仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

天皇制を生きながらえさせるもの

2013-11-02 11:52:13 | 議論の豹韜
皇后の五日市憲法草案をめぐる発言(文書)が、さまざまなところで話題になっている。改悪へ盲進してゆく憲法論議を牽制する意図があったのは明白で、それ自体には個人の心情として非常に感銘を受けた。しかし同時に、天皇・皇室関係者の発言は、その内容の如何にかかわらず著しい政治性を発揮してしまうこと、天皇制の象徴権力が未だ社会に根強く機能していることに恐怖を覚えた。

以前、当時東京都教育委員会委員だった米長邦雄が園遊会に招かれ、天皇に「すべての学校に国旗を掲げさせ、国歌を斉唱させることが私の義務です」と述べたところ、「強制にならないようにするのが望ましい」と返されたときもそうだった。いわゆる右の人たちもいわゆる左の人たちも、みなこの問答を我田引水し、自分の政治的文脈に繋げて語ろうとした(それは、天皇制が機能し始めて以降の日本列島のなかで、さまざまな政治勢力が〈玉〉を奪い合い大義名分を得ようとした歴史の再現でもあろう)。とくに注意したいのは、左系の人たちが、この天皇の発言を歓呼して賞賛したことである。ぼくもいわゆる左系だし、現在の天皇・皇后が、平和主義者かつ民主主義者であろうと信じている人間である。心のなかでは天皇に喝采を送り、米長ざまあみろと叫んだものだ。しかし、天皇・皇室関係者の発言が政治的な意味で重みを持つことは、その内容によらず民主主義に逆行するベクトルを生じてしまう。天皇・皇室関係者の発言を政治的文脈において喝采することは、天皇制そのものを肯定してしまうこととイコールなのである。

今回の皇后の発言をめぐる言説情況も、同じ様相を呈してきている。これを受けて安倍内閣の方向性が変化すればいい、あわよくば退陣してくれないだろうかと思っている左系の人がいるかもしれないが、そのような事態の出来は、自分たちの掲げる政治的理想と正面から対立するものであることを自覚すべきだ。山本太郎議員の天皇への直訴など、そういう意味では、自分は天皇制肯定論者であると宣言したようなものである。アジア的生産様式論を持ち出すまでもなく、王を慕う気持ち、良き王に悪臣を糺してもらいたいと思う気持ちは、日本列島に生きる人々の心に根強く存在する(すなわち、歴史的に構築されてきた)。それが、天皇・皇室関係者自身へも暴力的に機能する天皇制を維持し、生きながらえさせているのだということを、もっと真剣に考えてもらいたいものだ(もちろん、王制賛成、君主制賛成という人もいるでしょうが、それはそれとして)。
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