【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

津村節子『流星雨』岩波書店、1990年

2012-02-29 00:26:26 | 小説

              
      
 戊辰戦争の一環として戦われた会津戦争は、理不尽な戦争でした。孝明天皇の信望があつかった松平容保は幕末に、既に威信を失なっていた幕府の代わりに京都の治安と宮中の護衛の任につき、宮廷内の倒幕派と長州藩を追討、その後京都を追われた長州藩が御所に来襲した折にも、これを蛤御門で撃退しました。

 しかし、孝明天皇がなくなり(謀殺説もあり、この小説に登場するあきの儀右衛門が仄めかしている)、将軍は会津藩を犠牲に身の安泰を諮り、幕軍の先陣をきって戦ったこの藩に対して鳥羽伏見の戦いの首謀者として断罪し、藩の壊滅へと追い込みました。

 その最後の戦いが、鶴ケ城(若松城)での新政府軍との攻防でした。鶴ケ城は落城、会津藩は惨敗の憂き目にあいます。会津軍の兵士の多くは討ち死に、老人、女性、子どもが自刃し、この地には凄惨な血の海が流れ、累々と横たわる屍で埋め尽くされました。
 戦死者、犠牲者は「賊徒」として埋葬が許されず、このため死体が長期間、腐敗するまま放置されました。

 この小説は、この戦争で一家の柱となる父と長兄、次兄を失い、かろうじて生き延びた上田家の長女あき(他に儀右衛門、キチ、しず、かよ[儀右衛門、キチはその後、衰弱死])が新領地と定められた田名部(下北半島の酷寒の地)に移住し、そこでの過酷な生活を送った様子を描きました。あきというひとりの女性の眼でみた戊辰戦争とその後、そしてあき自身の半生を描いた作品です。(表題の「流星雨」は、落城後、会津若松から全国あちこちに流星の雨のように散った会津藩士のことを指す[p.277])。

 その下北での苦しい生活のなかから、あきの将来に漸く光明が差し込みます。救貧所で世話になっていた大橋という男の照会で、あきは下北に母のしずと妹のかよを残して函館にわたり、元会津藩士の相賀重盛(函館開拓使出張所勤務)・多津子のもとで下女奉公をすることになります。さらに相賀重盛のところに出入りしていた斎藤なる人物との縁談ももちあがります。
 妹のかよはかよで、青森県の大参事野田豁通とともに上京の機会を得ることに。

 姉妹に新しい希望がみえたその矢先、あきは縁談の相手はよりによって旧薩摩藩士であることを知ります。薩摩出身者もその中にいた新政府軍によって生き地獄につきおとされた会津藩。亡くなった祖父の儀右衛門はこの恨みを子孫に伝えよと言って死んでいったのです。あきは逡巡に逡巡を重ねますが、新しい維新の時代に過去の諸藩の確執を洗い流すようにとの周囲の忠告を引き受け母と妹の幸せを願い結婚の申し出を受け入れます。あきは祝言のために斎藤の居る札幌に向かいます。

 小説はここでもうすぐ終わるところまで来ていましたが、ここから一転、驚くべきことが起こります。あきの人生の幸せな結末で終わるとおもったその瞬間・・・。ガーン。

 著者は、この作品を書く切っ掛けとなったのは、北方史研究家の矢澤尚一氏から、内藤(旧姓日向)ユキという女性の「万年青」と題する手書きの小冊子(ユキさんのご子息内藤芳雄氏がまとめた回想録で、会津藩の町奉行日向左衛門の次女に生まれ、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和を生きた生涯をを記したもの)のコピーの、会津のいくさを描いた6ページほどの部分、だったと書いています。その叙述が、著者の太平洋戦争体験とオーバーラップしたとのことです(p.355)。


「天作」(新宿区下落合3-2-16 tel.03-3954-1036)

2012-02-28 00:01:37 | グルメ

        

 久しぶりに「天作」に天ぷらを所望しました。若い20代の女性二人が天ぷらを食べたいと前から言っていたので、日程調整しました。「天作」は本部ブログ登場2回目です(1回目は2007年4月8日)。このお店の住所は、新宿区下落合ですが、目白といったほうがよいエリアです。JR目白駅下車、徒歩で約5分ですが、路地裏なのでわかりいくいかもしれません。


 予約をして出かけたのですが、お客はほとんどいず、ワンカップルのみ。カウンターに腰かけ、注文はコース。あと好きな食材があれば、個別に注文することにしました。

 コースでは、海老、ししとう、キス、たまねぎ、アナゴなどなど、個別には、ホタテ、茄子、雲丹ののり巻きなどを頼みました。食事で、かき揚げ丼、天茶ずけ、などからチョイスできます。


 女性二人はお互いの近況報告でもちきり。わたしは黙って聞いていて、ときどき相槌をうったり。ひとりは海外旅行で最近、韓国、ハワイにいったとかで体験談をを話してくれました。若者は、そこにいるだけで、光っていていいですね。そして、目標をもっていると、話す内容に力があります。

 ときどき、「人生に目標なんてある?」としたり顔で話す御仁もいますが、目標は大事です。だいそれたものではなくとも・・・。


 「天作」にはしばらくご無沙汰していたのですが、マスターがかわっていました。聞くと、一年と少し前から交替したようです。味はもとのままで、おいしいです。

 「あまり食べると、太るよ」と余計な(?
)忠告をして、近くのBAR(近くのBAR:EASTBOURNE)で二次会を軽くすませ、ひきあげました。


「赤坂あじさい」(港区赤坂3丁目15-4 ネピロードB1F [Tel.] 03-5570-9505)

2012-02-27 00:01:11 | グルメ

     


 「1969」で世界的にブレイクしている由紀さゆりさんが、少し前にTV番組の「ソロモン流」に出演していました。その時に、この番組にレギュラーで司会をしている船越英一郎さんとの対談で使っていたのが、この「あじさい」です。


 赤坂にあり、山形の料理、お酒をメインに据えています。というのもマスターが山形県の天童市近くのご出身だからのようです。やや高級感のある、和食のお店です。初めてだったので、コースにしました。前菜のお刺身もグッドでしたが、お造りが出て、メインが喉グロと山形牛のステーキの選択、そして食事が稲庭うどんになります。食器には目利きがいきとどき、メインの料理も充実、炊き合わせは山形名物の「いも煮」で、最後のデザートは苺(とちおとめ)などです。

 料理がこのように豪勢ですと、当然、日本酒に目が行きます。田酒は一瓶ごとでないとダメだったので、「浦霞」「出羽桜」でもとめました。

 席の数はあまり多くありません。カウンターを利用したのですが、後ろの椅子席にはCMでよく顔を見る方がおられました。顔をみれば誰でもわかる有名人です。そのあたりの椅子席で由紀さおりさんと船越さんは対談していたようです。女将さんは、この番組があって、お客さんがここのところ多いようなことを語っていました。そうですね。気持ちのよい、いい番組でしたから。

 *「赤坂あじさい」の公式HPはこちら→  http://akasaka-ajisai.com/


台湾旅行 [余滴]

2012-02-26 00:10:16 | 旅行/温泉

 台湾旅行記については、主なことは書き、終えたと思っていましたが、2,3忘れていたことがありましたので、備忘録的に付け足しておきます。

(1)現地で聞いた話ですが、台湾の人は夕食を外食でという家族が大部分のようです。確かに、それらしい店はたくさんあり、夕方になると家族でオートバイ(スクータ)に乗って外出している人々が多く、どこへ行くのかというと簡単なカフェ、レストランです。われわれの感覚では、外食となると高くつくのではないかと考えますが、安上がりになっているということでした。家族の味、おふくろの味はこれでは育ちようがありません。

(2)高雄では日本のデパートSOGOがあり、好奇心が手伝って一まわりしました。それと、デパチカで総菜をもとめたのですが、まずこの惣菜屋さんがありませんでした。デパートの上階のレストラン街では家族、恋人が食事をとっていました。午後7時ころでしたので、盛況です。ただし、日本のデパートのレストラン街のようなきらびやかさはなく、簡易食堂です。
 本屋に行くと、もちろん漢字ばかりで書かれたものが断然多いのですが、日本語の本もあり、とくにマンガ、アニメの棚には日本のそれがずらりと並んでいました。わたしはマンガを読まないので、いま何が日本で流行っているのか知りませんが、とにかくその多いこと、多いこと。また、日本語で書かれ、日本で出版されている文庫本なども目につきました。現地の人が読むのでしょうか? それともここに来ている日本人向けなのでしょうか?

(3)最後に、台北の故宮博物館に行ったことを書き忘れていました。「余滴」とより、特記事項ですが、「余滴」風に簡単に書きます。まず、館内の混雑ぶりが凄いです。この日はそれでも比較的空いているとのことでしたが、そうとは思われないほどの人です。中国人が多いです。台湾人ではなく、中国か本土からの観光客です。彼らはあまり行儀がよくありません。日本人はおとなしいので、行列でもすぐに中国人に割り込まれてしまいます。ゆずりあいの精神など、微塵もみられません。
 それでも、お目当ての、「ハクサイ」「豚の角煮」などを観た他、中国のすばらしい青銅器、陶磁器、絵画、工芸を眼にやきつけてきました。
 「ハクサイ(翠玉白菜)」というのは、半翠半白の色合いと輝玉独特のつやを利用して、白菜(清廉潔白の象徴)とキリギリスとイナゴ(子孫繁栄の象徴)を巧みに彫りあげたものです。清朝時代の作品です。
 「豚の角煮(肉形石)」というのは、色つや、表面の毛穴、脂身の質感などが豚の角煮にそっくりです。これは天然の石をもとに職人が毛穴のひとつひとつを細工し、あたかも醤油でじっくり煮込まれた豚肉のような彩色です。

       


渡部房男『お金から見た幕末維新-財政破綻と円の誕生』祥伝社新書、2010年

2012-02-25 00:04:42 | 歴史

               

 日本の貨幣の単位は「円」であり、いまでは誰もが何の疑問もなくそれを受け入れています。貨幣制度はわたしたちの生活にあらかじめ確固として存在していたかのようであり、その設立に大いなる苦労があったと想像が及びにくいです。


 しかし、貨幣制度にしても、「円」にしてもその存立は、それほど昔のことでなく、容易に出来上がったわけでもなかったのです。「円」が貨幣単位として確定したのは明治に入ってから、明治4年(1871年)頃です。「円」の登場には紆余曲折があり、関連して江戸から維新を経て明治に貨幣制度が確立するまでにはドラマティックな展開がありました。

 貨幣制度の確立なしに、近代の国家体制は安定は望めません。本書は貨幣制度の確立に向けた為政者の艱難辛苦を跡づけ、「円」の歴史を詳細にフォローした好著です。

 話は幕末にまでさかのぼります。新政府は東征軍の資金調達に苦慮し、大両替商の後援によってかろうじて遂行されたのだが、それでも足りず、この問題を解消するために貨幣鋳造を行いました。

 確固たる貨幣制度のないなかでのこの対処療法は鋳貨の粗製乱造を引き起こし、ひいては贋金づくりを横行させました。以後、新政府による貨幣政策は太政官札の発行、貨幣制度統一のための銀目の廃止、藩札の処理(製造禁止)、新貨幣の発行へと進んでいきます。

 財政の再建、貨幣制度の全国統一の結果が、「円」の登場となります(国際基準にのっとった「円」という金貨の発行、円表示の「明治通宝札」の発行)。以後、信頼にたる紙幣を製造のために、外国の援助を仰ぎつつ、国内的には153もの国立銀行の誕生から日本銀行の設立に至る過程は、江戸幕府のもとでいわば藩の寄り合い所帯であった状態から、国際社会の一員として日本が成長していくために避けられない試練の道でした。

 この道の立役者としては大隈重信、井上馨、伊藤博文、渋沢栄一、松方正義などの経済官僚の名がまずあがりますが、紙幣作成にあたった得能良介、キヨソネ、トーマス・アンチセルなどの名前も忘れてはなりません。日本の通貨制度の確立に命をかけた人々の息づかいが伝わってきます。


ロバート・ホワイティング/松井みどり訳『野茂英雄-日米の野球をどう変えたか』PHP新書

2012-02-23 00:05:26 | スポーツ/登山/将棋

              

 野茂英雄が日本の誇る大投手であることは疑いのない、誰でも認めるところです。メジャー・リーグという大舞台での日本選手の活躍に先鞭をつけただけでなく、立派な成績を残しました。


 本書で何度も触れられているように、野茂が周囲の反対を押し切り、「石もて追われる」ような状況を乗り越えてメジャーリーグに行くということがなければ、イチロー、松井の活躍はなかったし、WBAの開催、そこでの日本の優勝もなかったのです。

 本書は野茂英雄の近鉄バッファローズでの活躍、鈴木啓示監督との確執、メジャーに向かった経緯(ダン野村の戦略:「任意引退」)、ドジャース入団、ストライキ中のメジャーでの貢献、驚異のトルネード投法、両リーグでのノーヒッター(日本では、ノーヒット・ノーラン)の偉業(とくにホームランが量産されるクアーズフィールドでの達成[この球場があるパイクス・ピークは標高4302メートルで空気が薄く打者に断然有利] )などが客観的に叙述されています。

 ベースボールの領域での貢献のみならず、日米経済関係の当時のギクシャクした関係、軽視されていたアメリカでの日本のプロ野球の評価をくつがえしたことなど、広い視野から野茂英雄という人物を評価しているところが気持ちよいです。

 野茂英雄は、そういえば、無口で、愛想がない印象がないわけではありませんでした。アメリカ人は英語を話そうとしない彼にいら立ち、ときに人種差別のような侮辱を示した場面もあったようです。

 しかし、野茂の精神力は強靭でしたし、一端マウンドにあがれば降板は最初から考えることなく、ひたすら野球に専念したかっただけなのです。メジャーへの日本選手のパイオニア的存在、日米関係改善に果たした役割の大きさといったものは、後からついてきた評価で、野茂は野球以外のことで自分の役割を意識していたわけでないです。それがよかったのだと思います。

 本書は、日本のプロ野球の後進性(コミッショナーが放映権の売買や商品販売を統括するシステムがない、リーグ関連の土産物チェーンがない、収入を全チームで分かち合うシステムがない、など)の責任が「”帝国”支配にしがみつく読売」にあると指摘しています(p.270)。

 さらに日本のプロ野球の欠点の大半が真のフリーエージェント制を設けていないことに原因があるので、その改善が喫緊の課題であり、あわせて選手会を強くしなければならないと提言しています(pp.274-275)。

 野茂に続いた伊良部、吉井、長谷川、佐々木、松坂といった投手の評価についても、それぞれにかなりのページをさいています。また、最後の章ではメジャーの野球殿堂に入ることができるかどうかが、関係者の評価という形で紹介されています。


台湾紀行⑥ [日月潭+文武廟]

2012-02-22 00:40:54 | 旅行/温泉

          

 今回の旅行で最初の観光地が日月潭でしたが、その紹介が一番最後になりました。台中からバスで約1時間半ほどです。天気がよく、この日は東京から来ていたコートを脱いで、ブレザーとワイシャツになり、しだいに陽がたかくなってからはブレザーも脱ぎ、シャツの腕をめくるほどの陽気になりました。

 台湾の観光スポットはたくさんありますが、日本人ならほとんどの人が最初に訪れるのは日月潭ではないでしょうか。

 日月潭は台湾八景のひとつで台中の南東約40キロの地点にある湖。総面積は793ヘクタール。広大な天然湖です。湖の北側が太陽、南側が月のようにみえ、その名があります。せっかく、ここに観光に来ても靄がかかっていることが多い(とくに朝)ようですが、そのようなことはなく、はるか遠くに見える小さな島もくっきりでした。日月潭周辺は台湾の原住民サオ族の居住地で、湖に浮かぶ島はサオ族の祖霊が宿る聖地です。

 この日月潭に入る直前にあるのが、文武廟です。日月潭にあるダム湖(+発電所)は1934年につくられたのですが、その工事で水没することを余儀なくされた龍凰宮と益化堂を移転したのが現在の文武廟です。「北朝式」の建築様式が採用され、孔子、武聖関公、開基神明が祀ってあります(下の写真)。

 1999年に台湾中部を襲った大地震で倒壊しましたが、再興を願う人々によって2005年に再建されました。廟内の孔子、孟子、子思の三尊は日本の狭山にあるオリジナルの複製です。

          


海鮮処「寿し常」丸井大宮店 さいたま市大宮区桜木町2-3 丸井大宮店7F(048-648-3772)

2012-02-21 00:02:48 | グルメ

            

 「寿し常」で昼食をとりました。土曜日は混むという噂があるので、11時半過ぎに入ると楽にカウンターに座れました。


 ここを捜したのは、ものの本に「すし常」の紹介があったからです。お寿司屋さんの過当競争が進む中、どの具材も同一化価格、一週間に一度「マグロの解体ショー」を行って、お客さんを発掘、リピーターにしている、とありました。

 チェーン店で関東地方にはあちこちにあります。第一号店は赤羽と聞いていますが、わたしの家から一番近い「おおみや店」にでかけました。JR大宮駅を降り、西口を出て右手方向に進み、「まるい」DPがあり、そこの7階です。

 広い店内で、真ん中にカウンターがコの字型であり、かなりの客が座れます。職人さんが4-5人。大きな水槽があり、アジ、鯛などが泳いでいます。

 職人さんと話ながら、次々注文していきました。回転屋のように、一皿に2巻づつ乗って出てきます。「八十八鯛」を奨めてくれたので、それも注文しました。他に、奥の氷をはった桶のうえに、北海道でよくみる大きなホッキ貝がみえたので、それを刺身にしてもらいました。その甘い(?)こと。寿司屋の握りはだいたい一食7巻から10巻ほど、それに最後巻物というのが丁度よい腹加減といわれています。この日は11巻で終え、巻物は「ごぼう」にしてもらって会計をしてもらいました。

 *必ずしもすべてのネタが同一価格ではありませんが、ほとんど同一です。


台湾紀行⑤ [天灯上げ]

2012-02-20 00:30:07 | 旅行/温泉

         

 今回の台湾旅行のメイン・イベントは、十份での天灯上げです(十份は九份からバスで小一時間、山のなかを走ります)。


 もともとこの行事は台湾の新年のイベントとして、旧暦の2月15日、元宵節(げんしょうせつ)に行われていたものです。

 原理は熱気球のそれです。直径1メートルほどのビニール製の天灯に、自分の願いを書いた紙を張り、これにチャッカマンでなかにくくりつけてある燃料に火をつけます。しだいに中が温かく、熱くなり、天灯が膨れていき、いまにも空に向かって上昇しようとします。それをじっくり抑え込み、頃合いをはかって手を離すとかなりの速さで天灯は空高く上昇していきます。


 わたし個人ででも不可能ではないのですが、この日はあいにく風が強く、小雨も降っていたので、地元の少年たちが慣れた手つきで、打ち上げてくれました。

 次々にあがる天灯。漆黒の闇に、たくさんの天灯があがっていく光景はある種荘厳、幻想的です。初めて経験するものにとっては、子どものように嬌声をあげたい感じです。いい経験をさせてもらいました。

  しかし、はるか遠くまで飛んで行った天灯はどうなるのでしょうか? 燃えつきても、燃えカスがごみにならないのでしょうか? その前に、空にあがりそこなって、ビニールに引火してしまった天灯もあり、危険なこともおこりうると思うのですが、とくに消防大勢がととのっているようでもありません。こういうことを誰かに聞こうとしたのですが、機会を失ってしまい、今もって謎です。

 この天灯上げは一説によると、諸葛孔明が発明した「孔明灯」にさかのぼると言われています。

 


「はなれ」  豊島区池袋2-48-2 バレルビル1F Tel 03-5391-0081 

2012-02-18 00:09:20 | グルメ

 一年に一度集まる飲み仲間、今年はメンバーのひとりが推奨したお店、池袋の「はなれ」で会食しました。4-5年前から続いている集まりです。毎回、ひとりゲストが1名くわわります。

 このお店、雰囲気がよろしい。スラリと長身の若い女性が、迎えてくれました。注文は、コース。ここは焼肉がメインです。焼き鳥、牛のステーキのおいしいこと。また、ウニを刺身の牛肉でまいた一品もよかったです。付け合わせは彩りも鮮やかなサラダ。
              
 食材がいいので、ワインもすすみました。4人で2本をあけ、あとはひとりひとり、ハイボールなどなど。わたしいつものように、日本酒、ウィスキーでほろ酔いになりました。

 この4人のうち3人はかつて一緒に仕事をし、苦労(?)をともにしたことがあるので、なんのわだかまりもなくしゃべりができます。ややテンションが高かったかな、まわりのお客さに迷惑がかからないようにしたのですが・・・。6時半から10時過ぎまで、愉しい時間を過ごしました。

              

 *写真は「食べログ」投稿写真からお借りしました。


台湾紀行④ [高雄観光]

2012-02-17 00:55:34 | 旅行/温泉

 短期間の、有効な旅行は、観光バスにかぎります。バスで高雄観光をしました。日本語解説つきです。

 高雄では赤崁楼(せきかんろう)と蓮池潭(れんちたん)を主に観光しました。

 赤崁楼(せきかんろう)は、もともとは1653年に台湾南部を占領したオランダ軍によって建てられ、プロビデンシャ城(紅毛城)と呼ばれました。1661年、鄭成功はオランダを駆逐しました。
 そのことを記念して、赤崁楼には「鄭成功講和図」の像が建てられています。成功はこの街を承天府と名付け、政治の中心としました。1862年の地震で楼閣は倒壊、基台の上に文昌閣と海神廟が建てられました。基台はオランダ統治期のものです。
             

             

 
 蓮池潭(れんちたん)は、高雄の市街地から北方約10キロの左営区にあるのがです。蓮池潭そのものは面積約7ヘクタールの淡水湖です。ここに竜虎塔(七重の塔)があります。龍の口から入って、虎の口からでると、ご利益があると言われています。中には仏教説話の壁画があり、見ものです。
 この竜虎塔にたどりつくには、くねくねと曲がった橋をわたります。悪魔は直進するが、まがった橋をわたれないということで、そうなっているのだそうです。何にでも、意味があるのですね。
         


台湾紀行③ [小龍包とシャカトウ]

2012-02-16 00:17:12 | 旅行/温泉

 台湾は食べ物がおいしいとよく言われます。実際に経験すると、おいしいというよりは食べやすい、抵抗感がない、家庭料理の延長という感じです。中華料理がベースですが、現地の人にきくと「中華料理」というカテゴリーはなく、四川料理、上海料理、北京料理など、それぞれの呼び方で語られるのが常で、それらをまとめて中華料理というのはなじまないようです。

 なかでは小龍包(シャオロンパオ)が、それを食べて料理屋がよかったせいもあるのでしょうが、最高でした。蒸し器に綺麗にならんで出てきます。それを醤油と黒酢を1:3の割合で混ぜたものに、刻んだ生姜とともにレンゲの上におき、ハシで押すように割、食べます。このようにするのは、中にかなり熱いスープが入っていて、そのまま口に入れると舌をヤケドするからですが、同時に浸み出す肉汁をおいしく味わうためでもあります。小さいのいくらでも食べることができます。

 果物がおいしいのもこの国の特徴です。台湾バナナはそのひとつです。日本に輸入されるバナナはまだ青いうちにとり、時間をおいて黄色く熟成したものですが、ここは現地なので黄色くなるまで待って採ったバナナなので、よりモチモチ感と風味が維持されています。
 珍しいものでは、シャカトウ(釋迦;シージャー)がありました。お釈迦様の頭に似ているので、この名があります。独特の香りがあり、中身の果肉は白く柔らかく、なめらかです。

         

 他にワックスアップル(蓮霧;レンウー)、スターフルーツ(楊桃子;ヤンタオズィ)などがありました。下の写真は、高雄の街中のフルーツ屋台で、ここでシャカトウ(手前に並んでいる)を求めました。
 マンゴー、パパイア、メロン、パイナップル、ライチ、マンゴスチンなども有名ですが、シーズンオフでした。

         


台湾紀行② [九份:非情城市と「千と千尋の神隠し」]

2012-02-15 00:45:18 | 旅行/温泉

 台北から10キロほどのところに九があります。ここはかつて、日本統治期に金鉱の街として繁栄しました。この地が歴史に登場するのは、日清戦争直前の1890年ごろ、台湾に初めて鉄道を敷設した人物であった銘伝による基隆河での砂金発見です。その後、日本人の手で金鉱が開発され賑わい、一時は「小香港」と呼ばれました。
 九はもともとこの地の集落に九戸しかなかったことに由来します。交通が不便だったため各戸が変わり番に生活必需品を買いもとめに近隣の地域にでかけ、それらを皆でわけあったことで九份の名がつけられました

 いまはかつての繁栄はないものの、観光地として有名になっています。訪れた日は小雨が降っていましたが、細い急峻な階段が続き、それにそって喫茶店、土産屋などが、軒を寄せ合うようにつらなって、レトロな独特の景観がこたえられません。
 ここに住むのは大変なことですが、山を背景に斜面にたつ家々、石段と路地、独特の雰囲気は世界をさがせどもここにしかないものです。

          

 ここはまた、かつて候孝賢監督が、それまで映画表現することはタブー視されていた2・28事件をテーマとする「非情城市」を撮った場所としても有名です。撮影に使われたレストランがあり、そこには「非情城市」と書かれた看板が掲げられていました。

          


 今では世界にその名を馳せている日本のアニメ作家、宮崎駿男監督は、 ここで浮かんだインスピレーションをもとに「千と千尋の神隠し」(2001年公開)を作ったことも忘れてはなりません。


(to be continued)


台湾紀行①

2012-02-14 00:24:51 | 旅行/温泉

              ←文武廟前(台中)

 休日を利活用して台湾に行ってきましたので、以下に報告します。

 台湾は、2回目です(前回は2008年11月)。今回の経路は、羽田国際空港(初めて)から台北に入り、そこから台中へ。日月潭(にちげつたん)を訪れ、嘉義をとおって台南、高雄へ。そこから新幹線で台北に戻って(約1時間半)故宮博物館を見学し、九份、十份と駆け足で欲張り、帰国しました。
 バスで移動中に気がついたのですが、建物、家屋の上にタンクが乗っかっています。かなり大きなもので、日本では見たことがありません。何かと聞いたところ、雨水を貯めるのだそうです。


 ちょうど旧正月の空気が残っていて、新年を祝うスローガンや龍の画、「福」や「幸」の字が目立ちました。それにしても、当たり前のことですが漢字の国ですね。いたるところ漢字で、それゆえ風景は固い感じがします。
 台湾には日本と同じく十二支があり、順番も日本と同じなので、今年は龍年です。ただし、日本の十二支のなかのイノシシは台湾ではブタです。

 気候は最初の日は台北で日中18度くらい、かなり暑かったのですが、最終日は10度前後。小雨もちらついていて、いまどきの東京のような寒さです。話に聞くと、冬の台湾は意外と寒いこと、とりわけ暖房で温める習慣はなく、暖房器具は売っていないので、冗談半分で、北海道より寒いこともあるとか。というのは、北海道の冬は外気こそ厳寒ですが、屋内は暖房設備が整っているので、十分に暖かいですが、台北では部屋が暖かくないので、北海道より寒いというわけです。台湾の人は雪をじかに経験できないので、北海道旅行にあこがれていますが、北海道でのパッケージ・ツァーでバスの車中、暖房をつけられると息苦しくてかなわない、ということになるとのこと。育ち生活する環境が異なると、感じ方がまるで違うことに驚かされます。

 セブンイレブン、ファミリーマートなどのコンビニがあちこちにあるのは前回の台湾紹介ブログにも書いたのですが、オートバイ、スクータがこんなに多い記憶は薄れていました。そういえば、多かったかなとも記憶のスミを掘り起こしていますが、一台に2人はあたりまえ、3人、場合によっては4人乗っています。イヌが同乗しているのはありふれた光景です。小さな子が、ヘルメットを被って乗っています。台湾の人たちにとっては、生まれたときから、オートバイに乗っていたということなのでしょう。3人、4人乗りは法的に禁止されているようですが、警察につかまることはないそうで、おおめに見ていることでしたが、日本人から見るとそういう問題ではないのではないでしょうか。 

 台湾の人口は、2300万人ほど。面積は九州ほどです(3万6000㎢)。街は全体に、東京とは違う意味でゴシャゴシャしています(上記のように漢字が多いせいもあるかも)。歩道、店の入口、車道と歩道との段差が高く、オートバイが雑然と駐車されています。それを除けながら歩くのは、緊張感をともないます。
 現地の人の話では、日本人がつまずいて転ぶケースが多いらしいです。実際にわたしは女性が転んで左手を怪我し(結果的には骨折)、病院に運ばれた現場に遭遇しました。日本ではかなり前からバリアフリー、段差のない社会になってきているので、それに慣れてきているので、台湾の街中の状態に対応できないことがあるように思いました。      (to be continued)
 


高島俊男『お言葉ですが・・・別巻1』連合出版、2008年

2012-02-13 00:18:24 | 言語/日本語

              

 著者の「お言葉ですが・・・」シリーズ(文藝春秋)が10巻でひとくぎりとなり、そのまま終わるのかと残念に思っていたところ、別巻が出ていることがわかりました。出版社は連合出版に代わっていました。


 また、内容は、従前の文藝春秋版が「週刊文春」のコラムに掲載された記事をまとめたものであったの対し、別巻は著者があちこちに書いたまま放置されていた記事、エッセイを編集したものになっています。
 このため、内容は質、量とも、統一性がやや欠けています。それでも、高橋精神は健在で、面白いです。

 印象に残ったのは、「向田邦子の強情」「『上海お春』と鴎外の母」、それに「むかしの日本のいくさ馬」。「向田邦子の強情」では向田さんが独特の言葉使いをしているのに著者が共感をもって、喜んでいます。「羽目板」「(貯金を)積む」「市電」「字引」「明治節」などなど。さりげないが、譲らない言葉使いがお好みのようです。
 「『上海お春』と鴎外の母」では、鴎外を溺愛する母と嫁との確執に触れています。

 「『水五訓』の謎」は謎解きのプロセスに興味がわきました。ある講演会で著者が「水五訓」が黒田如水の作なのか、王陽明の作なのかを問われ、即答できなかった著者がその真実を洗っていくのです。それは黒田如水でも王陽明でもなく、どうやら昭和初年ごろにいた大野洪聲という人であった、と結論づけています(p.55)。

 「抔土(ほうど)未だ乾かず」「彼女(かのじょ)」に関するいつもの言葉の穿鑿も、わたしにとっては貴重な、価値のある分析がなされていて、参考になりました。