仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

国会議事堂を「観」にゆく(5):そもそも、なぜ国会議事堂が

2015-07-25 22:31:21 | 国会議事堂を「観」にゆく
ちょっと遅れてのポストになるが、水曜日の国会議事堂である。この日も、翌日の生涯学習の授業の準備を終えて、22:00からの深夜行。しかしどうにも体調がよくなかったために、ズルをして往きは地下鉄で。いつもより早く議事堂前に着いたが、今夜は求道者がいない! あれれ、今日は休みかなと思ってしばらく待っていると、南西の方角から横断歩道を渡ってくる彼の姿が。いつものプラカードを手提げに入れ、いつものとおり交差点の石垣に腰掛けて、独り安倍首相退陣を体現していた。その姿を眺めつつ、こちらは、何やら安心して帰途に着いた。

ところで、この1週間議事堂を「観」ながら考えて、幾つか気がついたことがある。前にも書いたとおり、この国会議事堂は、古代王宮を思わせるような立地を利用して、視覚的に権威を表現する形式で建てられているといってよい。しかしこの民主主義の現代日本にあって、「国民」の代表が集う議会の場が、そのような建築様式で許されるものだろうか。やはりこれは、帝国日本の負の歴史遺産といっても過言ではない。戦後日本のスタートともに解体し、「国民」のひとりひとりが気軽に集合しうるような、国民主権を体現する建築物に改めるべきだったのではないだろうか。実際、1954年の東宝映画『ゴジラ』では、戦争の惨禍を象徴するゴジラが議事堂を破壊する場面があり、その折劇場内は拍手喝采に包まれたという逸話が残っている。このハナシが事実とすれば、当時、戦争を抑止できなかった国会に対する怨嗟が、人々の間に渦巻いていたといえるだろう。「歴史的建築物を破壊など」と躊躇する向きには、帝国日本の惨禍を後世に伝えてゆくための負の歴史博物館として、明確な意図をもって残してゆく道を提案したい。

なお、ゴジラが国会議事堂を破壊してから踵を返す「1954年のターン」については、以前から多くの評論が発表されてきた。川本三郎は、第二次大戦の死者の集合体であるゴジラも皇居は踏みつぶせず、未だ天皇制の呪縛は強かったと論じた。また赤坂憲雄は、皇居に住まう天皇はもはや現人神ではなく、英霊を見捨てアメリカに従属する存在になってしまったためだ、と指摘した。いずれも優れた考察だが、堀田善衛の『方丈記私記』で描かれた、慰問に訪れた天皇に土下座して詫びる焼け跡の人々を想起するとき、川本説の方が当時の実感に近かったのではないかと思えてくる。恐らく、1954年のゴジラがもし皇居に足を踏み入れていたら、東京の真ん中に空いた巨大な穴のなかへ、ずぶずぶと引きずり込まれ断末魔の悲鳴を上げていたことだろう。彼は、その危険を野獣の本能で察知したのだ。いま、安倍政権を憎悪するあまり天皇や皇后の民主的思想を喧伝する人々は、ぼくには、同じ穴のなかへ引きずり込まれつつあるようにみえる。
もともと、日比谷周辺は地盤が悪いのである。自分の足もともしっかり確認しておきたい。
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