【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

松原一枝「大連ダンスホールの夜」荒地出版社、1994年

2019-01-08 22:04:46 | ノンフィクション/ルポルタージュ
       

 本のタイトルから単純に中身を想像して、読み始めると予想ははずれます。しかし、読み始めると、ぐいぐいと引き付けられます。正史にとりあげられない、そこに住んで暮らしていた人にしかわからない、満州の歴史の一齣です。

 最初の「大連阿片事件」から、こんなことがあったのかと、驚かされます。拓殖局、関東庁阿片総局、民生署、そして阿片小売人、特売人がからんだ事件の真相です。阿片(ペルシャ産上質阿片)の密売による厖大な利益がどうして、どのように生み出されたのか? 当時の日本政府との関連は? 著者は複雑なその仕組をさばきながら、事件の謎を解いていきます。

 標題に「ダンスホール」という語が入っているのは、満州国が出現した昭和7年頃、ここでバンド演奏つきのダンスホールが許可され、ダンスが流行したことがあったからです。「ダンスホールをめぐる医博児玉誠邸殺人事件の怪」にそのことが書かれています。


 目次は次のとおり。
・「大連阿片事件」
・「阿片王・石本鏆太郎(いしもとかんたろう)」
・「男装の麗人・川上芳子をめぐるある誤解」
・「張学良の抗日決意を知った男」
・「もう一つの関東軍謀略事件」
・「ダンスホールをめぐる医博児玉誠邸殺人事件の怪」
・「碧山荘・苦力たちの夢のあと」
・「大連のパトロンとテロリスト」
・「敗戦前夜の大連」

近藤富枝『本郷菊富士ホテル』中公文庫

2018-09-17 00:04:56 | ノンフィクション/ルポルタージュ
    

本郷菊坂にはかつて菊富士ホテルがあった。多くの知識人、文人、アナーキスト、高等遊民がそこにいた、今となっては夢のような宿泊所である。そのホテルの経営者と親戚関係にあった著者は、優しい眼差しで、このホテルを定点に往還した人々の姿を描いている。読み応え十分の文学的香り高い作品である。

 大杉栄、竹久夢二、宇野浩二、直木三十五、広津和郎、石川淳、三木清、坂口安吾といった歴史上の人物が、日常生活で呼吸している。

 意外だったのは広津和郎の人物像。松川事件で被告の無罪を唱えた広津は、実は想像以上に滑稽な、人間臭い作家であったようである。

保阪康之『数学に魅せられた明治人の生涯』ちくま文庫、2012年

2013-11-30 23:39:34 | ノンフィクション/ルポルタージュ

                                                 
  こんな人が過去にいたことにまず驚かされた。

  数学に異常な才能をもった明治人。その人の名前は茂木学介。渡会県(三重県)N村で生まれた。明治6年生まれ。幼少のころから、幾何や代数に異常な関心をもっていた。上の学校に進学すれば、日清戦争に召集されることを避けられる可能性もあったが、そうしなかったため召集兵となる。九死に一生をえて帰還。

  ほとんど独学で数学を学ぶ。その後、日露戦争に参加。一時、山梨県で数学の教員になるも、その後、N村の村長になる。晩年はフィエルマーの定理の証明にとりくむ。

  著者は、この老人が定理を解いたとの記事に出会い、当人に直接話を聞いて本書をなした。「あとがき」によると、著者の父は数学の教師だったようである。父に医師になるようにさとされ、数学へ関心をむけるように言われたのであるが反発。しかし、著者は、後になって、その父が関東大震災のおりに事件にまきこまれ、医師の道を断念したことを知り、和解する。その和解の書が、本書だということである。


山田純大『命のビザを繋いだ男-小辻節三とユダヤ難民-』NHK出版、2013年

2013-06-20 23:18:14 | ノンフィクション/ルポルタージュ

           

   第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはユダヤ人虐殺という言語道断かつ卑劣な手段を講じた。ただユダヤ人であるといだけで、殺されたユダヤ人は600万人。ユダヤ人殲滅を掲げるナチスから逃れる難民はあとをたたなかった。


   1940年、リトアニアのカナウス日本領事館に日本へのビザをもとめ、ユダヤ人が大挙して押し寄せ、当時領事代理だった杉原千畝は人道的見地からユダヤ人を他国へ逃がすために、日本通過を許可するビザを発給した(「命のビザ」)。杉原の英断で、シベリア鉄道を使って日本(敦賀を経由し、神戸、東京、横浜など)にきたユダヤ人は6000人に及んだ。

   ここまでの話はよく知られている。しかし、その後、ユダヤ難民はどうなったのか。杉原が発給したビザは日本滞在を10日間ほどであったが、ビザの延長もままならない時に、難民はどのような状況に追い込まれていたのか。この疑問は著者がこの本を書いた動機でもあり、本書では難民の窮地を救った日本人、小辻節三(1899-1973)の偉業が追跡されている。

   小辻は難民の窓口となり日本政府、ときの外務大臣松岡洋右と交渉し、ビザの延長を実現し、神戸にきたユダヤ人難民のリーダーであり、後にイスラエルの宗教大臣となったゾラフ・バルハフィクの献身的努力も得て、難民の窮地を救った(これにより、ほとんどの難民はアメリカ、カナダ、上海などのそれぞれの目的国へ)。

   本書では、その小辻の偉業の内容、その人生(小辻は京都の賀茂神社の神官の家に生まれた)、妻美彌子との札幌での出会いと生活(ヘブライ語を学ぶためにアメリカへ留学)、ヘブライ語との出会い、家族を紹介している。

   関連して知られざる事実がいくつかを知りえた。ひとつは1933年、日産コンツェルンの創始者である鮎川義介が構想した「ドイツ系ユダヤ人5万人の満洲移住計画(通称、河豚政策)」(5万人のユダヤ人を受け入れることで、アメリカのユダヤ資本を満洲に誘致し、満州を発展させるという計画、それによってアメリカとの戦争を回避できるという意図)が存在したこと。またヘブライ語ができる小辻が懇望されて満鉄で仕事をすることになり、その過程で松岡洋右(当時、満鉄総裁)との交渉があったこと、日本にユダヤ人は少なからずいたがナチスのユダヤ人政策に同調しない日本政府に業を煮やし、ドイツからマイジンガーが来日し、暗躍していたこと、などである。

  さらにユダヤ教に改宗した小辻が眠っているイスラエルに飛んで取材した著者の経験とその内容が書き込まれ、とくに難民として神戸にきてミール神学校職員の校長になったシュモレビッツの娘との、また小辻の親友だったレーゲンズブルガーとの出会いの場面、タド・ヴァシェム(ホロコースト歴史博物館)訪問、小辻節三の墓参の場面は感動的だ。


鎌田慧『六ヶ所村の記録-核燃料サイクル基地の素顔-(下)』岩波書店、2011年

2013-02-11 00:17:57 | ノンフィクション/ルポルタージュ

             

  下巻は、むつ小河原国家石油備蓄基地(51基、旧弥栄村)が、1979年に、鷹架沼の近傍に設立されたところから始まる。新全総でこの地に石油コンビナートや石油化学の石油大量消費の工業基地をつくる構想は頓挫し、その際、農家から取り上げた広大な土地は、8年ほど無策のまま放置された後に、巨大な備蓄基地と化した。


  本書で、著者は、さらに、ここに核燃料サイクル基地がつくられ、結果、下北半島に、石油備蓄基地だけでなく、東通村の原発基地、むつ市の原子力船「むつ」の母港、その後始末のための関根浜新母港、半島の先端部にある大間町のA・T・R(新型転換炉)、そして核燃料サイクル基地の建設と核施設が目白おしの状態になり、あたかも終末処理半島と化した経緯をたどっている。

  その意味は、新型転換炉がプルトニウムや燃え残りのウランを利用する原子炉であり、再処理場で回収されたウランが濃縮工場を経て原発にまわされ、プルトニウムが新型転換炉で燃やされ、したがって下北半島一帯が、原発、廃棄物貯蔵、再処理、濃縮、そして原子力船の廃棄と、巨大な核サイクル基地となるということである。付近には米軍三沢基地があり、広大な自衛隊の演習場もある。

  もともとこのあたりは満洲から引き揚げてきた人たちが開拓した土地で、自然資源に恵まれた場所であった。しかし、新全総以来、国、県、民間資本は一体となって、農民を土地から追い立て、漁民から漁業権を剥奪し、ありとあらゆる詭計を弄して、「開発」を推進した。

  反対派の運動は強固であった(泊漁協など)。体をはって、土地から動こうとしない人々もいた(第13章「土地は売らない」)。著者は彼らの立場によりそって、綿密な取材を行い、核燃料基地化の非合理性を告発している。

  とりわけ、使用済み核燃料再処理工場の強引な操業は、人類の存亡にも関わる愚行であり、考えようによっては日本の核武装への初めの一歩になりかねない。「愚行の継続を中止するのがもっとも賢明な方法である。そして原発の縮小とさまざまな代替発電による段階的な停止である。核廃棄物は移動、集中させず、国が安全と認定し、運転を許可した各原発の跡地で責任をもって管理する。それはいまだ安全性が確立されていない核燃料サイクルの新規稼働よりははるかn安全であろう。/原発が縮小/停止の方向に向かえば、プルトニウムの再利用は不必要になる。それが平和に貢献し、世界的にも事故の恐怖を解消する唯一の方法である」(p.335)、これが著者の考え方である。

  なお、六ヶ所村の核燃料サイクル基地は、従来、電気事業連合会の青森県知事への正式申請(1984年)にスタートしたようなことが巷間でしばしばいわれているが、著者はそれがすでに60年代後半の国策に組み込まれていたことを指摘している(東北経済連『東北地方における大規模開発プロジェクト』[68年9月]『東北開発の基本構想』[69年3月]参照)。


斎藤茂男『夢追い人よ(斎藤茂男取材ノート1)』築地書館、1989年

2013-02-05 18:18:38 | ノンフィクション/ルポルタージュ

           
  共同通信社の記者だった著者による、自身の取材ノートのひとつ。本書には敗戦の焼土の風景が残る「1949年夏」に起きた松川事件、下山事件を中心に戦後に起きた事件を記者の感覚でその真相を究明しようとした記録である。


  松川事件、下山事件の他に、菅生事件、安保反対闘争、日本のなかのベトナム戦争がとりあげられている。流石に記者が書いたものだけに臨場感がある。挿入された新聞記事の写真、事件現場や下山総裁が履いていた靴の写真などが効果的だ。下山事件に関しては、「李調書」が興味深い(pp.140-145)。「下山事件の全貌はこうだ」と布施検事に語った内容だ。

  関連した戦後の謀略事件である菅生事件について、著者は記者としてこの犯罪に関与した人物の捜査しが、その記録が生々しい。この事件は1952年6月2日、大分県菅生村の駐在所が何者かに爆破された事件。事件直後、日本共産党員ら5名が逮捕・起訴され、一審大分地方裁判所で全員有罪となった。しかし、その後の弁護団や報道機関の調査で、事件に現職警察官・戸高公徳が関与していることが明らかとなった。法廷でも警察の組織的関与が立証され、二審福岡高等裁判所で被告人全員が無罪となった。冤罪事件の1つであり、公安警察のフレームアップ、謀略事件の典型的な事例。
  なお、戸高は事件関与のかどで起訴、有罪となったが、刑は免除されて警察官に復職した。著者は新宿歌舞伎町の某アパートでの張り込みで戸高を探し当て、追求した。その様子が詳しく書きこまれている。

  本書にはこの他に、安保闘争の国会包囲の大衆運動の現場からの報道、ベトナム戦争に間接的に関与する日本の告発はいずれも時代を彷彿させるものばかりだ。「昭和ひとケタのひとりの男の胸中にたぎる、執念深い「否!」の声を遺しておきたいという思いが」過不足なく込められた、時代証言の書。


鎌田慧『六ヶ所村の記録-核燃料サイクル基地の素顔-(上)』岩波書店、2011年

2013-01-28 00:03:03 | ノンフィクション/ルポルタージュ

          

  青森県下北半島にある核燃料リサイクル基地建設は、それに先立って構想されたむつ小河原湾開発計画と連動して構想された。


  上下からなるこのルポルタージュは、六ヶ所村(倉内、平沼、鷹架、尾鮫、出戸、泊)とその周辺地域の100年に及ぶ悲劇の記録である。上巻では「新全国総合開発計画」(1969年5月に閣議決定)をめぐって展開されたこの地域の政治、社会事情が、多くの聞き取り調査、実態調査を踏まえ、克明に書き込まれている。

  この政策を実現するために国、県、民間ディべロッパー(むつ小河原開発株式会社)、不動産会社は文字通り官民一体となって、代替地の提供、カネのバラマキといったエサを与えて農民の土地の買収をはかった。

  「新全総」は忘れられた土地、高度成長から見放された地に、鉄鋼、石油化学を軸とする壮大な臨海コンビナートを敷設し(エネルギー源として原子力を利用)、さらに情報・交通ネットワークで結ばれた世界に比類のない夢の産業ベルト地帯をつくろうというものだった。当然予想されたのは、農民からの土地の没収、漁民からの漁業権の剥奪、自然破壊と公害のまきちらしである。六ヶ所村を中心とした周辺の人々は、開発反対の闘いにたちあがる。

  本書では、戦後満洲帰りの農民によって進められた開発(その前史も詳しく説明されている)、「新全総」前後の資本、体制側の策謀とそれに抵抗する農民の闘いが生き生きと描写されている。

  目次:「1 開発前史」「2 侵攻作戦」「3 挫折地帯」「4 開発幻想」「5 反対同盟」「6 飢渇(ケガツ)の記憶」「村長選挙」。


蓮池薫『拉致と決断』新潮社、2012年

2012-12-07 10:41:57 | ノンフィクション/ルポルタージュ

         

   著者は大学3年生だった1978年に北朝鮮に拉致され、24年間をそこで過ごした。拉致された当初は指導員、幹部の顔さえ見れば、日本への帰国を訴えていたものの、徐々にこのまま日本には帰れないのではないかという諦念が支配し始め、北朝鮮が拉致問題の存在を認めたときでも、まさか日本に帰れるとは思っていまかったようである。が、2002年に子どもをおいて帰国。すぐに北朝鮮に戻る道もあったが、日本残ることを決断、子どもが著者のもとに戻ってきたのは1年8カ月後であった。日本に帰国して8年半。


   著者はこの本で迫られた決断にいたる心理、葛藤を吐露し、拉致被害者としての招待所での生活と思い、平壌市内で目撃した市民、旅先での人々の生活をあますところなく描いている。北朝鮮の市民の生活をとりあげたわけを著者は次のように書いている、「北朝鮮社会の描写なくしては、私たちの置かれた立場をリアルに描けないという理由とともに、決して楽に暮らしているとは言えないかの地の民衆について、日本の多くの人たちに知ってほしいという気持ちもあった。彼らは私たちの敵でもなく、憎悪の対象でもない。問題は拉致を指令し、それを実行した人たちにある。それをしっかり区別することは、今後の拉致問題解決や日朝関係にも必要なことと考える」と(p.3)。

   拉致された著者は在日朝鮮人の帰国と周囲にまた子どもたちにも説明していたとのこと、それを貫き通したとある。仕事は主として翻訳業、北朝鮮の民衆の生活と比べるとややよい生活が保障されていたものの、自由は全くなく、日々の生活と行動は監視され、油断すると密告されかねない状況であったとのこと。

   金日成、金正日、そして党が絶対的存在で、市民はいつでもアメリカ、韓国、日本との戦争がおこるかもしれないという環境のもとにあるようである。逃亡を考えたことも数度、しかし常に子どものことを最優先に考えて行動していたことが痛いようにわかる。その北朝鮮も、国内の状況は少しづつ変化しているようである。著者の願いはただひとつ、一日も早い拉致問題の解決、北朝鮮に残されている拉致被害者の帰国である。


吉村昭『陸奥爆沈』新潮文庫、1979年

2012-10-18 00:09:43 | ノンフィクション/ルポルタージュ

             
           
  戦艦陸奥は全長225メートル、全幅30メートルの巨艦であった(基準排気水量39,050トン)。


  その陸奥は昭和18年6月8日正午ごろ、柱島泊地の旗艦ブイに繋留中に大爆発を起こして沈没した。乗組員1474名中生存者は353名。この生存者もサイパン島、ギルバート、タラワ、マキン島でアメリカ軍の攻撃によってほぼ全滅した。爆沈の際の生存者がこの地に送られたのは、かれらの口から陸奥爆沈の事実が漏れる怖れがあったからで、海軍の事実隠ぺいの措置であった。結局、陸奥乗組員の最終的な生還者は、100名足らずであった。

  陸奥はなぜ爆沈したのか。著者はこの原因を明らかにするために調査に入る。徹底的な調査のプロセスが、本書の内容である。

  爆沈当時、いろいろな仮説がたてられた。三式弾の自然発火、諜報機関の仕業、敵潜水艦からの攻撃など。結局、これらの仮説は全て否定され、真相の究明にはいたらなかった。


  著者は独自の調査から窃盗の嫌疑をかけられたQ二等兵曹による自殺行為(火薬庫での放火)と推定している(査問委員会もその線で推定していた)。

  著者は陸奥の爆沈は例外的なものでなかったことをつきとめている。
陸奥爆沈前に、少なくとも7件の火薬庫災害事件があったし、戦艦「三笠」(明治38年9月)、二等巡洋艦「松島」(明治41年4月)、巡洋戦艦「筑波」(大正6年1月)、戦艦「河内」(大正7年7月)が爆沈している(pp.154-55)。それらはいずれも乗組員による人為的な行為によることが確実視されているか、その疑いがある(この種の軍艦の火薬庫爆発事故は諸外国でも頻繁にあったようで、それらの多くは乗組員の放火ないし過失で起こった[pp.157-58])。

  このような事例研究もふまえ、著者は当時の査問委員会による原因究明の資料を発掘、それらを精査し、また生存者のヒアリングを行って上記の結論に達したのである。

  軍艦という堅牢な建造物、しかしそれがひとりの乗組員のふとした出来心によってもろくもくずれさり、壊滅する。爆沈の事実をあらゆる手段を使って隠ぺい工作する軍。「組織、兵器(人工物)の根底に、人間がひそんでいることを発見したことが、この作品を書いた私の最大の収穫であった」と著者は書いている(p.277)。


片野優『フクシマは世界を変えたか-ヨーロッパ脱原発事情-』河出書房新社、2012年

2012-09-27 00:32:54 | ノンフィクション/ルポルタージュ

               

  著者の思いは「本書が脱原発意識を少しでも深める一助になれば幸甚である」ということ。


  この願いを実現するために、第一章では欧米の原発事故の実態が、第二章ではフクシマ原発事故が欧米各国のエネルギー政策に与えた影響が、第三章ではヨーロッパ格好での脱原発エネルギー政策に関するヒアリング調査の結果が、示されている。

  より具体的にみていくと、第一章では旧ソ連時代のマヤーク核施設でおこった3つの原子力事故の参事(1950-60年代)、イギリスのウィンズケール原子力事故(1957年)、アメリカのスリーマイル島原発事故(1979年)、ウクライナのチェルノブイリ原発事故(1986年)、ドイツのエルベ川沿いの原子力施設で起こったと推定される放射能漏れ(1986年)、フランスのサン・ローラン・デ・ゾー原発での核燃料溶融事故(1963年)、南フランスのガール県マルクールの核施設での爆発事故(2011年)などが、福島第一原発事故と照合されながら解説されている。情報の隠ぺい(ソ連、イギリス)、住民の強制移住(ソ連)、確率がきわめて低いとされた原発事故が小さな人災の重なりで現実化した実相(アメリカ)などは、明らかにフクシマ原発事故と重なる。チェルノブイリ原発事故は、いまもって真相が不明で、著者は該当箇所で3人のオペレータの人間的確執に踏み込んで事故の原因に迫り、また新たな事故原因としての地震説に言及している。

  第二章ではフクシマ原発事故の主要な国の反応を紹介している。ただちに反原発の方向を打ち出したドイツ、イタリア、原発路線を変更しないことを宣言したフランスでは、推進派のサルコジ大統領が原発半減を唱える社会党のオーランドに大統領選挙で完敗した(本書出版時では、両者の一騎討ちが予定されていることが指摘されている)。イギリスは独自の反応を示し、原発支持派が増加する珍現象がおきた。

  第三章ではポスト原発エネルギーを睨んだヨーロッパ各国の再生可能エネルギー開発の実態が紹介されている。著者の取材によるもので、オーストリアの巨大バイオマス発電プラントを成功させたウィーンの経験、バイオマスプロジェクトで蘇生したギュッシングの場合、ソーラーシステム開発を地道にすすめるグラーツなどである。オーストリア、ハンガリーのバイオマス発電は森林国日本にとってヒントとなりうる、ようだ。イタリア、アイスランドの地熱発電も火山国日本にとって有益だ。デンマークの風力発電も日本にとって参考になるはずである。イタリアの凧発電は目新しい試みで、今後の進展に期待が寄せられている。

  フクシマ原発事故は各国のエネルギー政策に大きな影響を与え、また与えつつあるが、著者は日本人の意識はまだ変わりきれていない、と不安を募らせている。


佐野眞一『新忘れられた日本人』毎日新聞社、2009年

2012-08-18 00:01:49 | ノンフィクション/ルポルタージュ

            

  書名の『新忘れられた日本人』は、民俗学者宮本常一が著した『忘れられた日本人』を意識しているという。常一に敬服している著者は、この本の冒頭で、「土佐源氏」のモデルになった山本槌造の孫、梶田富五郎の息子の嫁を取材した体験を語っている。


  ノンフィクション作家の著者は、すでに『旅する巨人』『てっぺん野郎』『遠い「やまびこ」無着成恭と教え子たちの40年』『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』『東電OL殺人事件』『阿片王 満州の夜と霧』『枢密院議長の日記』『甘粕正彦 乱心の廣野』『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』などを著している。それらを書きあげるためには、膨大かつ綿密な取材を行っているが、本書はその過程で出会ったり、遭遇したバイプレイヤーに関心をもって書きあげたものである(最初は「サンデー毎日」で連載)。

  著者にはいくつかテーマがあり、それらは「企業」「高度成長」「沖縄と満州」である。実に多くの「忘れられた日本人」が登場する。日本マクドナルドを旗揚げした藤田田(でん)、中内ダイエーの盟友(畜肉商)・上田照雄、ファミレスの草分け・江頭匡一、沖縄の家畜商・多和田真利、蒟蒻新聞社長・村上貞一、残飯屋・弥勒久、「山びこ学校」の関連者、日本のプロ野球の草分けとして尽力した人々(日本初の女子プロ野球を含む)、滋賀県特殊浴場協会会長・田守屋四郎、滋賀プラスティック代表・西四辻公敬、そして日本の高度経済成長の下敷き的要因となった「満州」「沖縄」に関わった人々。

  個人的には、日本の映画産業のルーツともいえる満映の人脈(甘粕、内田吐夢、西本正、岡田桑三、根岸寛一)、石原慎太郎、裕次郎の父親石原潔、大杉事件で大杉栄、伊藤野枝、橘宗一少年を検死解剖した田中軍医の話に興味をもった。著者は若かった頃、『原色怪獣怪人大百科』を書き、これはかなり売れたという。それで著者は自分のことを「昔怪獣」「今怪人」のノンフィクション作家と自称している。


佐野眞一『別海から来た女-悪魔祓いの百日裁判-』講談社、2012年

2012-07-28 00:37:53 | ノンフィクション/ルポルタージュ

 木嶋佳苗。睡眠薬と練炭を使った首都圏連続殺人事件の被疑者。

 罪状は3件の殺害事件、6件の詐欺及び未遂、1件の窃盗。これらのうち最も核心にある殺害事件は、2007年8月から2009年9月にかけて、埼玉、東京、千葉で起きた男性の不審死にかかわる。

  彼女はかかわった男性に結婚する意志があるかのようにネットをつうじて接近し、多額の金を詐取し、関係の継続が不要となった時点で、かれらに睡眠薬を飲ませ、練炭を使って中毒死させた(らしい)。

  著者はこの事件の社会的影響の大きさ、犯罪者である木嶋佳苗の悪女ぶりを、綿密な取材と裁判の傍聴をとおして、あますところなく分析し、本書をなした。

  第Ⅰ部「別海から来た女」では、佳苗が生まれ育った中標津、別海の地にとび、福井県に出自をもつ曽祖父、祖父、そしてこの地に生を受けた父母の痕跡を訪ね、佳苗が育った家庭環境に迫っている。ここでは佳苗が小学生の頃にピアノの先生宅から貯金通帳を盗んだ事件を知り、驚く。

  第Ⅱ部「百日裁判」は、裁判傍聴の記録である。主観的感情を抜きに散文的に叙述することを旨としたようであるが、ところどころに怒り、あきれ、徒労感の表明があり、意図と矛盾する記述が散見される。犯罪はおしなべて時代の縮図がそこに投影されるが、著者はこの事件が背景にある都会と地方とのねじれ、ネットの利用(婚活サイト)、高齢者問題の契機がからんでいることを指摘している。しかし、本質は佳苗にみられたサイコパス(反社会的精神病質)的性格に着目している。

  著者はこの超弩級の女犯罪者のウソ八百で塗り込めた供述、裁判での横柄な態度に驚嘆しつつも、佳苗に殺され、カネをばましとられ、冒瀆され、手玉に取られた情けない男たちにも強い関心があったようである。

  さらにさいたま地裁での裁判長の判決文の稚拙さ(「被告人のほかには見当たらない」といった独断的文言)にも言及するとともに、,事件への警察の対応への疑問も提示している。

  それにしても木嶋被告は、何を考えていたのだろうか。そんなことをしたらそのうち捕まることはわかっていたはずなのに、なぜ次々と手を下し続けたのだろうか。彼女の精神構造はいまひとつわからないが、数千万、数百万の金額を手にし、セレブな生活をすることになれ、リスクは承知しつつ、綱渡りの日々を脱却できなかったのだろう。

 現代社会を象徴する極悪犯罪の核心にせまるレポート。


後藤正治『ベラ・チャスラスフスカ-最も美しく-』文藝春秋、2006年

2012-04-24 00:10:49 | ノンフィクション/ルポルタージュ

                                                 
  東京オリンピック(1964年)は青春の懐かしい思い出とともにありますが、チャスラフスカの名前もそうです。


  女子体操の個人総合、跳馬、平均台で金メダルを獲得しました(4年後の墨西哥大会では、個人総合、跳馬、段違い平行棒、床で金メダル)。ラチニナ、アスタホワ、序でに男子体操のボリス・シャハリンにも憧れました。

  本書はその女子体操の女王だったチャスラフスカの半生です。彼女が生まれ育ったチェコスロバキアの20世紀は激動の時代でした。ナチに国土を蹂躙され、「プラハの春」後にはソ連の軍事介入、「ビロード革命」を経て社会主義の放棄、そしてチェコとスロバキアへの国の分裂。

  「プラハの春」のさなか、彼女は「二千語宣言」(共産党の官僚主義と権力主義批判、民主化の推奨)に署名、そして署名撤回を拒否。権力移行後、「医療・福祉担当」の大統領顧問となるも激務で心労が重なったようです。その後、チェコオリンピック委員会会長に就任。
 しかしこの間、結婚(メキシコ五輪)と離婚(1987年)があり、さらに子どもが別れた夫を殺すという事件に巻き込まれました(1993年8月)。

  本書はノンフィクションですが、チャスラフスカ本人との直接のインタビューはかなわなかったようです。彼女は現在精神的に病み、プラハの診療所にいるそうです。チェコ人でコーディネート、通訳を務めたマルチン・ヴァチカージュを通じて受けたFAXでの回答が、使われています。

  あわせて周辺の関係者からの取材。イワン・オガノフ(ロシア体操連盟副会長)、ペトル・ピットハルト(チェコ上院議長)、ソ連体操界のラチニナ、クチンスカヤ、ツリシチェワ、ホルキナ、ルーマニアのコマネチ、日本の荒川美幸、池田敬子、小野清子、中村多仁子、松久ミユキ、マルタ・クビシュヴァ(歌手)、ヴラスタ・クラモストワ(女優)、カミラ・モウチコワ(テレビキャスター)など。
  
  著者のねらいは、チャスラフスカの人生を追いながら、20世紀最大の<夢>であった社会主義の生々、発展、消滅を追うことにありました。そのテーマを追って5年間、いわば世界中を駆け回って取材した成果物が本書です。


小林和男『エルミタージュの緞帳』NHK出版、1997年

2011-12-31 00:09:10 | ノンフィクション/ルポルタージュ

          

 「エルミタージュの緞帳」とは? 世界三大美術館のひとつエルミタージュ美術館には、ほとんど知られていないし、見た人もいないが劇場があり、その正面の舞台にはロマノフ家の紋章である金色の王冠を戴いた「双頭の鷲」が入った緞帳がかかっているらしく、「エルミタージュの緞帳」とはそれを指しています。
 この緞帳は19世紀の画家で、一時マリンスキー劇場の芸術監督をしていたアレクサンドル・ゴロヴィンとその弟子による作らしく、ソ連時代にはこの緞帳は表目に薄い幕が張られ、約70年もの間、破壊されることなく、存続してきた、とのことです。
 1991年にソ連が崩壊し、エルミタージュ美術館は表面の薄い幕を剥ぎ、ロマノフ王朝のシンボルが再現されました。

 本書はソ連崩壊からエリツィンが登場したロシアの政治と社会の現場報告ですが、その話の内容の象徴にこの緞帳が標題に採用されたわけです。(この書の最後のエッセイの表題は、「エルミタージュの緞帳」です)。

 著者は冒頭で述べていますが、中学生から高校の頃、ソ連による人類初の人工衛星打ち上げに衝撃を受け、ロシア語を東京外国語大学で学び、NHK入社。70年にモスクワ駐在特派員となり、取材活動に。しかし、直後からこの社会主義国への期待が幻想であったことに気づきました。

 社会主義国ソ連の問題点はいまでは周知であり、一般的には、過度の中央集権制、ノメンkラトゥーラが跋扈した官僚制度国家であったことが崩壊と解体の原因であったことになっています。

 本書はジャーナリストによって書かれたものなので、話が具体的であり、リアルです。ペレストロイカがパンスト論議から時始まったこと、ゴルバチョフに大きな期待が寄せられながら軍部に対する統制がきかず、保守化したこと、エリツィンがゴルバチョフを失脚させたものの権力をとったとたん、権力にあぐらをかき、同じ轍をふんだこと、ソルジェニーツィンの取材での失望、画家レーピンの歪曲された実像、チャイコフスキーコンクール(1994年)の舞台裏などなど。

 コスイギン外相、ロストロポーヴィッチ、サハロフ博士など大物への取材内容も興味深いです。

 著者は「何かといえば共産党独裁政権下の特権階級を批判し」てきたのですが、自身その特権的な恩恵に浴してきたことも十分自覚していて(p.237)、ロシアとロシア人の一筋縄ではいかないしたたかさ、懐の深さをにも熟知し、そのことが文章の端々に感じられ、面白い読み物でした。


高成田亮『こちら石巻さかな記者奮闘記-アメリカ総局長の定年チェンジ-』時事通信社、2009年

2011-11-24 00:04:24 | ノンフィクション/ルポルタージュ

            
 朝日新聞社に入社し、アメリカ総局長(1998年ー2002年)まで務めた著者は、もともと漁業に関心があり「さかな記者」を志望していましたが、定年後「シニアスタッフ」として石巻支局長として赴任し、積年の夢を果たしました。

 本書は夢を実現した著者の支局での成果報告です。サンマ船、捕鯨船などにのっての実地見聞にもとづく取材、そこで漁業について、地域について考えた軌跡が熱く語られています。

 漁業問題では、捕鯨(とくに地域捕鯨)、燃油高騰とともに時持続可能な漁業を展望し(乱獲にむすびつく設備過剰の解消「減船」、漁業環境の復元)、水産都市の生き方(食文化の発展を背景にした魚料理、種々の水産加工業、産地ブラントが支える漁業、魚を主にした観光の組み合わせ)を考察しています。

 また、地域問題では、直面した中心市街地問題、戦後の農地改革で召し上げられた小作地(庭園)の公有化に関わる問題、森と海をどう共存させうるかという課題、住民視点からみた女川原発問題について論じています。

 著者は魚料理が好きなようで第五章では「魚を食べる」と称して、当地の春夏秋冬の魚の紹介をしています。春はナマコ、メロウド、サクラマス、クジラ、アブラボウズ、夏はスズキ、トラフグ、カワハギ、ホヤ、クロマグロ、アナゴ、カツオ、アワビ、ウニ、マンボウ、秋はサンマ、マイワシ、イカ、ウナギ、サバ、カマス、サワラ、冬はカキ、タラ、ドンコ、ナメタガレイ、キチジ、ハゼ。

 魚でないものもたくさんありますが、まあそれはいいでしょう。地方版に載った著者執筆の「話のさかな」という連載企画記事だそうです。

 先任者から教わったことは、「その土地を愛せ」ということ。記者として地域に生き、地域を愛し、地域から世界をみようとする著者の視点は、当たり前のことですが、斬新に聞こえるのは時代がいつの間にかそういう考え方を排他し、遠ざけ、無視する風潮にそまってしまっているからでしょうか。各章の扉に掲げられた妻、惠さんの写真がgoodです。