世争いの理不尽さを、当時の人々の人間関係、習俗のなかに物語化した作品である。

   読後の余韻が心地よい。


塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』新潮文庫、2008年

2012-09-05 00:21:51 | 歴史
塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』新潮文庫、2008年

           ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫 し 12-31)

 「ローマ人の物語」で有名な著者がルネサンスについて書いた本を集めたシリーズ『ルネサンス著作集』の第一巻です。対話形式で叙述されているので読みやすいことこの上なし。

 ルネサンスとはそもそも何だったのか。そのスタート地点にたつ人は誰? 話はそこから始まる。この問いに対する著者の回答は明快で、要するに、ルネサンスという精神運動の本質は「見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発」ということ(p.15)。「コンスタンチヌスの寄進状」(後に15世紀に生きたロレンツォ・ヴァッツラにより偽作とされる)に象徴されるキリスト支配の世界へのアンチ・テーゼである(p.21)。

 そのルネサンスのスタートを,著者は聖フランチェスカとフリードリッヒ2世としている。この点がユニーク(通説は詩人のダンテや画家のジョット)[p.18]。通説の100年前ほどまえにルネサンスの起点を設定している。

 フィレンツェでのルネサンスの盛隆は、古代遺跡・彫刻を精力的に収集し、「アカデミア・プラトニア」を創設したメディチ家のコシモ(p.116-)、出版業で名を成したアルド・マヌッツィオなどに焦点を絞って考察されている(p.79-)。

 その後、ルネサンスの中心はフィレンツェからローマへ。ここでのミケランジェロ、ダ・ビンチ、ラファエッロの活躍は人々の知るとおり。そして、フィレンツェ・ルネサンスの牽引車は大商人、ローマルネサンスのそれはローマ法王(p.149)だった。

 さらに著者は、キアンティ地方(ワインで有名)のグレ-ヴェを経てヴェネツィアへ。

 柔軟な外交と自由の空気のヴェネティア。同時代のボルテールは旧態依然の寡頭政下のヴェネツィアになぜ自由が保証されていたのかと疑問を呈していたほどだった(p.220)。ティツィアーノらのヴェネツィア絵画の[色彩に」に関する叙述が印象的である(pp.232-233)。

 それにしても、著者のイタリアそしてルネサンスについての知識は凄い。出発は学習院大学の学生時代の卒業論文にあったようです。疑問が一杯あって、まとまりに欠けていた論文だったが、その疑問が大きな仕事の切っ掛けであったそうだ。

 末尾に三浦雅士氏と著者の対談がある。虫瞰的な視点と鳥瞰的な視点とが適度に組み合わされているところ、歴史を総合的に描いているところ、人間の感情に関心をよせているところが塩野七生さんの魅力とのこと。

一大コンツェルンだった「満鉄」

2012-09-03 00:39:44 | 歴史

西澤泰彦『図説 満鉄』河出書房新社、2000年
       

          


 満鉄は日露戦争の産物です。具体的には、それは日露講和条約(ポーツマス条約)とそれと連動した満州に関する「日清条約」によって中国東北部に日本が獲得した権益の一環として実現したもの。

 1906年、野戦鉄道堤理部から旧東清鉄道の長春ー旅順・大連間の鉄道を引き継いだことで設立された満鉄。本社は東京におかれ、後藤新平が初代総裁に就任した。

 満鉄は鉄道会社を標榜していたものの、実際には鉄道沿線に広がる鉄道附属地を支配し、そこに都市を建設し、さらに石炭を掠奪し、自由貿易港である大連港の経営を物流を支配した。満鉄は日本による中国東北地方への侵略・支配機関であると同時に、支配地に設立された鉄道会社(半官半民の国策会社)だったが、その事業は多様だった。どの程度多様であったかは、本書で詳しく論じられている。

 鉄道業は当然としても、それに付随するホテル、倉庫の経営、炭鉱と製鉄所の経営、大連港の経営と海運事業、理・工・農学の研究開発、経済政策の立案、高等教育、等々。満鉄のこれらの事業内容をみると、それは一種のコンツェルンといっても過言でなかったようだ。

 しかし、事業の多様性は、基本的に1937年の満州国の設立まで。最盛時には、鉄道総延長1万キロ、社員40万人を擁した。傀儡政権である満州国の設立とともに、鉄道附属地は撤廃された。それに伴って、附属地で展開されていた行政は、全て満州国に移管され、満鉄は純粋の鉄道会社となった。

 本書は図説であるので多くの写真が掲載されている。文字部分による解説も詳細で充実している。


山口猛『幻のキネマ満映』平凡社、2006年

2012-09-01 00:37:57 | 歴史

        

           
         
 「満映」、正式の名は満州映画協会。それは昭和12年、新京特別市に設立されました。初代会長は清朝の皇族金壁東(粛親王善耆の第七子、川島芳子の兄)でしたが、実権は常務理事の林顕蔵専務理事(満鉄映画製作所出身)が握っていた。

 その2代目理事長に甘粕事件で有名な甘粕正彦が就任。実績が上がらなかった満映の映画製作を軌道にのせるための人事だった。

 甘粕自身は大杉栄虐殺に連座し服役後、渡仏。その後、満州へ渡り満州国民生部警務司長などを務め、協和会幹部の傍ら謀略機関の親玉として悪名を響かせていた。

 満映の設立は、日本の満州支配の浸透をはかったもので、より具体的には「日満親善」、「五族共和」、「王道楽土」といった満州国の理想を満州人に教育することが目的だった。しかし、映画はプロパガンダ的なものが大部分で、芸術的価値のないものばかりか、大衆受けもしない駄作が多かったようだ。

 本書の末尾にフィルモグラフィが掲げられているが、観るべきものはない。わずかに女優の李香蘭の発掘などが眼をひく程度。

 したがって本書は、著者が自認したように、最終的に満映の作品をたどるというのではなく、それに関わった人物を巡る話になった(p.516)。甘粕正彦はもとより、筆頭理事の根岸寛一、名プロデューサー・マキノ満男、映画監督・内田吐夢、カメラマン・気賀靖吾などなど。

 1945年10月1日、満州を「解放」した中国共産党は、満映を接収し、東北電影公司とした(さらに東北電影制片廠をへて1955年長春電影制片廠へと継承された)。満映の日本人技術社員のうち何名かは東北電影公司に残り、その後の中国映画の技術指導を行っていたことは、近年の研究で明らかになっている。

渡邊啓貴『フランス現代史』中公新書、1998年

2012-08-26 00:03:47 | 歴史

              

    フランスといえば、芸術、絵画、ワインなどを通して、この国のことを知ったつもりになっているが、その現代の政治、社会のことをどれだけの人が知っているだろうか。余程のフランスびいきの人でもない限り、知られていない、というのが現実だろう。専門家の世界でもそうらしく、著者はこの新書をまとめるにあたって、戦後のフランス史をたどることは、(その種の書物は邦語でも大部のものがいくつかあるだろうから)それほど難しい作業ではないと思っていたが、邦語の通史はおおざっぱすぎ、個別研究の数はあまりにも希少で、難渋したと述懐している(p.324)。

    本書は、第二次世界大戦のフランス解放から、シラク大統領の選出(1995年)、ミッテランの死(1996年)頃まで。ドゴール、ポンピドー、ジスカール・デスタン、ミッテラン、シラクと連なる大統領下の政治、経済、社会が淡々と綴られている。叙述は詳しいが、単調(しごく)。フランスの政治状況を時系列的にたどっていく手法で、几帳面にノートをとりながら読み進めることでもしないかぎり、頭に入らない。わたしの受け皿(フランス政治史の基礎知識)が貧しいので、こういうことになる。

   ポイントはいくつかある。第一は良くも悪くもドゴール主義がいまなお生きているということ。それは理想と現実主義との巧みな使い分けに象徴される。ドゴール主義はことに外交分野で顕著で、著者はそのことを「複雑なヨーロッパ国家関係の歴史の渦の中で生き抜いてきたフランスの知恵である。その意味では、核抑止力をついに放棄しなかったミッテランもその例外ではなかった。これをドゴール主義と呼ぶとすれば、左右の区別なく、フランス外交はつねにドゴール主義を堅持する」と要約している。

   第二はコアビタシオン(保革並存)。戦後は右翼、中道、左翼の力関係がつねに拮抗し、政権交代がたびたびであった。左翼(社会党、共産党)の影響力は無視できず、この点は日本の政治バランスをものさしとしているかぎり分りにくい。首相は大統領によって指名されること、歴史的なアルジェリア紛争、58年5月の学生紛争、われわれには想像しにくい事情がこの国にはある。

   本書執筆の基本姿勢が述べられている箇所があるので、少し長いがその個所を引用しておきたい、「戦後の復興期から高度成長期へと急速に拡大した国民経済は技術の急速な発展をともなって経済社会を安定させた。この産業社会は生活水準の向上と生活様式の大きな変化をもたらし、フランス社会の伝統的価値観を次第に崩壊させていった。そうしたなかで新旧の交代をドラスチックなは形で表現したのが68年5月革命であった。そして、それはまさに70年代の高度成長の限界=脱産業社会化の前兆でもあった。/今日のフランス社会は依然としてその延長にある。大きな流れとしては、イデオロギー収斂化の傾向のなかで、ネオリベラリズムへの傾斜が趨勢であるが、幾多の問題を内包するフランス社会は決定的な突破口を見出しているとは言い難い。しかし、ジスカール・デスタン時代、ミッテラン時代、シラク時代、さらに三度におよぶコアビタシオンの時代の経験は、苦衷からの脱出のためのフランス国民の倦むことのない試行錯誤でもある。そして、その内外政策の在り方がまさにフランスという社会の態様を明らかにしているのではないか」と(pp.323-324)。


長辻象平『忠臣蔵釣客伝』講談社、2003年

2012-08-24 01:05:52 | 歴史

            

   赤穂浪士討ち入り事件は、吉良上野介の屋敷に大石内蔵助を含め47士が赤穂藩主君の浅野内匠頭の仇を討つために襲撃した騒動であるが、津軽采女は上野介を義父としていた(上野介の娘あぐりと成婚していた)ので、この事件とも深く関わった。


   この小説は、津軽采女の視点から、赤穂浪士討ち入り事件およびその前後の江戸での権力確執(柳沢芳明と僧正隆光)の模様を描いたもの。刀剣にまつわる数奇な命運が随所で顔を出し、興味つきない。

   後者については、読み始めてすぐのところで、上野介が将軍から下賜された脇差の描写が細かいことに気付いたのだが、読み進むうちにその脇差と浅野内匠頭が勅使供応に使ったひと振りの刀との関係が説かれ、この小説に流れるひとつの筋になっていることがわかった、という次第である。

   上記の脇差しの描写は、こうなっている。「錦繍の刀袋から出てきた脇差は、印籠刻みの黒の蝋色鞘。ふっくらとした栗形には金の縁金の鵐目が嵌め込まれている。白糸で巻かれた柄には金無垢の獅子の目貫が使われている。鐔は深みのある黒の鳥金魚子地(しゃくどうななこじ)で、金象嵌の牡丹と獅子が山吹色に輝いている。鞘の両面に収められている小柄と笄も目貫と揃いの意匠であり、金の高彫りの獅子と鳥金魚子地の対比が美しい。いわゆる三所物である。将軍家の御用をつとめる後藤家の作であろう」(p.23)。

   このように刀の意匠を細かく記述した小説に出会ったことがないが、振り返れば、刀に対する著者の深い思い入れがすでにここにでているのである。次いで、采女はやはり吉良邸で人振りの別の脇差しを拝聴する場面がある。浅野内匠頭による勅使饗応の追加の礼物で、銘は村正入魂の刀であった。上野介のもちには、先の将軍から賜った脇差とともに、内匠頭から正宗銘の脇差、それも村正の由来を隠した脇差のあわせてふた振りの雌雄の吹毛剣がもちこまれたというわけである。このふた振りの吹毛剣がそろったあたりから、伝説に沿う形で殿中の刃傷事件が起こり、遺臣による仇打ち騒動が進んでいくと言う筋立てである。

  この小説の前に、夢枕獏の『大江戸釣客伝』を読んでいたのだが、いたるところで、異なった史実に遭遇して面喰った。作家の想像力でつくりあげた世界が双方にかなりあるようである。また、仇討事件そのものも通説とかなり異なる。仰天するようなことも書かれていた。