8日(土)は、朝から大分湾周辺を散策。現在校正中の、環東シナ海地域における都邑水没譚の言説史に関し、最後に触れた列島の事例のなかでも著名なもののひとつ、瓜生島の痕跡を踏査するためだ。これは、豊府の外港として国際交易の拠点であった「沖の浜」が、慶長元年(1596)閏7月の文禄(慶長)大地震と、それに伴い発生した津波により実際に水没した(液状化により水底へ滑落した?)史実をもとに、架空の島の物語へと造り替えられていった伝説らしい。今回は、実際に沖の浜にあったという縁起を持つ瓜生山威徳寺(どうもこの寺院が伝承の発生源と思われる。寺院や僧侶が物語りの担い手であることは、日本近世に限らない普遍性を持つ)、恵比須神社などを回り、現在の別府湾の景観を写真に収めていった。しかし実は、今回の主目的は「踏査」ではない。この瓜生島関連の最古の記事は、元禄2年(1689)の『豊府聞書』という書物にあるのだが、同書は原本はもちろん写本も一切なく、後にその内容を引き継いで再構成した『豊府紀聞』によるしかない、というのが学界の常識だった。だが、すでに1955年に久多羅木儀一郎氏が写本の存在を報告しており、以降の研究は完全にこれを見落としたまま、某代表的研究者の見解を無批判に踏襲してきてしまったのである。それが最近、郷土史家のH氏が写本の存在を突き止めて翻刻、私家版文献として大分県立図書館に寄贈したとの情報を得たので、とにかくそれを確認しに行ったわけだ。そして、なんとまあ今回の出張は神仏の加護を受けているのか、思いもかけない僥倖を得ることになったのである。
図書館で地域資料室の担当者とやりとりをし、必要な文献を得て複写や借り出しの申請書類を書いていると、誰か話しかけてくる方がいる。先ほどの担当者との会話を聞いていたとのことだったが、何とそれが、『豊府聞書』の写本をみつけだしたH氏だったのである。狂喜して種々ご教示を仰いだところ、氏が確認されている写本は現在2種、1つは大分藩家老増澤家蔵(先の久多羅木論文にも言及)でマイクロフィルムが大分市歴史資料館に存在、もう1つはもともと由学館所蔵であったが、いまはなんと灯台もと暗しで東京にあるという。また同図書館で調査するうち、H氏も知らなかった『豊府聞書』の写本情報も発見できた。H氏と今後の情報交換を約束して、即座に大分市歴史資料館へ移動。学芸員のN氏にご協力いただき、増澤近統家文書に含まれる『聞書』の紙焼きを閲覧でき、瓜生島関連の記事や、『紀聞』にない跋文などの複写データを、メールで送っていただけることになった。この間、移動も含めてわずか3時間ほど。最小限の努力で最大限の成果を得ることがかない、狂喜乱舞である。H氏には心より御礼申し上げる。それにしても、よりによってぼくが図書館を訪れたその時間に、H氏も同じ地域資料室に詰めているとは…氏が同室の〈主〉のようになっているのかも分からないが、とにかくありがたいことである。いずれ、写本をすべて比較し、H氏の翻刻を校訂しなければならないが、とりあえずはこのことをしっかり学界へ喧伝する必要がある(H氏と約束もしたことだし)。今回の論文では日本の事例を中心に扱ってはおらず、いつものように字数削減に苦しむありさまだったが、一応脚注で補足しておいた。
この日はその後、16:00頃の新幹線で京都へ移動。20:00過ぎから、斎藤英喜さんはじめ仏教大学斎藤ゼミの皆さん、盟友のひとり師茂樹さん、fbで知り合った人類学者の原尻英樹さん、若い友人のMY君らが忙しいなか集まってくださり、うちのゼミ生やOBも数人駆け付けて、2:30頃までの大宴会となった。ずいぶん久しぶりに会ったMR君ら(すげえ論客になっていた!)、若手研究者の話もいろいろ聞き、大いに刺激を受けたのだった。
翌9日(日)は、4時間かけて、じっくり民博の展示を鑑賞。さすがにクタクタになり、予定を切り上げて早めに帰途についた。多くの方に支えられたサバティカル最後の出張も、どうやらこれにて終了。この日は11回目の結婚記念日だったこともあり、武蔵境駅で妻と落ち合って外食、日曜のため家族連れが多く目的の店に行けなかったので、また後日あらためてということにして簡単に済ませた。しかし、旅の間ほとんど固形物を口にしていなかったので、久しぶりの普通の食事に胃と腸はフル回転したものの、すぐに満腹となってしまった。次の日、体重を測ってみると、この5日間で4キロ近くの減量に成功?、体脂肪率は1桁に突入。まあしばらく、これを維持してゆこうか。
※ 写真は、別府湾周辺で撮影した六地蔵塔婆。列島のなかでもほぼ九州に集中しており、半島から伝わったものかもしれない。
図書館で地域資料室の担当者とやりとりをし、必要な文献を得て複写や借り出しの申請書類を書いていると、誰か話しかけてくる方がいる。先ほどの担当者との会話を聞いていたとのことだったが、何とそれが、『豊府聞書』の写本をみつけだしたH氏だったのである。狂喜して種々ご教示を仰いだところ、氏が確認されている写本は現在2種、1つは大分藩家老増澤家蔵(先の久多羅木論文にも言及)でマイクロフィルムが大分市歴史資料館に存在、もう1つはもともと由学館所蔵であったが、いまはなんと灯台もと暗しで東京にあるという。また同図書館で調査するうち、H氏も知らなかった『豊府聞書』の写本情報も発見できた。H氏と今後の情報交換を約束して、即座に大分市歴史資料館へ移動。学芸員のN氏にご協力いただき、増澤近統家文書に含まれる『聞書』の紙焼きを閲覧でき、瓜生島関連の記事や、『紀聞』にない跋文などの複写データを、メールで送っていただけることになった。この間、移動も含めてわずか3時間ほど。最小限の努力で最大限の成果を得ることがかない、狂喜乱舞である。H氏には心より御礼申し上げる。それにしても、よりによってぼくが図書館を訪れたその時間に、H氏も同じ地域資料室に詰めているとは…氏が同室の〈主〉のようになっているのかも分からないが、とにかくありがたいことである。いずれ、写本をすべて比較し、H氏の翻刻を校訂しなければならないが、とりあえずはこのことをしっかり学界へ喧伝する必要がある(H氏と約束もしたことだし)。今回の論文では日本の事例を中心に扱ってはおらず、いつものように字数削減に苦しむありさまだったが、一応脚注で補足しておいた。
この日はその後、16:00頃の新幹線で京都へ移動。20:00過ぎから、斎藤英喜さんはじめ仏教大学斎藤ゼミの皆さん、盟友のひとり師茂樹さん、fbで知り合った人類学者の原尻英樹さん、若い友人のMY君らが忙しいなか集まってくださり、うちのゼミ生やOBも数人駆け付けて、2:30頃までの大宴会となった。ずいぶん久しぶりに会ったMR君ら(すげえ論客になっていた!)、若手研究者の話もいろいろ聞き、大いに刺激を受けたのだった。
翌9日(日)は、4時間かけて、じっくり民博の展示を鑑賞。さすがにクタクタになり、予定を切り上げて早めに帰途についた。多くの方に支えられたサバティカル最後の出張も、どうやらこれにて終了。この日は11回目の結婚記念日だったこともあり、武蔵境駅で妻と落ち合って外食、日曜のため家族連れが多く目的の店に行けなかったので、また後日あらためてということにして簡単に済ませた。しかし、旅の間ほとんど固形物を口にしていなかったので、久しぶりの普通の食事に胃と腸はフル回転したものの、すぐに満腹となってしまった。次の日、体重を測ってみると、この5日間で4キロ近くの減量に成功?、体脂肪率は1桁に突入。まあしばらく、これを維持してゆこうか。
※ 写真は、別府湾周辺で撮影した六地蔵塔婆。列島のなかでもほぼ九州に集中しており、半島から伝わったものかもしれない。