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仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

GW最後の闘争

2006-05-17 13:28:41 | 議論の豹韜
6~7日というGW最後の土日、いろいろな場所へ出現するために、やむをえず強行軍のスケジュールを組みました。

まずは土曜日。古代文学会連続シンポジウム〈古代文学研究の最前線〉の2回目、「霊性論―霊魂の世界性について―」へ出席しました。報告は、安藤礼二さんと津田博幸さん。遅刻したため安藤さんの発表は聞けませんでしたが、論理的には理解しえない文学のあわいを霊性の問題として捉えなおす、津田さんの刺激的な議論は拝聴。ただ、近年の歴史の物語り論でもテクストの外部へそうした役割がふられたように、霊性が万能のブラック・ボックスになってゆく危険性が見え隠れしていました。個人的には、霊性論は、社会や共同体を相手にしてきた従来の宗教学、人類学が振るい落としてきた、神的なるものと主観的セルフとの繋がり、葛藤を対象化するために提起されたと考えています。ですから、世界性や普遍性をテーマとする場合、「誰がみすえたものなのか」をちゃんと措定しておく必要があるでしょう。その点今回は、報告にも質疑応答にも、多少の混乱があったようにみえました。ただそれにしても、古代文学会の熱気と議論の奥深さはいつもながら。安藤さんと岡部隆志さんのやり取りなど聞き応えがありました。
例会終了後は、中澤さんと私の発表するシンポ第3回、「環境論―動植物の命と人の心―」についての打ち合わせがありました。対論の鍵は後ろめたさと快楽。人間が他の生命を犠牲にするとき、後ろめたさを感じるのか快楽を覚えるのかという、およそ歴史学ではアプローチしえないような難問です。中澤さんも私も、「人間は罪深いものだ」という点ではベクトルが一致しているのですが、中澤さんがさらに人間をラディカルに捉えてゆくのに対し、私はどこかに希望を見出そうとしてしまうようです(宗教者ですから)。
それにしても、以前このブログでも触れた、対称性社会の理想化は問題視したいですね。神話にも歴史があり、決して無時間に閉じられてはいません。禁忌はやぶられて破綻が訪れます。だとすれば〈対称性〉とは何なのでしょう。対称的な両項は置換可能であっても、そのものとして実体化されており、関係は対立的に固定されているのではないでしょうか。だとすれば、関係を創出する分節のあり方自体を、問わなければならないように感じます。まあ、中沢新一の議論への理解もまだ浅いので、もう少し勉強してみましょう。

さて、実は7日も午後からシンポの勉強会。古代文学会の主要メンバーが、中澤さんと私の研究を分析してくださるというので、ぜひにと参加を表明しました。その前に、この日で終了となる歴博の企画展「日本の神社と祭り」を観るため、6日夜は妻と西船橋の三井ガーデンホテルに宿泊、ゆっくり休んで?早朝の佐倉に到着しました。
展示室では、最終日ということもあり、責任者の新谷尚紀さん自らが解説に立たれていました。「隔絶したキリスト教の神に対し、日本の神はより身近な存在。だから食事や着物、調度品を差し上げるのです」と、(実は)かなり突っ込んだ説明。そういえば先日の研究集会でも、〈人格神化〉の過程が話題に上っていました。食堂では、研究会をご一緒している小峯和明さん、山口えりさんともお会いしましたが、お二人とも家族連れでいらっしゃいっていた様子。研究者の家庭が交錯する休日の博物館……という感じですが、そういえばこちらも家族連れなのでした。

ランチの後は、そのまま帰宅する妻と別れて新宿へ。歌舞伎町のルノワールで、再び古代文学会の方々と合流しました。担当の飯泉健司さんが手際よくまとめてくださったレジュメを前に、中澤さん、岡部さん、猪股ときわさんらとあれこれ意見交換。相手が動物にしても植物にしても、人間が暴力的に領域を侵犯してゆくことに変わりはないので、「戦争論とどう関わらせるか」という議論も出ましたね。相手の命を奪っているという実感が除去されることで、ヒトの残酷さは増してゆく。当たり前のことですが、日本が賛成した戦争で死傷した人の痛みを共有できない私たちと、場で鉄針を打ち込まれる豚の悲鳴を聞けない私たちとは、同じ地平に立っていることになります。私たちは、他者のポジションに対する想像力をどこまで持つことができるのか。それが人間でなく、存在論的に異なる動物、植物の場合はどうなのか……。自分のなかの不明瞭だった部分も整理でき、何を話すべきかもまとまってきました。皆さんありがとうございました。また、環境と心性に関するアプローチの先駆者・中村生雄さんが、これを契機に古代文学会に参加、私たちの環境/文化研究会にも、岡部さんと一緒に出席してくださることになりました。お二人はいうまでもなく、かの供犠論研のメンバー。岡部さんは武田比呂男さんと同じく、平野仁啓さんのお弟子さんでもあります。以前、シャーマニズムの研究会〈ふの会〉でご指導をいただいていました。歴史学の閉鎖性を批判しつつ、無意識下ではその方法を擁護していた私のアイデンティティを、完全に?打ち砕いた研究会です。かなり苦しかったですが、強く印象に残ってもいます(何度目かの飲み会のとき、「エコロジーも究極的には人類の生存を優先する欺瞞に突き当たる。苦しいね」と仰っていたのを想い出します)。緊張しますが、これからますます面白くなりそうです。

写真は、3月に購入した睡虎地秦簡の史料集。これに載る「日書」甲種に書かれた災禍への処方箋のひとつ、「髪を解く」が樹木伐採と関係するんですよね。
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