仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

新たな視角:浄土と月

2008-07-21 18:12:26 | 議論の豹韜
春学期に受け持った日本史特講では、死の観念や死者儀礼について、石器時代から平安時代まで語り通した。昨年亡くなった義母への思いがそもそもの動機・牽引力で、死や死者と密接に繋がってきた自身の半生を振り返る意味もあった。始めたときはどこへ向かうことになるかまったく見通しを持っていなかったのだが、ちゃんと風呂敷を畳むことができたのは(学生への責任として)成功だったし、思いがけない発見が幾つもあったのも幸いだった。いまだ首都大での講義を残しているので詳しくは語れないが、そのひとつが浄土と月との関係である。黒田智さんが、往生伝と中秋との関係を統計的に導き出しているが、浄土や阿弥陀の図像自体にも、月を媒介にした旧石器時代からの基底的心性の痕跡があるのだ(まさに長期波動)。

それについて語りきった先週の金曜、特講を終えて『法苑珠林』講読会を開始すると、偶然にも、報告者の榊佳子さんから月/往生をめぐる貴重な示唆をいただいた。その日の割り当ては『唐高僧伝』を換骨奪胎した曇鸞のエピソードだったが、興味深いのは、やはり彼が陶弘景の茅山道教と親しかったことだろう。『真誥』や『周氏冥通記』をみれば、陶弘景の道教が観相行を重視していた可能性に気づく。後に『往生論註』を著す曇鸞も、『観無量寿経』に象徴される観相行をよく実践したと考えられる。両者の修行のありようはここにおいて一致したのだろう。ところで、この伝記中には、前後の文脈と一件無関係な鮑郎子神なる川神のエピソードがある。荒れる浙江を渡るために、曇鸞がこの神に廟を建てることを約束するのである。典型的な祟り神のパターンだが、前後の文脈との繋がりが不自然で、もともと彼に関わりのない伝承を挿入してしまったような印象がある。ではなぜ組み込まれたのだろうか。榊さんの話によれば、この川が荒れるさまは、中秋に起きる銭塘江の逆流現象と関連する可能性があるという。とすれば、ここにも月の問題が浮かび上がってくることになる。あやしいぞ、曇鸞。

講読会が終わって22:00過ぎまで歓談し、外に出てみると、夜空には煌々と照らす満月が。これもシンクロニシティというべきか。
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