仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

国会議事堂を「観」にゆく(4):群れへの忌避

2015-07-21 23:50:50 | 国会議事堂を「観」にゆく
春学期最後のプレゼミとゼミを終え、臨時の教授会のあと、研究室で木曜の生涯学習の授業を準備。書類が溜まってきたが、木・金で一気に片付けねばなるまい。同僚の先生から11月のシンポジウムへのお誘いがあったが、今年は授業も原稿も過剰にあるので、さてさて、どうしたものか。いろいろ考えあぐねているうち、22:00になったので、例のごとくに国会議事堂へ出発した。

今夜は、赤坂擂り鉢へ下りず、麹町台地の中心を半蔵門方面へ抜けて、台地の縁を迂回してゆくルートを選択。時間はかかるが、アップダウンは少ないので、存外に楽かもしれない。国立劇場の前を通ると、9月からの演目は「妹背山女庭訓」、入鹿誅滅の場面までしっかりやってくれるらしい。浄瑠璃はみたことがあるが、歌舞伎は未見なので、行ってみるかな。
そうこうしているうちに、正面から議事堂を捉えられる場所に入った。やはり、かつての海岸線からだと、台地上の議事堂は大きく聳えてみえる。それなりに視覚的権威を強調した設計になっているようだ。ふむふむと、通りをまっすぐに登って正門前交差点に来てみたが、今日も抗議活動はお休み。学生たちも、テストやレポートに忙しい時期かもしれない(農繁期に兵が解散するようなものか)。人影はというと、60~70代の女性が2人、何やらお話をされている横に、予想どおり、くだんの求道者が座っていた。今日は、安倍首相の顔にハーケンクロイツが重なった写真を、しっかりと身体の正面に掲げている。何度か目が合い、話しかけてみようかと迷ったが、もう少し距離を詰めるべきかと諦めた。お互い、不審者にみえないこともない。
ところで、何人かの方からコメントをいただき、仲間うちでも意見交換ができたので、誤解を恐れずにぼくのスタンスを書いておく。とにかくぼくは、「群れ」のなかに入るのが嫌いなのだ。デモの必要性、連帯の必要性、多くの人々を喚起してゆく必要性は、もちろん認識している。だから、そうした活動に参加をしている仲間たちを批判はしないし、むしろ心から応援したい。しかし、抗議活動の理想としては、やはり、ひとりひとりが本当に自分に合った表現を探し出し、それぞれ独自の方法で展開をしてゆくのが望ましいと考えている。数の多さを振りかざす権力に対して、数を集めて対抗してゆく選択はしたくない。澤地久枝さんの提案したコピーを一斉に掲げるといったパフォーマンスがあり、知人からお誘いのメッセージも寄せられてきたが、(へそまがりなのでご容赦願いたいが)全体主義とどこが違うのかと思ってしまう。掲げるのであれば、それぞれが、それぞれの思いを言葉にすればよい。若者たちが政治参加を表明し、運動も盛り上がってきているので、それに対し水を差すことはしたくない。しかし、みんながみんなそちらの方向へ吸い寄せられてゆくのは、何かが違う気がする。ゆえに、棹を差す発言も絶対にしない。もしこうした抗議活動が成功し少し状態が落ち着いたら、運動の長所や短所、課題や問題点を落ち着いて検討してゆくこともできるだろう。また、抗議活動がまったくの失敗に終わり一面焼け野原のようになってしまっても、いずれ「何が悪かったのか」検証する機会が生じるだろう。そのときのために、弱く小さな声ではあるけれど、何らかの違和感を表明しておきたいのだ。大多数が流れる方向とは、異なる選択肢を模索しておきたいのだ。「国会議事堂を『観』にゆく」は、そうした試行錯誤の場として位置づけておきたい。

適度に風もあり、気持ちもよかったので、帰りも同ルートで四谷まで戻ってきたが、往復90分も費やしてしまった。さすがに少し疲れたな。しかし国会議事堂、このアングルからみると、鎧兜を着けた武人にみえるのだな。そういうデザインなのだろうか。
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