【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

雨ニモマケズ・・・の手帳

2007-10-31 00:49:12 | イベント(祭り・展示会・催事)

 平塚市美術館で「絵で読む宮沢賢治展」が開催されています。過日、少し遠かったのですが、行ってきました。どうして、わざわざ出かけたかというと、「雨ニモマケズ」の詩が書き込まれた手帳が11年ぶりに一般公開されたからです。

   

 小学生のころだったと思いますが、国語の教科書か、プリントで、賢治のこの詩を知りました。日本人でこの詩を知らない人はいないでしょう。子どもでも口ずさみやすく、覚えやすく、また詩の内容がわかりやすいです。

 賢治が病のなかでそれを書き、死後、発見された手帳に書かれていたのがこの詩です。それを見ることができるというので、2時間ほどかけて、美術館に行きました。今回、見なければ、おそらく、もう二度と見る機会はないものと思い、一大決心をして電車に乗りました。東京のほうから行くので、戸塚で乗り換え、平塚で下車、美術館までは徒歩で20分ほどです(行きはタクシー、帰りは歩きました)。

 いい展示会でした。「雨ニモマケズ」手帳をはじめ賢治の直筆原稿や水彩画、書簡などのほか、賢治童話を題材にした絵本原画や絵画作品により紹介されていました。


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキ小屋ニイテ
東ニ病気ノ子供アレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ



皆川達夫『バロック音楽』講談社新書、1972年。

2007-10-30 01:02:06 | 音楽/CDの紹介
皆川達夫『バロック音楽』講談社新書、1972年 バロック音楽バロック音楽 (講談社学術文庫)
 バロック音楽を西洋音楽史に正確に位置づけ、その音楽的特徴、音楽史的意義を解説した好著です。

 著者はバロック音楽のスタートをペーリのオペラ<エウリディチェ>が上演された1600年ととらえ、その終焉をバッハが亡くなった1750年としています(150年間)。

 バロック音楽の誕生はイタリアです。フランス、ドイツ、イギリスのそれはイタリア的なものの影響を受けながら、それぞれの民族色を反映した独自の音楽でした。バロック音楽といっても国によっていろいろです。

 バロック音楽の代表的な曲種は、器楽音楽と劇音楽で、その音楽的特色はルネッサンス音楽の要素であったポリフォニー(この用語を説明するのは難しいです)を継承、発展させ、対立する曲の緊張関係(通奏低音、構成法など)を特徴としました。

 また、バロック音楽では、劇性といえる内側にはらんだ矛盾を回避せず、相反する要素をひとつの楽曲に結集させているのも大きな特色です。

 日本人のクラシック音楽の理解の一面性(たとえばベートーヴェン、モーツアルトなどの古典派に偏重した音楽理解、またバロック音楽といえばヴィバルディの「四季」だけをとりあげて偏愛するといった類のもの)を指摘し、西洋音楽の歴史的流れの理解のもとにバロック音楽と近代音楽の本質と特徴をとらえるべきという著者の見解は、音楽芸術に対する真摯な姿勢にもとづくものです。

 啓蒙書として書かれているのでしょうが、素人にはかなり専門的な本のように感じました。

 それでもと言うか、それ故にというか、バロック音楽の真髄、国別の発展形態と特徴を学ぶことができ、有益でした。

 以下は忘備録です。

 [発祥の地イタリアでは、オペラの分野ででベル・カント様式が確立し、アリア、レチタティーヴォがそれぞれ独立していった。宗教音楽の分野でのオラトリオの展開も見逃せない。くわえて、この時代に、器楽音楽は自身の音楽語法をカンツォーナ、ソナタ、リチェルカーレ、トッカータという形式として発見し、開拓していった。フランスでは宮廷を中心に、イタリアの影響を受けつつも、これに意識的に反発しながら、独自のフランス様式が確立した。イギリスは清教徒革命後、彼らの音楽、演劇への否定的姿勢より長く音楽不毛の時代を経験した後、王政復古とともに音楽復興のうねりが出てくる。ドイツは音楽的には後進国であったが、16世紀の初頭からプロテスタント教会のための音楽が確立された。賛美歌コラールは、その創作の出発点となった。バロック音楽はふたりの巨人、バッハ、ヘンデル(同じ年に生まれている)によって集大成された。]

 著者は、元立教大学教授です。

 わたしが持っているこの本は、1972年刊行の講談社新書版ですが、近年この本は「講談社学術文庫」に入っているようです。上記の画像は、両者を掲げています。

おしまい。

カズオ・イシグロ/土屋政雄訳『日の名残り 』中央公論社、1990年

2007-10-29 00:46:59 | 小説
カズオ・イシグロ/土屋政雄訳『日の名残り(The Remains of the Day) 』中央公論社、1990年。
               画像1
 この小説は、かつて映画で観ました。大変、感銘を受けました。その原作です。

 イギリスのある邸宅の執事がかつての同僚で女中頭であった女性に(お互いに男女として好感をもっていた)、もう一度、邸宅に戻らないかと勧誘するために約30年ぶりに逢いにいくその旅すがら、過去のことを懐かしく追想するという話です。

 映画で観たときのそのストーリーと比較すると、小説のほうが「執事」とは何か、その役割、立場の叙述に重きを置いています。

 「執事」の「偉大さ」、「品格」「品位」の「哲学的」な考察にスペースを割いています。その話との関わりで、やはり執事だった主人公のスティーブンスの父親のこともかなり書き込まれています。

 また、ベルリン条約をめぐる1923年の国際会議に関わる記述が詳しいです。映画では30年代半ば以降の会議のほうに重点があったような記憶があります(小説にも30年代後半の国際情勢が書かれていますが)。

 そして、小説ですからイギリス西部の美しい風景、田舎の人々の生活の様子も細かく描かれていて好ましく思いました。

 かつてダーリントン卿の邸宅で執事を勤めていたスティーブンス、卿が亡くなって屋敷がアメリカの実業家ファラディの手にわたりますが、彼は引き続き、執事の職に留まります。

 しかし、雇人の規模が極端に少なくなって、仕事に支障がでてきます。補充が必要と考えていたところ、かつて卿のもとで女中頭として働いていたケントンから手紙が来たのを切っ掛けに、スティーブンスは主人が不在の時期に、余暇をもらい、彼女に会いに行きます。できれば、邸宅に戻ってきて欲しいと思いながら・・・。

 古きよき時代の回想が始まります。ふたりは大喧嘩もしましたが、気心が知れていました。

 ケントンはスティーブンスのことを親しく思っていましたが、執事の仕事に一途の彼は彼女に一目置き、好感を抱いていたものの、態度はどうしてもそっけないのです。
ケントンは彼を諦め、不本意な結婚をし、邸宅を辞します。

 コーンウォール州リトル・コンプトンのホテルでのふたりの30年ぶりの再会。ケイトンは結婚後もスティーブンスを想い、家出を繰り返しましたが、今では幸せな生活をしていました。孫ももうすぐ生まれる言いいます。

 スティーブンスは、久しぶりの再会を喜び、かつての彼女のスティーブンスに対する恋心も聞きます。

 そして、バスの停車場での別れ。海辺の町、ウェイマスの遊歩桟橋で見知らぬ初老の老人と「人生と一日の一番いい時間である夕方」についての会話の場面が切れて、小説も終わります。

 映画の話に戻りますが、スティーブンスとケントンの役は、アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンでした。小説を読んでも、確かに、このふたり以外にはありえない(と思いました)。本当に、ふたりは好演でした。

おしまい。

日本酒のおいしい季節

2007-10-28 01:14:37 | 居酒屋&BAR/お酒
 雑誌「dancyu」の今年の4月号、に読者の愛する日本酒のランキングが出ていました。図書館で見つけました。
        dancyu(ダンチュウ)
 それによるとベスト・テンは、次のとおりです。( )は得票数です。
①八海山(107)、②久保田(99)、③十四代(62)、④田酒(61)、⑤〆張鶴(51)、⑥黒龍(49)、⑦神亀(47)、⑧真澄(42)、⑨獺祭(41)、⑩飛露喜(38)

 わたしの好きな日本酒の順位は・・・・・・
①浦霞、②真澄、③〆張鶴、④剣菱、⑤久保田、⑥十四代、⑦神亀、⑧手取川、⑨酔鯨、⑩男山

 日本酒は好きですが、「天敵」でもあります。ウイスキーは飲んでもあまりこたえませんが、日本酒はすぐに酔ってしまいます。
  「ピッチが早いから(ビール飲みと同じペース)」と同僚は言います。おいしいからドンドン飲んでしまうのでしょうね。ですから、あまり、飲まないようにしています。
 翌日仕事がないとき、このときばかりはこころおきなく嗜みます。

おしまい。

新宿・中村屋

2007-10-27 00:47:44 | ノンフィクション/ルポルタージュ
宇佐美承『新宿中村屋/相馬黒光』集英社、1997年
       新宿中村屋 相馬黒光
 「カリーライス(カレーライスではない)」でつとに有名な新宿の「中村屋」には時々行きます。待ち合わせにも使います。

 創業者は中村愛蔵と黒光(星良)。時代を先駆的に生きた黒光は,戊辰戦争に敗れ朝敵呼ばわりされ,辛酸を嘗めた仙台藩士の娘です。

 伯母の艶をたよりにフェリス女学院に入学するもここの教育に失望し,明治女学校に入学します。22才で穂高で養蚕を営む愛蔵と結婚。

 1901年に上京,東大前に中村屋を開店します。以後,新宿に店を移転し,経営は順調に進みました。

 登場する人物群像が凄いです。巌本善治(黒光の命名者),島崎藤村,清水紫琴,萩原守衛,国木田独歩,野上弥生子,市川房枝,羽仁もと子,島崎藤村,水谷八重子,秋田雨雀。

 そしてインド独立運動の志士で,日本に潜伏していたボースを匿ったことで有名です(ボースは黒光の長女俊子と結婚)。

 また,盲目の吟遊詩人エロシェンコ,三・一運動に関わった朝鮮人林圭,朴順天を預かりました。

 自由民権運動に共鳴しながらも,右翼の大物,頭山満に心酔したばかりに大東亜共栄圏をもちあげたり,若かりし頃基督教の洗礼を受けたものの,晩年は仏教に傾倒,帰依したなどに見られるように,思想性に一貫性がなかったのが欠陥です。

 しかし、自立した気概ある女性として激動の大正,昭和を生きぬきました。

 著者は記録文学作家です。

 おしまい。

バイオリニストの本音

2007-10-26 00:48:53 | 音楽/CDの紹介

鶴我裕子『バイオリニストは肩が凝るー鶴我裕子のN響日記』アルク出版企画、2005年。
          クリックすると拡大画像が見られます
 著者は、N響専属のバイオリニストだった方です。いろいろなことを本音で語っているので痛快です。譜読みは「大相撲」をテレビで見ながらするとのこと、テレビ中継の演奏は嫌いだそうな、指揮者をいつも品定めしているとか、音楽的才能と人格は比例しないという見解、オーケストラの収入は指揮者がかなりもっていくらしい、等々です。

 参考になる話もあります。オケラの演奏日が連続するものは最初の日がよいとのことです。というのは、指揮者の個性が楽しめるからです。日がたつとオケラの個性が盛り返してきて、指揮者の個性が薄くなってくるらしいです。

 最近亡くなった指揮者の岩城宏之さんとの思い出で(Tシャツのプレゼントをもらった話)も書かれています(p.192)。

 マイフェヴァリットでは、ギトリス、クライスラー、クレーメル、グリュミオー、グールドなどが並んでいます。

 曲ではヴィオッティ「バイオリン協奏曲22番イ短調」、ヴュータン「バイオリン協奏曲5番イ短調」、サン=サーンス「バイオリン協奏曲3番ロ短調」、ベートーベン「バイオリン協奏曲ニ長調」、ラロ「スペイン交響曲」など。

 「裕子の音楽辞典」では、自分流に音楽用語(ヴィブラート、デタッシュ、ポルタートなど)を解説しています。個性的な人です。1947年2月27日生まれ(ギドン・クレーメルと同じ日)と書いています。

おしまい。


長田渚佐『欲望という名の女優ー太地喜和子』角川書店、1993年。

2007-10-25 00:37:39 | 評論/評伝/自伝

長田渚佐『欲望という名の女優ー太地喜和子』角川書店、1993年。
                    欲望という名の女優 太地喜和子
 「飢餓海峡」の演技を観て以来,キワコを姉御として慕うにいたった著者が渾身の力をこめて執筆した太地喜和子の実像です。

 「飢餓海峡」はキワコの舞台でのターニングポイントでした(p.113)。東映の雌伏の時代の「志村妙子」から,持ち前の才能を発揮して、キワコは俳優座養成所,文学座をへ,女優として成長していきます。

 恋多き女,「激情・奔放・多情・過激」を売り物にする女優キワコは,三國連太郎,中村勘九郎と浮名を流します。

 演出家・木村光一(キワコの51種の芝居のうち21本を演出),脚本家・秋元松代,宮本研との出会い。キワコはいつも「いい本が欲しかった」ようでした。

 著者は連太郎,勘九郎他,キワコの周りにいた人々(蜷川幸雄,北村和夫,山城新吾,育ての親・稔など)にインタヴューを試み,彼女の人間性をあぶりだしていきます。

 48才でキワコは事故死(伊東で乗車していた車が海に落ち溺死)。「唐人お吉ものがたり」の公演の直後でした。

 彼女が生涯で演じたかった作品は「欲望という名の電車」のブランチだったとか。

 産みの母親を知らず、母親を探し続けた彼女は、本当は大変な「寂しがり屋」だったのでは・・・(と想像します)。だからついついお酒に手がいったのかもしれません。

おしまい。


井上ひさし『頭痛肩こり樋口一葉』

2007-10-23 23:28:41 | 演劇/バレエ/ミュージカル

井上ひさし『頭痛肩こり樋口一葉』集英社、1984年。
              
頭痛肩こり樋口一葉
 井上ひさしの傑作です。もう17年ほど前に紀伊国屋ホール(新宿)で「こまつ座」のこの演劇を観ました。そのころは、一葉についての知識もあまりなく、印象に残っていることはと言えば、「花蛍」を演じた新橋耐子がすごかったことぐらいでしたが、今回、脚本を読んで、圧倒されました。よく練られていて、今日のブログの最後に書くように、一葉の人生、周囲の人間模様、それが舞台に見事にはまるように作られています。たくさん歌が出てきますが、これも「ひさし」さんの脚本のすぐれたところです。
      
 時代は明治
23年(1890年)から明治31年(1898年)。それぞれの年のお盆(一回例外)です。

 場所は
5箇所です(芝西応寺町60番地樋口虎之助の家、本郷区菊坂町70番地樋口夏子の借家、同69番地樋口夏子の借家、下谷区竜泉寺町368番地樋口夏子の借家、本郷区丸山福山町4番地樋口夏子の借家,
福山町4番地樋口夏子の借家)。

 お盆が一年ごとに来るたびに、近しい人が亡くなり、その橋渡し、あの世と現世の仲介役を「花蛍」が演じます(新橋耐子)。

 「花蛍」は吉原のお抱え女郎の源氏名、身請けしてもらい損ね、餓死したのです。「現世」に怨念をもち、仇打ちに虎視眈眈、あの世への道連れを探し、樋口家にも必ず盆礼に来ます。

 主人公は夏子(樋口一葉)、樋口家の柱として、家計のやりくりに苦慮、「物書き」として頭角をあらわしますが、貧乏から抜け出せません。身体の健康は損なわれて、頭痛、肩こりが日常茶飯事でした。最後は病気で、亡くなります。

 世間体ばかり気にする母親の多喜、甲斐甲斐しい妹の邦子、旗本稲葉家の娘であるが(かつて多喜が乳母だった)、夫の「武士の商法」がうまくいかず、樋口家に無心にくる鉱。樋口家で世話になっていたものの転落の人生をしょいこんだ八重。そして花蛍。場面展開、人物配置が見事です。

 作者は、一葉が生きた明治の時代、江戸の情緒がいまだ残っていた東京の下町を背景に、一葉の小説の一部を織り込み、この女流作家の暮らしぶりと感覚とが滲み出る脚本です。

おしまい。

 


杉田久女の再評価(田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる・・・』集英社)

2007-10-22 00:37:51 | 評論/評伝/自伝

田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛の杉田久女』集英社、1987年    

 女流俳人、杉田久女の評伝(1890-1946)です。

 田辺聖子の快心の作品です。過大評価でもない、過小評価でもない等身大の杉田久女を描きました。

 久女は見事な俳句を多くつくりましたが、「自分勝手な変わり者で、周囲の人を振り回し、最後は気がくるって『独語独笑』で死んだ、人間として欠陥の多かった人」と評価されてきましたが、この評価はあたっていないことを、客観的な資料をもとに、明らかにしました。

 むしろ、上記の風評は当時「ホトトギス」を主宰し俳句の世界で神様のような存在であった高浜虚子(正岡子規の弟子)による久女評価(嘘八百の捏造)に根があったことを突きとめ、久女伝説に終止符をうち、彼女を復権させました。

 久女は不幸な結婚後、次兄の手ほどきで俳句を嗜み(その時27歳)、その後短期間でめきめき頭角をあらわし、実力では当時の第一線に躍り出た人でした。

 理解のない夫、休む暇ない家事・育児のなかで秀逸な作品を次々と世に出し、写実主義の舞台であった「ホトトギス」で評価を得ました。

 彼女は俳句にのめりこみ才覚を発揮したのですが、性格的に思い込みが強く、ナルシズム的な気性があり、人間関係を上手く作れず、それらが保守的な時代の世相と、小倉という土地柄に増幅されて誤解が誤解を生んだのです。

 能力を評価され「ホトトギス」の同人となりましたが、虚子に嫌われ、疎まれて除名されてから(虚子は久女の才能は認めていた)、作品に精彩を欠くようになります。虚子への傾倒が深く、昭和10年頃から14年頃まで200通以上の手紙を書きましたが、ほとんど無視されました。最後は自分の「句集」の出版に期待をかけましたが叶わず、戦争に入って、窮乏と栄養失調のため筑紫保養院でひとりさびしく他界しました。

 虚子は自身による久女の「ホトトギス」除名を正当化するために事実を捏造し、彼女の生そのものを貶めた形跡があります。あってはならないことです。

 著者は人間、久女によりそいながら、その才能を評価し、久女の実像を形にしました。

 花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ
 谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま
 朝顔や濁りそめたる市の空
 紫陽花に秋冷いたる信濃かな
 夕顔やひらきかかりてひだ深く
 鶯や螺鈿古りたる小衝立

 本書は、514頁の大作です。


トルコ旅行覚書⑤

2007-10-21 01:02:27 | 旅行/温泉

トロイの遺跡にたつ。 

 トロイ戦争で有名な「トロイ」はトルコにあります。ホメロスの叙事詩「イーリアス」に描かれたのがトロイ戦争ですが、この話が実際にあったことなのかは長い間、謎でした。ところがドイツの貿易商シュリーマンがこの話を信じ、発掘にとりかかかり、見事にその存在をつきとめました。

 ホメロスの描いたトロイ戦争とは、次のようなものです。昔、ヘラ、アテネ、アフリディテという3人の女神がいました。ある日、「世界で一番美しい女神は誰か」をめぐって争いがおこり、トロイの王子パリスにそれを尋ねました。そのとき、3人の女神は自分を選んでもらおうと、王子と密約を交わします。ヘラは自分を選んでくれれば「支配権」と「富」を、アテネは「戦いの勝利」と「知恵」を、アフロディティは「世界一の美女」を約束しました。王子はアフロディティを選びました。王子は絶世の美女であるスパルタの王妃ヘレネを得ることができました。

 スパルタの王メネラーオスは怒り、兄のミュケナイ王アガメムノンを総大将として、ギリシャの兵士たちをトロイに遠征させました。ここにトロイ戦争が始まります。

 ギリシャ軍はトロイの王城を包囲しましたが、トロイの守備は堅固で陥落しません。戦争は
10
年も続きました。

 ギリシャの猛将はアキレウス、獅子奮迅の勢いで戦い、トロイ軍は総崩れになります。トロイ軍は城に退却しますが、ひとりトロイの総大将ヘクトルは城外にとどまりました。ここでアキレウスとヘクトルが一騎打ちとなります。

 この一騎打ちはアキレウスがヘクトルを槍でさし、凱歌をあげます。ヘクトルの父であるトロイの王プリアモスは悲嘆にくれますが、アキレウスもその踵をパリスの矢で打ち抜かれて斃れます。

 ギリシャ軍はこのあと智将オヂュッセウスが謀をめぐらします。アテネの神に捧げるとして木馬を残して、軍事撤退しました。ところが、この木馬のなかにはギリシャの兵士が隠れていました。トロイの人々はギリシャ軍が退散したとみて、この木馬を戦利品として場内に引き入れました。

 勝利の宴に酔っていたその深夜、木馬にひそんでいた兵士が抜け出て、城の門を開きます。松明の合図で、港に待機していたギリシャ軍が攻撃を開始し、ついにトロイは滅亡しました。

 この話を史実として疑わなかったシュリーマンは、187048歳のときに発掘に着手、19736月に「トロイの財宝」を発見しました。シュリーマンはその後も発掘を続け、発掘による古代の遺産はドイツに送りました。そして第二次世界大戦後、それらはさらに旧ソ連に引き渡されました。

 トルコ政府はいまその返還をもとめて、国際裁判にかけているそうです。

 今回の旅行ではこのトロイの遺跡をひとめぐりしました。シュリーマンの話はわたしが子供のころ、何かの本で読んだ記憶があります。その地に自分が立つとは、思ってもみませんでしたが、それが実現しました。まだ灼熱の太陽の光がまぶしい一日で、汗は吹き出るし、のどは乾くし、しかし実に感動的な体験でした。現地には、観光客用でしょうか、この写真にあるような「トロイの木馬」があります。入ろうと思えば入れます。小さな窓から顔を出すことができます。でも、これは興ざめでした。
      念願のトルコ探訪!<トロイ編> by serichiさん
 これで、トルコ旅行覚書はおわります。


トルコ旅行覚書④

2007-10-20 00:56:49 | 旅行/温泉

トルコ旅行覚書④

<パムッカレ>
 トルコの西側にパムッカレというところがあります。ここには広大な石灰棚があり、温泉が湧いています。パムッカレとはトルコ語で「綿の城」という意味です。世界遺産です。
     パムッカレの温泉石灰棚
 豊富なカルシウムと二酸化炭素を含んだ温泉が地表を流れるときに、石灰質の膜が崖に残り、長い時間をかけて一面が雪で覆われているように真っ白くなり、そのようにしてできた棚がこれです。

 この棚には靴を脱いで入りました。温かい湯を堪能できますが、気をつけていないと滑ることがあるかもしれません。
140730 B

<エフェソス>
 パムッカレからそれほど遠くないところにエフェソスがあります。ここには古代都市の遺跡が残っています。トルコでも指おりの古代遺跡です。ローマ時代の体育館、祭壇、議会、図書館(120万冊の蔵書があったそうです)、公衆トイレなどがあります。アルテミス神殿にあったコレスス門も見ることができます。

 当時を伝える遺跡が比較的きれいな形で保存されているので圧巻です。一見の価値があります。

 あと一回、トロイのことを書いて「トルコ旅行覚書」は終わります。


西洋絵画を読み解くには・・・

2007-10-19 00:31:13 | 美術(絵画)/写真

木村泰司『名画の言い分』集英社、2007年
      名画の言い分―数百年の時を超えて、今、解き明かされる「秘められたメッセージ」
 大変よい本に出会いました。ジャンルで言えば、西洋美術史の著作です。西洋絵画の見方を説いたものですが、それが『名画の言い分』という表題になっています。

 西洋の絵画にはルール、約束事、また「概念」があるというのです。言い換えれば
、かつて画家は何でも好きなものを書いていたのではなく、時代、文化(宗教)の縛りのなかでの仕事として絵を書いていたとか。くわえて彼らの社会的地位は低く、場合によっては差別的な眼で貶められていました(画家が芸術家として評価されるのは近代以降であろうか)。

 さて、その絵画を含む西洋美術の話ですが、ある意味で驚きの、あるいは新しい知見との遭遇の連続でした。

 例えば、古代ギリシャの彫刻では男性のヌードが多く、女性の彫刻は着衣の女神が多いのだそうです。古代ギリシャでは男性の裸体は美の象徴として称えられました(古代オリンピアでは男性が裸体で競技していた)が、女性が裸体をさらすことはもってのほかでした。この時代の男尊女卑の現れです。

 時代をくだると、西洋絵画はギリシャ神話、キリスト教が絵画の素材に使われるようになります。ギリシャ神話、キリスト教の含意が絵画に込められるようになるのですから、これらが分からないと、絵画が発信するメッセージは理解不能になります。

 さらにプロテスタント運動、市民階級の勃興、近代的な自我の確立などを背景とし、絵画は進化します。著者はそのプロセスを読み解いていきます。

 ネーデルランドでの宗教画の劇的変化、肖像画に隠されたメッセージ、オランダに流行した風俗画の魅力、風景画の登場、印象派の真髄など興味深い話がわかりやすい表現で語られます。たとえば、宗教絵画では、室内に描かれた家具調度にも「意味」があること、ルネサンス時代の肖像画の大半は「横顔描写」であったわけ、それが15世紀のフランドルの画家たちによって「4分の3正面」顔になったこと、庶民の笑顔が初めて描かれたのは17世紀のオランダのフランス・ハルスが描いた『陽気な酒飲み』あたりから(下図)等々、タメになる事が満載されています。
       陽気な酒飲み1628-30 アムステルダム国立美術館
 取りあげられている絵画(彫刻を含む)は
106
件。ボッティチェリ『プリマベーラ』、ラファエッロ『アテネの学堂』、ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』のような有名なものもあれば、初めて観る絵も多数です。

 宗教絵画の解説は、一段と光っています。

 著者はクロード・ロランが好きだそうです。

 「感性で美術を見る」のは間違いで、「その時代のメッセージや意図を正確に読み取る」のが西洋美術鑑賞の醍醐味であるというのが著者の見解です。

 おしまい。


ワインの蘊蓄を語るための虎の巻

2007-10-18 00:44:01 | 居酒屋&BAR/お酒

稲垣眞実『ワインの常識』岩波新書、1996年
       
 ビールや日本酒のお手軽さに較べ,ワインには何となくかしこまった感じがあります。しかし,ワインの本場ではワインは「パン」のような日常食です。

 これに対し,わが国ではビールは普及しているものの,ワインの人気は今ひとつ,消費量も少ないです。

 著者はその現状を直視しながら,ワインの魅力を存分に語ります。

 ワインの知識を鍛える第一歩は,ぶどうの品種を覚えるのがよいようです。英語の習熟に基本単語を覚える要領だ、と書いてあります(p.96)。

 赤ワインならカベルネ・ソービニヨン,メルロ,カベルネ・フラン,ピノ・モワール,白ワインならソービニヨン・ブラン,シャルドネ,セミヨンといった具合です。

 ワインを飲んでぶどうの品種,その育った土地を想起できれば確かに味わい深いことでしょう。

 ワインの製法は日本酒よりは単純であるとのこと。ワインに関する著者の博識ぶりには驚くばかりですが,「これまでにテイスティングしたワインは数千種には上る」(pp.207-208)というから、それももっともなところです。

 国別にワインを紹介し,特色を整理し,嗜み方も論じているので,ワインの薀蓄を語る虎の巻になりますね。

 以下は目次です。
1 ワインと日本人
2 ワインこそ液体のパン
3 世界のワイン産地
4 日本酒のある国のワイン通
5 ワインを楽しむためのアドヴァイス


おしまい。


フェルメールの魅力

2007-10-17 00:24:07 | 美術(絵画)/写真
赤瀬川原平『フェルメールの眼ー赤瀬川原平の名画探検』講談社、1998年
                
 音読しました(約40分)。抜群に文章がうまいのです。

 現在世界に36点しかないフェルメールの絵を赤瀬川さんの案内で鑑賞しました。わたしが見た本物は8点です。

 赤瀬川さんはフェルメールを「カメラができる前の写真家」と呼び,科学者の目を彼の特徴として指摘しています。

 「目の物理的な効果」「心理的な人間効果」がそこでのキーワードです。この画家の絵について多くのことを学びました。

 視線のリアリティさとその構図的意味合い,「デルフトの風景」での2人の点景人物が果たす役割,左の窓から入る光線の効果,大胆な粗いタッチの新鮮さ,などなど。

 また,よく描かれたのは若い女性,手紙,地図,カーテンなどであるそうです。女性の笑顔の絵が多いのもこの時期の絵画としては珍しいとか。

 「真珠の耳飾の女」は映画化されましたが,いい映画でした。

『経済白書』の歴史にモノ申す

2007-10-16 01:06:18 | 経済/経営
岸宣仁『経済白書物語』文芸春秋社、1999年。
        経済白書物語
 昭和22年「経済実相報告書」に始まる戦後の52冊の「経済白書」を論じた本です。

 「経済白書」は現実経済の忌憚のない分析を目的とするのですから,「経済白書」の分析は戦後日本経済の分析になるはずです。が,必ずしもそうならなかったと、著者は書いています。ここに大きな問題があります。

 「国も赤字,企業も赤字,家計も赤字」の「都留白書(22年度)」は,平易な言葉で経済の実態を説明した定評のある白書です。

 「もはや戦後ではない」と指摘した白書(31年度)を執筆した後藤誉之助は,33年度白書で景気判断を誤り,失意の晩年を過ごしました。

 円切上げを指摘しなかった「敗北の白書」(46年度),インフレを過剰流動性で置き換え,現実を歪曲した48年度白書,バブル経済への警告に無頓着だった91年度白書,「消費税不況」を認めなかった98年度白書。

 著者は白書の権威失墜の理由を,この「十年近くにわたる日本経済の長期的な下り坂を最後まで認識しえなかったこと」(p.302)にあるとし,「経済実体を赤裸々にカ活写した『都留白書』の原点に戻るべき」(p.307)と力説しています。

おしまい。