仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

国会議事堂を「観」にゆく(2):灯台としての議事堂?

2015-07-19 03:29:22 | 国会議事堂を「観」にゆく
久しぶりに、『産経』(某タカ派新聞ではなく、6世紀頃の中国医書)などを軸に「臨床歴史学」を謳った特講を終え、敦煌文書の観音霊験譚を読み込んだ院ゼミを終え、知人のFさんの話を研究室で伺ってから、22:00頃、のこのこ歩いて国会議事堂前へ。台風の影響で未だ風は強かったが、湿度はかなり高く、喰違見附から紀国坂を下り(狢には会わずに済んだ。いや、現在の狢は永田町にいるのかな?)、赤坂見附から平河町へ登ってゆく間には、すでにかなりの汗をかいていた。自民党本部を過ぎたあたりから、周囲の建物に反響しつつ、かすかにスピーチの声やシュプレヒ・コールが聞こえてくる。今日は、そのまま国会図書館前を通過し、議事堂の前から外務省、首相官邸側へと大きく迂回することにした。

憲政記念館前から正門側へ出ようとすると、警官に呼び止められ、「集会に参加されますか。こちら側を奥へ進まれますと行き止まりになりますので、向こう側の歩道へ出てお進みください」と非常に丁寧に説明された。職務質問は何度か受けた経験があるし、とある事件に巻き込まれ?事情徴収を受けた際、自分の話していない言葉で調書が作られてゆく恐ろしさも味わったことがある。しかし、知人にも警察官がいるし、檀家さんには警視庁のお偉いさんもいる。父は『赤旗』を定期購読するリベラル知識人だったが、同時に地域の「有力者」として長く交通安全協会の会長を務め、警友会にも所属していた。警察機構は国家の暴力装置だが、警官ひとりひとりが嫌いなわけでもない。知らず彼らの会話に耳を傾けていると、「○○って叫んでるの、どういう意味ですかね?」「知らん」という声が聞こえてくる。○○は、「ホニャホニャラン」といった感じで、何をいっているのかよく分からなかったが(本人もきちんと再現できていなかったと思う)、しばらくして入ってきた学兄中嶋久人氏のポストに、「警官が『ノーパサランってどういう意味っすかね?』と立ち話をしていた」との情報があった。この情報を流した人物がぼくの隣にいたわけではなかろうが、そういえば「ノーパサラン」と云おうとしていた気がする。きっと、同じような会話がそこかしこでなされていたのだろう。戦争反対を表明する抵抗の合言葉として使われているのだろうが、しかし、スペイン内戦のようなトラウマ的事態が生じることは誰も望んではいまい。警官が、運動側の言葉に関心を持ってくれるのはいいことだろう。

正門前へ出ると、時間が遅かったからかもしれないが、今日は割合に行儀のよいスピーチ、抗議行動となっていた。60代らしき女性の姿もある。しばらく集会の様子をみて、何度も行き止まりにぶつかりつつ、南側へ回り込み、外務省から衆議院南門側へ移動していった。写真は、そこから「観」た今日の国会議事堂で、一昨日よりははっきりした姿で屹立している。それにしても、国会周辺を回っているといつも思うのだが、時々自分がどの場所にいるのか分からなくなることがある。正門前広場から南北へ伸びる道が斜めについているので、方形に回っているつもりが別の方角へ連れて来られているからか、あるいは議事堂の顔がどこからみても同じに映るからか。麹町台地から八重洲の海岸線へ落ち込む、ちょうどへりの部分に建っている形になるが、それに規制されたためか微妙に南北軸がずれている。正門前通りから議事堂を取り囲む道もすべて放射状に傾斜しており、どこかに人間の地理的感覚を狂わせる要素があるのかもしれない。

古来、「王宮」には視覚的に権威を誇示しうるような、種々の趣向がこらされてきた。奈良時代など、各地から調を担って幅10メートルに及ぶ石敷の直線道路を歩いてきた(このこと自体、支配の身体化といわれている)運脚夫たちは、平城京の入口たる壮麗な羅城門に立って、幅80メートル、長さ3.7キロに及ぶ朱雀大路が一直線に伸びる遙か彼方に、平城宮が展開しているさまを目の当たりにしただろう。羅城門と平城宮内裏との高低差は、25メートルほど。彼らは、初めてみる光景に圧倒され息を呑んだかもしれない。以降、列島における権力の府は、その実用性とは無縁の部分で、被支配者を睥睨しうる高みを目指してゆく。近代日本においては、皇居はそのタブー化(バルトが指摘した〈穴〉である、「王宮」といううより「神宮」に近い)により視覚とは異なる権威を発揮したので、伝統的な威圧的建築は他の公的機関に譲られることになった。国会議事堂はその最たるものだろうが、そもそも民衆の代表が集う議論の場が「王宮」の系譜に連なるというのは、大きな矛盾を抱えているといえよう。しかもこの「王宮」は、関東大震災の惨禍に耐えたとはいえ、地理的にみるとやや不思議な場所に立地している。かつてこの地域は、日比谷入り江が深く入り込んだ海岸だった。もともと官庁をまとめて建設する予定だった練兵場跡は、あまりにも地盤が悪かったため公園化(日比谷公園)し、やや麹町台地へ上がった西側に裁判所、大蔵省、通産省、文部省などの建物を建てていったらしい。首都がこのような海岸至近にある国は珍しく、そのため多くの災害リスクを抱え込んでいるというわけである。この地域のデジタル地形図などをみてみると、議事堂はほどんと灯台のような位置どりだ。

海岸で漁をする人々、ぬかるむ低湿地にぬかづく人々、それを台地のへりに立つ神宮、王宮が睥睨している。少々奇妙の感を拭えない想像図である。灯台の発するあかりが誤った示唆を投げかければ、闇夜の海に浮かぶ船は危地に赴くことになるだろう。
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