24日(火)、成城大学にて『三宝絵』研究会第3回集会が開かれました。
今回は難産の末に生み落とした私の報告、「礼拝威力、自然造仏―『三宝絵』下巻二十話にみる〈祟る木霊〉の解脱―」です。
下20「長谷菩薩戒」は、前半部分で長谷観音の造像縁起、後半部分で長谷寺における菩薩授戒の盛行を語るもの。研究史的には、前半部分の原資料とされる「徳道、道明等ガ天平五年ニシルセル、観音ノ縁起并ニ雑記等」が、「長谷寺縁起」の初発形態として重要視されてきました。近年は、藤巻和宏さんらの活躍によって、『長谷寺縁起文』『長谷寺験記』『長谷寺密奏記』などへの中世的展開が明らかにされていますが、実は原縁起についてはほとんど研究が進んでいません。下20の記述も、「観音縁起」をほぼ忠実に記録したものとされていますが、そのような保証はどこにもないわけです。そこで今回の報告は、下20前半が原「観音縁起」に基づく可能性、『三宝絵』の作者源為憲の製作にかかる可能性の、双方を見据えながら構成しました。
まず、下20前半「観音縁起」のさらに前半に当たる部分は、洪水によって近江国高嶋郡へ漂着した祟りなす巨木の物語で、イヅモノ大ミヅ(出雲大水)なる人物が大和国当麻里へ移動、さらにその子ミヤ丸(宮丸)が長谷河のなかへと引き捨てます。動かない樹木が特定の人物によってのみ軽々と運ばれる、というのは、木霊婚姻譚にみられる中核的なモチーフです。そこでは、樹木の怒りを鎮めることができるのは木霊の配偶者もしくは子供で、彼らが木に触れることにより、微動だにしなかった巨木が容易に動き出すのです。その伝承の源泉には、樹木伐採の際に行われる木鎮め(山口、木本、建築の諸祭儀を経て、木霊を建築物の守護神に転換する方法)の存在が想定されます。例えば森林資源の豊富な紀伊国では、『延喜式』や『皇太神宮儀式帳』に木鎮めの執行者としてみえる忌部(とくに紀伊忌部)の活躍が確認でき、『書紀』一書に列島中に樹種を植える神として登場する伊太祁曽三神が鎮座(その父であるスサノヲは樹種別の用途を定め、林業の展開を暗示しています)、仏教の伽藍建築に際し木鎮めが行われていた痕跡も見出せます。下20で祟る巨木が移動する南近江・南山城から大和へのルートは、藤原京建設当時からの林業地帯であり、木材を筏に組んで流す水上交通路であったと考えられます。さらに、天平宝字年間の石山寺造営では、山口神祭などの木鎮めを行う様工集団の存在が確認できます。環境的に紀伊国との類似が想定され、巨木の移動は木霊婚姻譚の一類型、大ミヅやミヤ丸は木鎮め実践者の物語化された姿と考えられるのです(木鎮め祭儀やその伝承については、[k-hojoの書いたもの]IV-12・III-15を参照)。
ちなみに、日本における木霊婚姻譚とまったく共通する話型は確認できないものの、木霊が人間と恋に落ちる話や、漂流木が災害をもたらすモチーフは、『捜神記』『冥祥記』『集異記』などの漢籍・古小説類に散見します。核となる部分は在地との関連性を持つとしても、表現としては漢籍に基づいて筆録された可能性があるでしょう。「祟」が「卜」によって明らかになるという点も、中国的歴史叙述の形式をしっかりと踏襲するものです。
下20「観音縁起」の後半部分は、言説形式としては神身離脱譚に当たります。寺川真知夫さん、吉田一彦さん、そして私が指摘してきたように、この言説形式は中国から僧伝類を通して輸入され、それを模範とする山林修行者によって広汎に定着していったと考えられます。中国では成立当初、盛んな廟神信仰を解体するために用いられ、神が悪報としての現身を離脱し入滅する点が重要でしたが、日本の神は輪廻もしなければ入滅もしません。すなわち、日本的な神身離脱譚はあくまで〈離脱願望〉譚であり、祭祀の更新をはかる祟り神信仰の再編強化を意味するものと考えていいでしょう。「観音縁起」でも、祟る樹木が徳道のはたらきで観音へと転換、マイナスの存在がプラスの存在となって祭祀の更新が行われます。初期神仏習合譚と同時期、同様の環境で形成された、実践的色彩の濃い縁起譚といえるでしょう。
また、流木や神木が造寺・造像に用いられたり、祈請に応じた山神の良木喜捨、特定の僧でなければ動かせない仏像などのモチーフは、『冥報記』や『梁高僧伝』『唐高僧伝』などに確認できます。とくに道宣の『集神州三宝感通録』は、僧尼の至信に感通した山野河海からの仏像出現譚を多く収めており、注意を要します。内的文脈としては、阿育王の中国における痕跡を実証する意味合いが濃厚ですが、これらの書物は『書紀』段階より日本仏教史の構築作業に用いられており、原「観音縁起」に影響を与えている可能性は大きいでしょう。さらに、『三宝感通録』所載の霊験譚は、『三宝絵』の多用する『法苑珠林』にほとんど収録されており、為憲による筆録の段階で使用された可能性もあります。「観音縁起并雑記」という書き方からすると、為憲は複数の書物から下20前半を構成したと考えられ、表現形式・言説形式の問題も含め、整理というより創作に近い作業だったのではないかと推測されます。
ところで、師さんの発表のところでも触れましたが、私は道宣の好むような神仏出現の感通譚の源泉には、観仏行によって得られた神秘体験が存在すると考えています。とくに、下20は前半で観音の造像を語り、後半で菩薩授戒へ展開させて『梵網経』も引用している。まさに、山部氏の指摘したような『梵網経』菩薩受戒に伴う好相行が、古代の日本でも行われていた徴証ではないでしょうか。
最後に、下20全体の問題から。近年の横田隆志氏の指摘によって、『三宝絵』収録の各説話を、本来の読み手である尊子内親王の視点で解釈しなおす方向がみえてきました。それでは、下20の「長谷菩薩戒」という物語が、『三宝絵』に収録された意味とは何なのでしょうか。未だ夢想に過ぎませんが、出家以前の内親王が内裏に火災を呼ぶ「火宮」と誹謗されていたこと、同書執筆の時期と内親王の受戒の時期がほぼ重なっていること、菩薩受戒が「仏ノ位ニ入ハジメノ門」とされていることなどからすると、祟る樹木から観音へ、マイナスからプラスへの鮮やかな転換にこそ意味があったように思われます。壁画を導き手として仏の姿を観ようとした西域の僧のように、尊子内親王も、下20に付された絵を頼りに好相を得ようとしたのかも分かりません。
以上、史料の羅列のみに終わった発表でしたが、参加者にはおおむね好意的に受けとめていただき、受戒作法のさらなる分析、朝鮮の事例の探究など様々な課題をいただきました。ありがとうございました。また、この内容を練っている最中、仏教大博士課程の舩田淳さんの紹介で、「長谷寺縁起」の権威ともいうべき藤巻和宏さんとも知り合いになりました(ブックマークもしているhp「相承・密奏・顕現」を参照)。メールのやりとりのみでまだお会いしたことはないのですが、ぜひ直接ご教示を賜りたいものです。
なお、次回の『三宝絵』研究会では、聖徳太子信仰の研究で知られる藤井由紀子さんが、私と同じ下20を異なる角度から分析してくださるそうです。私は縁起の文脈から意図的に逸脱してしまったので、藤井さんがそのあたりを厳密に押さえてくださるとすればありがたいことです。今から次回の議論が楽しみです。
今回は難産の末に生み落とした私の報告、「礼拝威力、自然造仏―『三宝絵』下巻二十話にみる〈祟る木霊〉の解脱―」です。
下20「長谷菩薩戒」は、前半部分で長谷観音の造像縁起、後半部分で長谷寺における菩薩授戒の盛行を語るもの。研究史的には、前半部分の原資料とされる「徳道、道明等ガ天平五年ニシルセル、観音ノ縁起并ニ雑記等」が、「長谷寺縁起」の初発形態として重要視されてきました。近年は、藤巻和宏さんらの活躍によって、『長谷寺縁起文』『長谷寺験記』『長谷寺密奏記』などへの中世的展開が明らかにされていますが、実は原縁起についてはほとんど研究が進んでいません。下20の記述も、「観音縁起」をほぼ忠実に記録したものとされていますが、そのような保証はどこにもないわけです。そこで今回の報告は、下20前半が原「観音縁起」に基づく可能性、『三宝絵』の作者源為憲の製作にかかる可能性の、双方を見据えながら構成しました。
まず、下20前半「観音縁起」のさらに前半に当たる部分は、洪水によって近江国高嶋郡へ漂着した祟りなす巨木の物語で、イヅモノ大ミヅ(出雲大水)なる人物が大和国当麻里へ移動、さらにその子ミヤ丸(宮丸)が長谷河のなかへと引き捨てます。動かない樹木が特定の人物によってのみ軽々と運ばれる、というのは、木霊婚姻譚にみられる中核的なモチーフです。そこでは、樹木の怒りを鎮めることができるのは木霊の配偶者もしくは子供で、彼らが木に触れることにより、微動だにしなかった巨木が容易に動き出すのです。その伝承の源泉には、樹木伐採の際に行われる木鎮め(山口、木本、建築の諸祭儀を経て、木霊を建築物の守護神に転換する方法)の存在が想定されます。例えば森林資源の豊富な紀伊国では、『延喜式』や『皇太神宮儀式帳』に木鎮めの執行者としてみえる忌部(とくに紀伊忌部)の活躍が確認でき、『書紀』一書に列島中に樹種を植える神として登場する伊太祁曽三神が鎮座(その父であるスサノヲは樹種別の用途を定め、林業の展開を暗示しています)、仏教の伽藍建築に際し木鎮めが行われていた痕跡も見出せます。下20で祟る巨木が移動する南近江・南山城から大和へのルートは、藤原京建設当時からの林業地帯であり、木材を筏に組んで流す水上交通路であったと考えられます。さらに、天平宝字年間の石山寺造営では、山口神祭などの木鎮めを行う様工集団の存在が確認できます。環境的に紀伊国との類似が想定され、巨木の移動は木霊婚姻譚の一類型、大ミヅやミヤ丸は木鎮め実践者の物語化された姿と考えられるのです(木鎮め祭儀やその伝承については、[k-hojoの書いたもの]IV-12・III-15を参照)。
ちなみに、日本における木霊婚姻譚とまったく共通する話型は確認できないものの、木霊が人間と恋に落ちる話や、漂流木が災害をもたらすモチーフは、『捜神記』『冥祥記』『集異記』などの漢籍・古小説類に散見します。核となる部分は在地との関連性を持つとしても、表現としては漢籍に基づいて筆録された可能性があるでしょう。「祟」が「卜」によって明らかになるという点も、中国的歴史叙述の形式をしっかりと踏襲するものです。
下20「観音縁起」の後半部分は、言説形式としては神身離脱譚に当たります。寺川真知夫さん、吉田一彦さん、そして私が指摘してきたように、この言説形式は中国から僧伝類を通して輸入され、それを模範とする山林修行者によって広汎に定着していったと考えられます。中国では成立当初、盛んな廟神信仰を解体するために用いられ、神が悪報としての現身を離脱し入滅する点が重要でしたが、日本の神は輪廻もしなければ入滅もしません。すなわち、日本的な神身離脱譚はあくまで〈離脱願望〉譚であり、祭祀の更新をはかる祟り神信仰の再編強化を意味するものと考えていいでしょう。「観音縁起」でも、祟る樹木が徳道のはたらきで観音へと転換、マイナスの存在がプラスの存在となって祭祀の更新が行われます。初期神仏習合譚と同時期、同様の環境で形成された、実践的色彩の濃い縁起譚といえるでしょう。
また、流木や神木が造寺・造像に用いられたり、祈請に応じた山神の良木喜捨、特定の僧でなければ動かせない仏像などのモチーフは、『冥報記』や『梁高僧伝』『唐高僧伝』などに確認できます。とくに道宣の『集神州三宝感通録』は、僧尼の至信に感通した山野河海からの仏像出現譚を多く収めており、注意を要します。内的文脈としては、阿育王の中国における痕跡を実証する意味合いが濃厚ですが、これらの書物は『書紀』段階より日本仏教史の構築作業に用いられており、原「観音縁起」に影響を与えている可能性は大きいでしょう。さらに、『三宝感通録』所載の霊験譚は、『三宝絵』の多用する『法苑珠林』にほとんど収録されており、為憲による筆録の段階で使用された可能性もあります。「観音縁起并雑記」という書き方からすると、為憲は複数の書物から下20前半を構成したと考えられ、表現形式・言説形式の問題も含め、整理というより創作に近い作業だったのではないかと推測されます。
ところで、師さんの発表のところでも触れましたが、私は道宣の好むような神仏出現の感通譚の源泉には、観仏行によって得られた神秘体験が存在すると考えています。とくに、下20は前半で観音の造像を語り、後半で菩薩授戒へ展開させて『梵網経』も引用している。まさに、山部氏の指摘したような『梵網経』菩薩受戒に伴う好相行が、古代の日本でも行われていた徴証ではないでしょうか。
最後に、下20全体の問題から。近年の横田隆志氏の指摘によって、『三宝絵』収録の各説話を、本来の読み手である尊子内親王の視点で解釈しなおす方向がみえてきました。それでは、下20の「長谷菩薩戒」という物語が、『三宝絵』に収録された意味とは何なのでしょうか。未だ夢想に過ぎませんが、出家以前の内親王が内裏に火災を呼ぶ「火宮」と誹謗されていたこと、同書執筆の時期と内親王の受戒の時期がほぼ重なっていること、菩薩受戒が「仏ノ位ニ入ハジメノ門」とされていることなどからすると、祟る樹木から観音へ、マイナスからプラスへの鮮やかな転換にこそ意味があったように思われます。壁画を導き手として仏の姿を観ようとした西域の僧のように、尊子内親王も、下20に付された絵を頼りに好相を得ようとしたのかも分かりません。
以上、史料の羅列のみに終わった発表でしたが、参加者にはおおむね好意的に受けとめていただき、受戒作法のさらなる分析、朝鮮の事例の探究など様々な課題をいただきました。ありがとうございました。また、この内容を練っている最中、仏教大博士課程の舩田淳さんの紹介で、「長谷寺縁起」の権威ともいうべき藤巻和宏さんとも知り合いになりました(ブックマークもしているhp「相承・密奏・顕現」を参照)。メールのやりとりのみでまだお会いしたことはないのですが、ぜひ直接ご教示を賜りたいものです。
なお、次回の『三宝絵』研究会では、聖徳太子信仰の研究で知られる藤井由紀子さんが、私と同じ下20を異なる角度から分析してくださるそうです。私は縁起の文脈から意図的に逸脱してしまったので、藤井さんがそのあたりを厳密に押さえてくださるとすればありがたいことです。今から次回の議論が楽しみです。
次回は、今のところ予定は入っていませんので、参加できるかと思います。
『三宝絵』下巻20話は、長谷寺縁起を研究対象とした時から数え10年近く馴染んできた話ですが、その背後にあるものには全く考えが及ばず、単に“長谷寺縁起類の原初形態”としてしか見ておりませんでした。中世における展開を核として研究していたとはいえ、起源探求を軽視していたことを恥じるばかりです。
種々の漢籍に共通するモチーフが見られるという御指摘は、非常に重要な成果であると思われます。漢籍に弱い私には、とうてい見つけ出せなかったことでしょう。また、木鎮め執行者の存在を背後に想定するという視点は、とても新鮮でした。
今度お会いしたときにでも、色々とお話ししたいと存じます。
藤巻さんのご論考、長谷寺縁起の見取り図を描くうえで、本当に勉強になりました。学位論文のご刊行を心待ちにしております。長谷の専論としては、逵日出典さん以来の大著ということになりますね。
実は逵さんにも院生時代からお世話になっていまして、「早く神仏習合論を完成させなさい」と叱られているのですが、この報告が論文になればまたご恩返しができるかなあと思っています。
W大には来年度も出講させていただきますので、またどうぞよろしくお願いいたします(私の行く時間帯は、前田雅之さんや原克昭さんと重なっているようで、お二人の議論する声がいつも講師室に響いています)。
博論刊行はずいぶん前に決まっていたのですが、ズルズルしていて遅れる一方。その上、昨秋の長谷寺調査で、長期にわたり行方不明になっていた重要資料が出てきちゃったものですから、ますます収拾がつかなくなってしまいました。でも、そんなこと言ってるとキリがないので、今年中には出したいと思います。
逵氏には、8本目の論文までは抜刷を送っていたのですが、まったく返事をいただけないようなので、送るのをやめてしまいました(^^;)。
W大、こちらこそよろしくお願いします。曜日は同じですが、時間帯が違うんですよね。前田・原両氏のいる時間ですか。あの二人、さぞかし楽しそうに議論してるんでしょうね。