【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

新型コロナウイルス感染拡大の影響は甚大

2020-03-06 23:21:01 | 経済/経営
今日の東証一部では日経平均が579円下落、このところの続落傾向に歯止めがかからない状況です。

わたしが注目してみていた個別銘柄で一時堅調だった任天堂、カプコン、トヨタ、JR東海、モルファ、アカツキ、日東電工、ソフトバンクグループなどみな大幅下落です。

日本時間0時5分現在、NYダウ平均は832ドル下落、ナスダックは237ドル下落です。

下記のような記事がありましたので、掲載します。

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東京五輪中止なら損失7.8兆円=新型コロナ影響試算―SMBC日興

<2020/03/06 18:56時事通信>
 SMBC日興証券は6日、新型コロナウイルス感染が7月まで収束せず、東京五輪・パラリンピックが開催中止に追い込まれた場合、約7.8兆円の経済損失が発生するとの試算を公表した。国内総生産(GDP)を1.4%程度押し下げ、日本経済は大打撃を被るという。

 SMBC日興は、新型ウイルスの世界的な感染拡大が7月まで長期に及ぶ場合は五輪開催中止の可能性が高いとみている。五輪に絡む損失では、宣伝や輸送といった大会運営費に加え、訪日客を含む飲食・グッズ購入など観戦関連支出で計6700億円とはじいた。新型肺炎の感染拡大が収まらず、国内消費のほかサプライチェーン(部品供給網)の依存度が高い中国を取引先とする輸出入減少などの影響と合わせると、損失総額は7.8兆円程度に上ると見込んだ。

『マルクスの恐慌論』(桜井書店、2019年)

2019-10-25 00:04:43 | 経済/経営
編著者の小西一雄先生、前畑憲子先生から献本として、『マルクスの恐慌論』(桜井書店)が届きました。全体が770ページの大著です。偉業としかいいようがありません。全部を通し読みするのは,わたしにとってはいささか難儀で。「はじめに」と「あとがき」をこれから読みます。




伊藤孝『ニュージャージー・スタンダード石油会社の史的研究』(北海道大学図書刊行会、2004年)

2018-10-14 12:29:22 | 経済/経営
      

 著作紹介の3日目は、伊藤孝『ニュージャージー・スタンダード石油会社の史的研究』(北海道大学図書刊行会)です。伊藤さんはわたしが北大の助手だった頃に、大学院生で、同じフロアにある研究室にいました。研究室にいつ訪ねていっても、勉強(研究)していました。この著作は地道で真摯な研究の成果で、偉業としかいいようがありません。これから、理解できるところを読み進めます。

・序章
 第1節 本書の主題と構成
 第2節 「解体」以前の原油獲得と製品販売
 第3節 「解体」とその意味

<第Ⅰ部>
・第1章 1920年代初期から第2次大戦終了まで
 第1節 はじめに
 第2節 原油生産体制の強化と到達点
 第3節 輸送体制の構築と精製事業
 第4節 世界市場での製品販売活動
 第5節 小括

・第2章 1920年代の活動と戦後構造の原型形成
 第1節 はじめに
 第2節 アメリカにおける原油生産事業と生産割当制度
 第3節 外国における原油生産事業と過剰生産への対応
 第4節 アメリカにおける製品販売と市場支配
 第5節 外国における製品販売と市場支配
 第6節 小括

<第Ⅱ部>
・第3章 第2次大戦期の活動とその特質
 第1節 はじめに
 第2節 戦略物資の生産事業
 第3節 輸送問題とその打開
 第4節 原油生産における問題とその打開
 第5節 製品販売の特質と市場支配
 第6節 小括

・第4章 原油生産活動の新展開
 第1節 はじめに
 第2節 アメリカ
 第3節 ヴェネズエラ
 第4節 中東・北アメリカ地域

・第5章 世界市場における製品販売活動
 第1節 はじめに
 第2節 アメリカ
 第3節 カナダ・ラテン・アメリカ
 第4節 西ヨーロッパ
 第5節 アジア、その他
 第6節 小括

・第6章 イギリスにおける製品生産と販売活動
 第1節 はじめに
 第2節 石油製品の生産体制の形成と展開
 第3節 中東原油の確保とタンカー船団の拡充
 第4節 製品流通機構の再編成・刷新
 第5節 財務についての若干の考察
 第6節 小括

・第7章 石油化学事業の進展と問題点
 第1節 大戦終了以降1950代半ばまでの活動
 第2節 1960年代半ばまでの事業拡充
 第3節 活動の問題点と1960年代後半における事業の再編成

・終章 総括、残された課題、展望

東谷暁『経済学者の栄光と敗北-ケインズからクルーグマンまで14人の物語-』朝日新書、2013年

2014-03-08 22:11:34 | 経済/経営

                         

  経済学説史の本となると、決まったパターンがあって、ケネー、スミス、リカードからはじめて一方でマルクスへ、他方でマーシャル、ピグー、そしていろいろあってケインズで終わるものが多い。ケインズ以降は、モノグラフ的にフリードマン、サプライサイダーなどが扱われるが、つながりがよくわからないまま学説史の趣はなくなってくる。

  しかし、この本は、ケインズからはじまって現代にいたる経済学の学説史であって、よくもわるくもケインズが起点になって、系譜がみとおせる。ありがたい本である。

  ケインズから、サミュエルソン、ガルブレイス、ミンスキー、フリードマン、ベッカー、ボズナー、ルーカス、ハイエク、ポランニー、ドラッカー、クルーグマン、シラー、スティグリッツと続く。どの経済学者にも、生まれ、学歴、学問上の系譜、理論の概要がコンパクトに叙述されている。

  要点が冒頭に掲げられているのもよい。たとえば、サミュエルソンについては、「サミュエルソンは大学院時代にケインズ経済学に出会い、アメリカを代表するケインズ経済学者となるが、彼の経済学の根底にあったのは新古典派の経済学だった。やがて、インフレと不況の同時進行とシカゴ学派の台頭によって、主導的地位を奪われることになる」とある。ミンスキーについては、「ケインズ経済学と新古典派の結合が進むなか、ミンスキーはケインズ経済学の核心である金融の不安定性と不確実性を繰り返し指摘し続けた。彼は政策を提言するよりは資本主義の脆弱性を強調したが、その主張は最近まで傍流にとどまっていた」とある。

  現代の経済学の潮流を俯瞰するには便利な本である。


川北隆雄『日本国はいくら借金できるのか?-国債破綻ドミノ-』文藝春秋、2012年

2012-12-20 00:24:00 | 経済/経営

           
   日本の財政が破綻寸前であることは、かなり以前から言われている。今や、世界で最悪である。いろいろな指標でそれを確認できるが、著者はまず政府債務残高の対GDP比に、次いで単年度の財政赤字の対GDP比が重要であるという。前者では日本の財政は200%を超えようとしている。アメリカ97.6%、イギリス90.0%、ドイツ86.9%、フランス98.6%などとくらべても桁違いに高い。EUでやはり財政危機に落ちいってるギリシャでさえ165.1%である。後者でも日本の数字は悪い。この指標で日本は8.9%だが、アメリカ10.0%、イギリス9.4%、ドイツ1.2%、フランス5.7%である。

   借金の実額もあがっている。それによると財務省理財局の推計では11年末現在の国の借金総額は954兆4180億円、主計局の推計では12年度当初予算ベースの国の長期債務残高は737兆円(13年3月末)であるという。ものすごい額である。癌は国債の発行に他ならない。国の借金である国債発行額は毎年百数十兆円の規模である。

  このような事態に直面しながら、日本財政がまだもちこたえている根拠として、巷間では日本は円を発行できるので国債の償還能力に問題がない、経常収支が黒字基調である、日本は先進国なのでデフォルトは起こりようがない、世界最大の貯金過超国である、この豊富な個人金融資産で国債がほとんど国内で消化されている、などを列挙し、ただちに危険水域に入るわけではないと指摘してきたが、著者はそれらひとつひとつの要因が危うくなってきていることを示し、問題の深刻さを喚起している。

  さらに、EU各国の財政危機、ロシア、アルゼンチンのデフォルトおよびアジア通貨危機、アメリカでの国際の格下げの衝撃(2011年8月)との関連のなかで、当該問題を考察し、その行き着く先を展望している。

  このままいくと日本の財政は破綻する。時間の問題である。それは7,8年後から10年後というのが著者の予測である(p。226)。その根拠は、「国債など政府債務を国内貯蓄でまかなえるかどうかは、一応個人金融資産1471兆円をベースに考えてよく、まだ317兆円も余裕があるわけだ。問題は、この数字が十分に大きいのかそうでないのか、と言うことである」が(p.157)、2021年には政府債務が個人金融資産を食いつぶすからである(p.226)。


ラニー・エーベンシュタイン/大野一訳『最強の経済学者 ミルトン・フリードマン』日系BP社、2008年

2012-12-19 00:08:39 | 経済/経営

              

 シカゴ学派、リバタリズム(自由市場主義者)で貨幣数量説を唱えた(「インフレは、いついかなる場合も貨幣的な現象だ」)の大御所であるミルトン・フリードマン(1912-2006)は、どういう人物で、どういうことを成したのか?

 その思想、考え方には全く同意できまないが、政治・経済の分野で多大な影響力のあった経済学者であったのは事実なので、知っておく必要がある。

 米国レーガン政権、英国サッチャー政権の新自由主義的改革の理論的バックボーンであったことは、つとに知られている。
 ケインズ流の「大きな政府」に反対し、「小さな政府」を標榜した。資本主義経済が直面した経済不況(恐慌)の治療に、ケインズは財政政策を重視したが、フリードマンは貨幣政策に重きをおいた。
 ケインズ政策とは、真っ向から対立している。市場経済、物価の安定、民営化、自由貿易、小さな政府、減税、変動性相場性、税率区分の簡素化、金融政策によるインフレ抑制など多くのメッセージを示した。これらは、現在各国で展開されている経済政策の中心をなすものばかりである。
 他に、教育バウチャー制度の導入、麻薬の合法化、福祉削減などの提言も行ったが、違和感はぬぐえまない。

 主な著作は「合衆国の貨幣史(アンナ・シュワルツとの共著)」「実証的経済学の方法と展開」「資本主義と自由」「価格理論」「選択の自由(妻との共著)」。

 わたしは個人的には、国民経済計算の発展にフリードマンがどのような貢献をしたのかを知りたかったが、本書ではニューヨークの全米経済研究所(NBER)で国民所得関係の仕事をサイモン・クズネッツの助手として遂行していたいたことが簡単に触れられている程度だった(p.57-8)。
 経済学の数学利用に関しては、コールズ委員会のようにそれを抽象的で、知的ゲームのように扱う方法論にはくみしなかったようだ(p.79)。MITの数学を駆使した方法論にも批判的だった(p.201)。
 
 フリードマンがチリのピノチエット軍事政権に関与したり、中国、ロシア・ポーランドでの市場経済の推進にひとはだぬいだことは(pp.275-278)、本書でも触れられている。フリードマンがノーベル経済学賞を受賞したさいには、とくに前者の経歴をとりあげて、その受賞に反対する声が大きかったようだ(pp.244-5)。(フリードマンの弟子であるシカゴ・ボーイズが果たした役割についての記述もある[p.243]。)。

 1-6章は幼少期から30年代前半、7-19章は学者として円熟期を迎えたシカゴ大学時代、20-24章はメディアで活躍した50年代半ばから晩年まで。巻末にネイサン・ガーデルスによるフリードマンのインタビューがある。


岩田規久男『日本銀行 デフレの番人』日本経済新聞社、2012年

2012-12-03 00:23:21 | 経済/経営

          
   日本経済は財政赤字とデフレという深刻な事態に直面している。その期間は14年間とかなりの長期にわたっている。政府と日銀が果たさなければならない役割は大きい。しかし、日銀の金融政策は一向に奏功しない。本書はその日銀金融論を徹底的に批判した内容となっている。


   2012年2月14日、日銀は「中長期的な物価安定の目途(消費者物価の前年比上昇率が2%以下のプラスと考え、当面は1%を目途とする声明)」を、追加緩和政策(資産買入額を10棟兆円増加)とともに発表、その後白川総裁は「1%達成の決意」を明確化した。この3点セットは、大きな円安と株価効果をもたらし、はしなくも「デフレの日銀理論」と「金融政策の日銀理論」の誤りを実証することになった。第一章は、この点をデータの提示で明らかにしている。

   第二章では、新日銀法施行以降の物価安定政策の成績が、日銀自身が設定した「中長期的な物価安定の目途」を基準に評価すると24%でしかないことが示され、そうなった理由は日銀の「デフレの日銀理論」と(第三章)、「流動性の日銀理論」に代表される「金融政策の日銀理論」(第四章)に依拠して金融政策が展開されたからと論じられる。

   それではデフレ脱却のためには、どうすればよいのか。著者は、それを世界標準の金融政策にもとめる。具体的には、日銀法を改正して政府が物価安定目標を決定し、日銀がその目標を中期的に達成することを義務付けること、と言う。インフレ目標政策を導入し、日銀が大量に長期国債を購入し、マネタリー・べースの供給増加させるならば、予想インフレ率が上昇、そのことによって円安と株価の上昇、予想実質金利低下によって設備投資の増加がはかられ、実質国内総生産の増加と雇用の増加、すなわちデフレ脱却の方向へ舵をきることができるというわけである。

   著者はこの壮大な社会実験を、「最適金融政策」と呼び、そのためには国民にこの内容を丁寧に説明しななければならないとし、その手順を示している(p.228-9)。

   問題提起は鋭いが、はたしてこれでうまくいくのだろうか。議論をうらずけるための統計的実証といっても、その中身をみると諸変数の相関分析が主なので(日本経済の実態分析が弱い)、これだけではもろ手をあげて賛成してよいものか、一抹の懸念が残る。継続した議論が必要であろう。


太田總一『若年者就業の経済学』日本経済新聞社、2011年【2012年2月24日の記事を再掲】

2012-11-25 00:23:46 | 経済/経営

            
 雇用問題が深刻化している。本書はとくに若年者の就業問題に焦点を絞って分析、提言している。この問題について、詳細な検討がなされ、類書にない成果が盛り込まれている。


 前半では若年雇用のマクロ的分析。まず若年雇用問題がなぜ「問題」なのか、若年層の雇用と賃金が長期不況下でどのように変化したのかが、考察、分析され、ついでフリーター、ニートの定義、両者の特徴が浮き彫りにする作業を挟んで、若年雇用の問題点が、中高年のそれとの対比で、時系列的解析の成果が示されている。

 著者はさらに、学校卒業時の労働市場の状況について、それ以降の賃金、雇用、離職行動に及ぼす影響の分析(「世代効果」分析)、日本企業の新卒一括採用の慣行の問題、労働者間の代替関係と若年雇用の関連、地域の若年労働市場の多様性、「若年者の育成」という観点から見た学校教育と企業内訓練との関連を細かく検討している。

 最後は、若年雇用対策の諸施策。

 このように、扱われている問題は焦点が絞りこまれ曖昧さがないが、論点はこの範囲でも多様で、複雑である。

 著者はこれらを「国勢調査」「労働力調査」「就業構造基本調査」「学校基本調査」、各種アンケートなどのデータをもとに、主として回帰分析を駆使して、意味のある結論を導出し、検討に値する提言を行っている。

 上記の検討事項のそれぞれについて各章に、要約とまとめがある。内外の研究成果を十分に咀嚼し、前提としながら、独自の実証分析を行っている真摯な姿勢が好ましい。

 既存のデータのみでは分析が便宜的にならざるをえないところが出てくるのはいたしかたないが、いくつか許容範囲をこえるのではないかというものがあった。ひとつだけ例を示すと、地域の若年無業者の「意識」を考察した個所で、都道府県を「都市部」と「地方」にグループ分けしているが、前者に属する県として茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、大阪、京都など20都府県、「地方」に属するのはそれ以外として分析している箇所がある(p.208)。やむをえずこうした措置をとったのかと思うが、やや乱暴なやり方と感じた。


山田耕之介『経済学とはどんな学問であるか-経済学の現状と3つの文献について-』(私家版)1994年

2012-11-19 00:05:23 | 経済/経営

 ケインズによる「若き日の信条」「我が孫たちの経済的可能性」「アルフレッド・マーシャル」のテキストに依りながら、経済学がどのような学問なのか、しかして経済学の現状はどうなっているのか、経済学と数学との関係、ケインズの経済学、マーシャルの経済学は何をめざしていたか、について論じた本。

  いまある経済学が現実分析に無力であることを指摘し、社会主義体制の崩壊からただちにマルクス経済学の終焉をいう似非マルクス経済学者について批判的に検討する対極で、あるべき経済学の姿をケインズ、そしてマーシャルに見ている。著者は、経済学が無力なのは、それが自然科学を範とする「科学主義」に傾き、数量分析をもちあげて現実から遠ざかり、研究者は人間社会にそれほどの関心がなくとも「数理モデル」の開発に現をぬかしているからであると説く。

  ケインズもマーシャルも、そうではなかった。ケインズは倫理的に最高善と考える社会を実現するために経済的豊かさを追求し(ピグーがそうであったように)、経済学を倫理学の侍女とみなしていた。この思想は、その経済学の中身の核にあった「有機的統一の原理」(ヘーゲルの影響もあった)、「原子仮説」に活かされ、快楽の追求と効率の重視に重きをおくベンサム主義とは相いれるところがなかった(というよりベンサム主義を批判の対象とした)。

  マーシャルがケインズとともに目指していたのは、モラル・サイエンスとしての経済学、自然科学的思考を排して一定の価値判断に基づいた社会科学である。ケインズのこの考え方を理解するためのキーワードが、いわゆる「内部洞察力(経済学的直観)」である。

  著者は、このような議論を補強する意味をこめて、マーシャルを追悼した文章にそって、「経済学と倫理学」「経済学と経済学者」「経済学と数学」の3つのテーマを論じている。
マーシャルは若いころに聖職者を志し、そのための教育も受けた。また、もともとは自然科学の分野(数学、物理学)で仕事をした人である。そのような経歴で、マーシャルは経済学に接近し、大著「産業と商業」を成すのであるが、一貫していたのは経済学は絶えず変化する現実、そしてその担い手である人間集団をその対象とし、これゆえにこの学問はモラル・サイエンスでなければならず、数学との関係でいえば、これに依存してその演算結果をすべてに優先させることはモラル・サイエンスに備わっている精神性をはく奪することになる、とした。

  もっとも著者は、マーシャルがケンブリッジ大学に経済学部を創設したことが、当人の狙いからはずれて経済学がモラル・サイエンスから一気に遠ざかっていくきっかけになったのではないかと、見ている(p.54)。

  本書は著者が長く在職した大学のゼミナールのOB・OG会である「立山会」での最終講義にむけて書かれたものであり、長年の経済学研究のバックボーンであった根本思想を平易に語っている。上記のケインズの3つの文章の翻訳を資料とともに箱入りの品のいい作品に仕上がっている。


佐和隆光『経済学とは何だろうか』岩波新書、1982年

2012-11-02 00:00:17 | 経済/経営

        

  この本が出版された頃に読んで、問題提起の鋭さに圧倒された記憶がある。このたび再読。戦後のアメリカで展開された経済学、それが移植された日本の経済学を奇しくも批判的に回顧することになったのであるが、著者の主張はぶれていないし、その展望は大筋で正鵠を射ている。


  経済学の分野での記念碑的な著作にふさわしい内容である。少し細かく各章の中身を以下に要約する。

  全体は4章からなる。第一章では表題にあるように「経済学は<科学>たりうるか」について論じられている。ここでいう経済学とは主として新古典派経済学とケインズ経済学である。
  著者の主張は、経済学が社会と時代の価値規範に従うということであり、ケインズ経済学に新古典派経済学がとってかわったからといって、前者が後者よりも優れているとか、発展したということではなく、経済学が社会的文脈の差異に変化に対応したにすぎない。ここから出発して、新古典派経済理論の要素還元的思考方法、数量的世界観、方法的個人主義の特徴と由来が示される。
  アメリカでのこの経済学の受容基盤、対して日本での受け入れが困難だった事情(日本的知性と近代系経済学的論理の不協和)、逆にケインズ経済学が受け入れられた土壌、さらにその導入に先だってまさにケインズ政策を先取りする試み(高橋財政、経済復興5カ年計画、傾斜生産方式)が我が国にあったことが披歴される。また、日本の経済学が形式としての理論の受容に終始し、「創造の源泉としての精神」もしくは「それを生み出した思想的・文化的基盤」に無頓着であった、という重要な指摘がなされている。

  第二章「制度化された経済学」では、1930年代から、より明確には第二次政界大戦後のアメリカで起こった極めて特殊アメリカ的な経済学の制度化の内容について、経済の大衆化、職業化、教科書化、モデル化に焦点を絞って解説されている。
  ここでいう制度化とは「社会的に容認された専門的な職業集団の存在」のことである。アメリカではかかるエコノミストが膨大に存在し、彼らは大衆化された大学院で与えられた教科書にそって経済学(新古典派経済学)を学び、査読付きの論文を累積し、就職する。新古典派経済学がこの位置につくことができたのは、この科学に数量的方法が有効で、それなりの現実味のある理論体系を提供できたからである。換言すればモデル分析が可能だったからである(著者はこのモデル分析の問題点を具体的指摘している)。

  第三章「日本に移植された経済学」では、このアメリカ的な制度化された経済学が日本に移植されたことの意味、その経過と顛末を分析されている。著者は経済学の移植の過程で「中期経済計画」の作成が果たした役割を強調しつつ、60年代の高度成長期という特異な時代的文脈と触れ合う中で、移植そのものが成熟したかにみえたが、職業集団の自己再生産機構が未熟だったがゆえに、もとの姿とは似て非なるものに改変されて定着されるにとどまった、と結論付けている。

  第四章「ラディカル経済学運動は何であったか」では、70年代の新古典派批判がとりあげられている。ここではトマス・クーンのパラダイム論を援用しながら、反成長・反科学の時代の気運のなかで新古典派経済学への根源的批判が出てきたこと(ラディカルズ)、この経済学の「範型」が色あせてきたにもかかわらず、それに替わる新しい「範型」を生み出すまでにはいたらなかったことを回顧している(公共経済学、不均衡動学の試みも不発)。

  最後の第五章「保守化する経済学」では、70年代の合理的期待仮説、サプライサイド経済学、マネタリズム(また技術的には高度に数学化された経済学)などの新しい(この時点で)経済学は既成の経済学に替わって制度化される可能性はなく、「制度」としての経済学には翳りが生じていて、今後の経済学は好むと好まざるとにかかわらず、少数の「物好きな」人々のユートピア主義的な発想のものとに展開されているのではなかろうかとの予感を示して、議論を閉じている。


佐和隆光『これからの経済学』岩波新書、1991年

2012-10-27 00:36:23 | 経済/経営

           
  いまから20年前、1991年に出版された本である(ソ連崩壊の直前)。著者は出版に先立つ1980年代前半あたり(あるいは70年代)からの経済学と経済の動きを念頭にいれつつ、90年以降の見通しを、現在進行形で執筆したのだが、いまこの書を再読すると、この時期の経済学の論調、経済の動きが手際よく整理されていて、すこぶる興味深い。そういう時代を経過していまがあるのだと、感慨することしきりである。


   著者はまず科学(経済学)が「進歩」するという「科学主義」を捨てよ、と主張している。この素朴な「科学主義」の観念は自然科学における科学感に対する劣等感に由来するのであり(ポパーによる新古典派経済学の「科学」としての認定[反証可能性の評価]はまがいもの)、社会科学の存在根拠をかたどるのは時代の価値規範であり、この科学の変遷は価値規範によって駆動される、というのが著者の力点である。

   80年代の経済学は、政治の保守化、経済社会のソフト化(サービス化、情報化、国際化、金融化、投機化、省資源化)を背景に、ケインズ経済学を貶める保守派経済学(サプライサイド経済学、合理的期待形成の経済学、マネタリズム)が跋扈した。現実社会では、アメリカのレーガノミックス、イギリスのサッチャーリズムが先鞭をつけた市場万能主義、効率至上主義(新古典派経済理論にもとづく)が浸透し、それの流れは日本では中曽根首相の政治経済路線(新保守主義改革:各種規制の緩和・撤廃、国鉄・電電の民営化、行財政改革、財政改革などなど)に継承された。

   90年代の時代文脈はどうなるのか。著者は90年代の価値規範を、保守からリベラルへ、効率から公正へ、競争から協調へ、経済成長から環境保全へ、東西緊張から東西融和へといった方向転換に見ていた。その延長で、著者はこの方向を牽引する経済学として、ネオケインズ経済学に期待を寄せている。それは古典的ケインジアンの再登場ではない。新しい時代にふさわしい装いのケインズ経済学の構築である(pp.90-98)。

   本書のポイントは以上であるが、1980年代の思想潮流[新日本主義の台頭](第3章)、経済のソフト化のもとでの経済範疇の新たな解釈と問題点(第4章)、バブル経済とカジノ資本主義の問題点(第5章)にも、ページを割き、時代の思潮、社会経済の現状を浮き彫りにしている。

   計量経済学を専門としてきた著者が計量モデルの,見かけ上の大型化、精緻化にもかかわらず、予測精度にいささかも向上がみとめられないことを承認し、その理由を語っている箇所には(pp.188-90)、溜飲を下げた。


佐和隆光『市場主義の終焉-日本経済をどうするのか-』岩波新書、2000年

2012-10-20 00:17:18 | 経済/経営

          

  この本は今から20年前ほどに書かれた。この頃日本も,世界も大きく変った。いまの経済のあり方がこの頃、あるいは本書のでる少し前あたりに決定づけられた。ひとことで言えば,ポスト工業化社会の到来である。製造業中心の経済から,情報,ITが経済をひっぱる社会への移行である。

  世界では東西冷戦の終結,市場のグローバル化,金融経済の肥大化,アメリカ経済の持続的繁栄,欧州各国での中道左派政権の台頭,東アジア通貨危機,個人間・国際間の所得格差の拡大,地球環境問題への関心の高まりがあげられる。

  これらを背景に政策の対立軸は,市場に期待する保守派と市場の不完全性を政府の介入で支えるべきとするリベラリズムである。

  筆者は,進むべき日本の道は上記のいずれとも異なる第三の道であると説き,それは「市場主義改革の遂行により効率性を確保しつつ,それにともなう副作用の緩和をめざ(し),・・公正で「排除」のない社会を実現を同時にめざす」(p.229)道という。

  大学改革についても「第三の道」の提唱がある(学問の自由の保証,業績主義の徹底化,リスクへの挑戦を加味した研究費の適正配分,外国人教官の積極的採用,学生の授業評価など,p.167)。


郭洋春『現代アジア経済論』法律文化社、2011年

2012-10-08 00:18:07 | 経済/経営

            
 
  「平和の経済学」を提唱する著者のアジア経済論。世界経済の展開に果たすアジアのウエイトは年々、重くなっている。象徴的な出来事は、2008年のリーマンショックに端を発した世界金融危機の拡大を防いだ中国経済。中国は自国経済への影響を最小限に食い止めるために大規模な財政投入を行い、その結果、中国の内需は拡大し、多くの国々の輸出先ともなり、世界経済の危機的状況からの浮揚を下支えした。


  著者はこの事実を「はじめに」で掲げ、本書全体で今日、そして今後のアジア経済が果たす役割の大きさを分析、展望している。内容はアジア経済の総論的部分に始まって、グローバリゼーションがアジア経済に及ぼす影響、FTA(自由貿易協定)、APEC(アジア太平洋経済協力会議),WTO、ASEM(アジア欧州会合)の役割と問題点、観光産業の位置づけ、領土問題と非常に広範である。

   全体をとおしてあるのは、自由貿易経済への志向と保護貿易主義とが拮抗するなかで、アジア経済の協力・強調の関係は不可避である、ということだ。世界経済の今後の発展にとってアジア経済の成長がもつ意味は大きい。現に、東・東南アジア諸国は高い経済パフォーマンスを示し、なかでも中国の成長には目を見張るものがある。アジアは今や世界の貧困地域から、世界の成長のエンジンになっている。

  これらのことを前提しながらなお、あるいはだからこそ、著者はグローバリゼーションの本質がアメリカの矛盾の他国への押しつけであること(p.30)、日本が今後とも経済発展をしていくためには、自国の利益ばかり考えるのではなく、途上国に対しても責任ある姿勢を示さなければならないこと(p.67)、しかし心配なのは日本の政治状況の体たらくであり、このままではジャパンナッシングに下降しかねないこと(p.170)など、重要なポイントを列挙している。


   個人的には、日本のサブカルチャーの問題点と可能性を論じた第7章「アジアに浸透するジャパナイゼーション」、日本の観光産業の位置づけと可能性を論じた第8章「観光産業から見たアジアと日本」が興味深かった。

   第11章では、領土問題についての言及があり、北方領土問題、竹島・尖閣諸島問題がとりあげられ、タイムリーである。わたしはこのなかでは、かつて北方領土問題についていろいろ調べたことがあるが、11章では日本政府の「公式見解」の紹介があるものの、サンフランシスコ条約2条C項で当時の政府がクリルアイランズを放棄したことについて触れられていないこと、ヤルタ協定やカイロ宣言、日ソ平和条約締結(現状では未締結)の意義についての言及もないことなどがやや不満であった。


佐々木隆治『マルクスの物象化論-資本主義批判としての素材の思想-』社会評論社、2009年

2012-10-02 00:29:34 | 経済/経営

              

   この本はマルクスの物象化論の理論的核心とその意義を解明するために書かれた。著者はマルクスの物象化はしばしば人間の認識が歪められ、事態が隠蔽されることだとされるが(「物象の社会的属性を物じしんの属性として錯覚する」)、この規定は事柄の一面であり、マルクスが問題の焦点としたのは、そのように現象するところの「本質」のあり方であり、それがいかなる人間のふるまい、より正確には人間相互の関わりによって成立するかであった、とする。


   この視点に立って、著者は物象化を認識論的錯視ととる見解(廣松渉)、所有論を基礎として物象化理解、市民社会論的マルクス理解(平田清明)を批判する。著者の立場はマルクスが課題とした経済学批判、哲学批判の精神を継承し、イデオロギーや現象形態の成立を諸個人の関わりによって形成された実践的諸関係から明らかにする「新しい唯物論」(観念論と対置される唯物論ではない)である。

   この観点から著者は、価値形態論「商品語」の解釈、3つの次元からなる物象化の構造、疎外と物象化の概念的相異、全面的商品交換社会のもとで私的労働が物象化を生み出す客観的契機、物象化こそが商品の物神的性格の秘密であること、価値が主体化し、過程の主体となる経緯、資本が素材的世界(全般的開発の体系、有用性の体系)を編成するプロセス、資本のもとへの労働の形態的包摂と素材的編成および資本のもとへの労働の実質的包摂と素材的論理の変容の解明(協業、マニュファクチュア、大工業)、資本が素材的世界を編成し価値の論理と素材の論理との軋轢を引き出す事態、などを順次論理展開していく。

   論理展開では、抽象的人間労働の理解がキー概念になっている。著者によれば、抽象的人間労働概念の議論は物象化を前提とし(抽象的人間労働という労働の一契機が独自の社会的意義を獲得するのは物象化された社会においてのみである)、素材的契機を含み、価値と素材との連関の結び目である。当該分野では従来、多くの錯綜した内外の議論、論争があるが、著者はそれらを手際よく裁きつつ、MEGAも有効に活用して、自説を展開している。


佐々木隆治『私たちはなぜ働くのか』旬報社、2012年

2012-10-01 00:09:42 | 経済/経営

             

  著者自身の大著『マルクスの物象化論』をベースに、若い労働者、学生に向けて書かれた『資本論』入門のテキスト。


  現代社会が資本主義社会であり、そこで働く労働者は生活のために自発的に雇われて働かざるをえない、賃労働者としてしか自らのアイデンティティを示し得ない、過酷な労働をなぜあえて選択せざるをえないのか、それを可能にしている条件は何なのか、それらを解明することが本書の目的だという。

  「資本論」の概説的な特徴は否めないが、著者は資本主義生産様式が全面的な商品交換社会であり、この社会では私的労働が直接社会的労働たりえず、商品交換をつうじてしかそれを実証しえないとし、物象化の力がこの社会を支配し、成立させていることを自説としてもっているので、そこに力点をおいて議論展開を行っている。

  議論はおおむね次のように進んでいく。商品=貨幣関係論、価値論、剰余価値生産、賃労働と資本、自己増殖する価値として資本、生産手段によって支配される労働者、労働時間の延長、協業、マニュファクチュア、機械制制大工業、資本による物質代謝の攪乱、物象の力を弱める労働者の振る舞い方(労働の社会的形態の変更、アソシエートを通じた労働者の生産手段との結びつきの回復、労働時間の短縮、生産の私的性格を弱める活動、生産手段に対する従属的な関わりの変更)。

  現代社会の困難な実情を見据えつつ、変革の展望をみとおしつつ理論が進められいることに好感がもてる問題提起の書。