早稲田大学高等研究所でのシンポジウム〈僧伝のアジア〉が終わった。前日も19:00まで会議室に詰めていたため、徹夜で作業したものの充分に準備を終えることができず、心身ともに消耗した状態で本番に臨むこととなった。この日、12/6(土)は各所でシンポや学会の大会、研究会の例会が開かれており、ほとんど人が集まらないのではないかと心配されたが、写真のようになんとか恰好だけは付いた形である。関係者のみという閑散とした会場では、何より中国から招聘した方々に申し訳がない。今回はぼくも被招聘者だったのだが、主催者側がみな友人なので気持ちはホストサイドであった(だから、開会の挨拶で「今回は上智大学からも報告者をお招きし...」などといわれたときはちょっと違和感があった)。
なお、プログラムは以下のとおり。
北條勝貴「先達の物語を生きる―行の実践における僧伝の意味」
藤巻和宏(高等研究所助教)「鷲にさらわれた子の行方―良弁伝の生成と展開」
水口幹記(浙江工商大学日本文化研究所副教授)「北宋代祈雨の諸相―成尋の祈雨を手掛かりに」
江静(浙江工商大学日本文化研究所副教授)「神様の召喚―無学祖元の赴日伝説をめぐって」
陳小法(浙江工商大学日本文化研究所副教授)「明清文人と一休宗純―画賛を中心に」
黒田智(高等研究所助教)「往生の十五夜―願われた死の日時」
ぼくはトップバッターであったが、準備不足なうえに25分という報告時間にうまくまとめることができず、さんざんな出来だった。終わった後、何人かの方から「とても分かりやすい話し方で参考になった」といわれたが、慰めとして受け取っておこう。内容は以前に梗概を書いたとおりだが(最後に、禅観瞑想の伝統がなかった日本では、禅観経典より僧伝の方が山林修行のテキストとして広く利用された、と付け加えた)、シンポ全体の内容からすれば、もう少し史・伝の成立について詳しく考察しておくべきだったかも知れない。しかしまあ、最低限の役割は果たせたろう。
藤巻報告は、ぼくも10年以上前に論文で追いかけたネタに関係する。鷲の辿ったルートに良弁の活動を復原するなど無謀な方法を用いたものだが、藤巻氏のそれは、近世までカバーした鷲の落とし子の伝承史として興味深い。しかし、そもそもなぜ鷲なのか。ガルーダの中国南方や東南アジアでの広がりをみると、仏教とともに入ってきたモチーフという気がしないでもない。
水口報告は、『参天台五台山記』にみえる成尋の祈雨記事が、当時の宋社会の文脈に則った一般的事例であること、『参記』が後世に成尋伝として読まれる可能性などを指摘した。記録から伝へ、という僧伝の一成立過程を示す内容だろう(そして、それには"読み"が関わっている)。ぼくが掲示した『周氏冥通記』も、もともとは陶弘景の弟子周子良が神仙から受けた訪問の断片的記録だったが、後に陶自身によって周子良伝を付し成巻されている。きちんと提示して比較できれば面白かったかも知れない。
江報告は、無学祖元の日本渡来の伝承を史料に基づいて分析し、渡来を要請した八幡神を導く金龍・白鳩の意味について考察した。陳報告は、一休宗純の頂相に画賛を加えた明清文人の事例研究。いずれも知らないことばかりで大変勉強になった。
黒田報告は、日本の往生伝類から中秋という往生の「得意日」を発見し、中国の往生伝類の分析から北遼などからの伝来可能性を指摘した。以前このブログでも指摘したが、ぼくの報告で扱った曇鸞には、道教を介してなんとなく月との関わりがつきまとう。浄土=月世界説はぼくも賛成なので、今後自分なりに調べてゆきたい。
ぼくの関わった会としては驚くべきことに(他の人が偉かったのだ)、時間通りにスケジュールは進み、会場との意見交換を終えて懇親会へ。司会の森和さんは中国古代史のご専門、祟りと亀卜をめぐる研究において普段から疑問に思っていることを、いろいろご教示いただくことができた(嬉しい限り!)。二次会は高等研究所の集会室にて、同年代の研究者が集まり楽しく盛り上がった。しかし、ぼくは前々日からほとんど不眠不休だったので、もはや脳が活動限界に来ており、活発な意見交換に加われなかったのは残念であった。いずれにしろ、シンポ主催者の皆さん、関係者の皆さんには大変お世話になりました。今後ともよしなに。
なお、プログラムは以下のとおり。
北條勝貴「先達の物語を生きる―行の実践における僧伝の意味」
藤巻和宏(高等研究所助教)「鷲にさらわれた子の行方―良弁伝の生成と展開」
水口幹記(浙江工商大学日本文化研究所副教授)「北宋代祈雨の諸相―成尋の祈雨を手掛かりに」
江静(浙江工商大学日本文化研究所副教授)「神様の召喚―無学祖元の赴日伝説をめぐって」
陳小法(浙江工商大学日本文化研究所副教授)「明清文人と一休宗純―画賛を中心に」
黒田智(高等研究所助教)「往生の十五夜―願われた死の日時」
ぼくはトップバッターであったが、準備不足なうえに25分という報告時間にうまくまとめることができず、さんざんな出来だった。終わった後、何人かの方から「とても分かりやすい話し方で参考になった」といわれたが、慰めとして受け取っておこう。内容は以前に梗概を書いたとおりだが(最後に、禅観瞑想の伝統がなかった日本では、禅観経典より僧伝の方が山林修行のテキストとして広く利用された、と付け加えた)、シンポ全体の内容からすれば、もう少し史・伝の成立について詳しく考察しておくべきだったかも知れない。しかしまあ、最低限の役割は果たせたろう。
藤巻報告は、ぼくも10年以上前に論文で追いかけたネタに関係する。鷲の辿ったルートに良弁の活動を復原するなど無謀な方法を用いたものだが、藤巻氏のそれは、近世までカバーした鷲の落とし子の伝承史として興味深い。しかし、そもそもなぜ鷲なのか。ガルーダの中国南方や東南アジアでの広がりをみると、仏教とともに入ってきたモチーフという気がしないでもない。
水口報告は、『参天台五台山記』にみえる成尋の祈雨記事が、当時の宋社会の文脈に則った一般的事例であること、『参記』が後世に成尋伝として読まれる可能性などを指摘した。記録から伝へ、という僧伝の一成立過程を示す内容だろう(そして、それには"読み"が関わっている)。ぼくが掲示した『周氏冥通記』も、もともとは陶弘景の弟子周子良が神仙から受けた訪問の断片的記録だったが、後に陶自身によって周子良伝を付し成巻されている。きちんと提示して比較できれば面白かったかも知れない。
江報告は、無学祖元の日本渡来の伝承を史料に基づいて分析し、渡来を要請した八幡神を導く金龍・白鳩の意味について考察した。陳報告は、一休宗純の頂相に画賛を加えた明清文人の事例研究。いずれも知らないことばかりで大変勉強になった。
黒田報告は、日本の往生伝類から中秋という往生の「得意日」を発見し、中国の往生伝類の分析から北遼などからの伝来可能性を指摘した。以前このブログでも指摘したが、ぼくの報告で扱った曇鸞には、道教を介してなんとなく月との関わりがつきまとう。浄土=月世界説はぼくも賛成なので、今後自分なりに調べてゆきたい。
ぼくの関わった会としては驚くべきことに(他の人が偉かったのだ)、時間通りにスケジュールは進み、会場との意見交換を終えて懇親会へ。司会の森和さんは中国古代史のご専門、祟りと亀卜をめぐる研究において普段から疑問に思っていることを、いろいろご教示いただくことができた(嬉しい限り!)。二次会は高等研究所の集会室にて、同年代の研究者が集まり楽しく盛り上がった。しかし、ぼくは前々日からほとんど不眠不休だったので、もはや脳が活動限界に来ており、活発な意見交換に加われなかったのは残念であった。いずれにしろ、シンポ主催者の皆さん、関係者の皆さんには大変お世話になりました。今後ともよしなに。
さっそく、シンポの模様をアップされたんですね。
質疑で大暴れした某氏と、昨日研究会で会いましたが、ほうじょうさんとゆっくり話をしたかったと言ってましたよ。
さて黒田報告の、特異日ならぬ「得意日」は、黒田さんならではの表記ですか?なるほど、たまたま統計的に「特異」ではなく、意識的行為としての往生と考えれば「得意」と表記すべきなのでしょう。じつに巧い表記です。
日曜のうちにアップするつもりでいたんですが、授業準備やら書類作成やらでできませんでした。毎週、水曜の夜になると一息つける、という感じです。
「得意日」は、黒田さんは使っていたかどうか分かりませんが、前期に上智で非常勤をお願いしていたとき、そんな表現が出たような気がしたので。「」付きでね。
Oさんには、モモがお世話になっているので、ぼくもお話をしたかったですね。「人生最大の問題」は、結局何だったんですか。
ところで、当日電車のなかで水口君と話をしていて、彼は伝について、歴史学的な生成過程を念頭に論理を構築しているのだなと思いました(朦朧とした頭で)。ぼくはシンポの時点では宗教学的な捉え方をしていたので、そういう相違を整理しながら、伝とは何か、どのような展開をしてゆく言説/書物なのかということを、もっと突っ込んで議論できたらよかったですね。いずれまた次の機会に。
それとやっぱり「読み」の問題だよね。一つの書物なり記録なりが、読む側の状況等(読者共同体って使っているけど)によって幾通りにも変化していく様相の一つとして今回の報告は考えていたのです。だから、報告中でも「可能性」って言葉をよく使っていたわけで。(断定できるだけの気概がないといえばそれまでだけど・・・)
とにかく、お疲れさまでした。
ところで、電車の中で言っていた2月の話ってなんなの??いつまで日本にいるのか聞いてきたでしょ。
それにしても、"読み"ね。
よく考えると、ぼくの「禅観による再創造」も"読み"の問題なんだよね。生成とは読解なり。読解とは生成なり。今度本にまとめる機会があるなら、それを念頭に置いておくのも面白いかも知れない。
読者共同体だとアナールっぽいし、宗教性が希薄になってしまうので、やっぱり"行"とくっつけて個の実践としても扱いたい。