く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ぐるっと南紀①> 自然の造形美「熊野・鬼ケ城、獅子岩」

2015年07月11日 | 旅・想い出写真館

【「花の窟」ご神体はそそり立つ高さ45mの巨岩】

 南紀を2泊3日の旅程で1周した。熊野から串本、すさみ、白浜、湯浅を巡って和歌山市へ。熊野灘に面した海岸線では鬼ケ城や獅子岩、橋杭岩など、荒波による自然の造形美に終始圧倒された。「トルコ記念館」「エビとカニの水族館」「南方熊楠記念館」などの訪問もようやくかなった。道成寺、興国寺、長保寺、紀三井寺、粉河寺……。これらの古寺巡りでは心が洗われた。

 鬼ケ城は大地震に伴う隆起と海食・風食によって造りだされた凝灰岩の大岸壁。洞窟や奇岩などが約1.2キロにわたって延々と続く。国の名勝・天然記念物。「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産にも登録されている。その昔、熊野の海を我が物顔に荒らし回って鬼と恐れられた海賊を、坂上田村麻呂が天皇の命によって征伐した――。鬼ケ城の名前はそんな伝説に由来する。

 

 洞窟や奇岩にはそれぞれユニークな名前が付けられている。「千畳敷」「猿戻り」「鬼の風呂桶」「神楽岩」……。幅1mほどの階段状の遊歩道が絶壁にへばり付くように続く。眼下はすさまじい音とともに繰り返し岩場に砕ける荒波。滑らないよう足元に注意しながら進む。観光客の多くは最初の「千畳敷」辺りで引き返すという。滑らないよう足元に注意を払いながら進む。目指すは1キロ先の弁天神社。ところが時折小雨が落ちてくる生憎の天候。結局、中ほどの「鰐岩」で引き返した。鬼ケ城の南方の海岸沿いには奇岩の獅子岩(上の写真㊨)が立つ。高さ25m。獅子が熊野灘に向かって吼えているように見える、というのが名前の由来。そう言われれば、そう見えなくもない。「日本のスフィンクス」とも呼ばれているそうだ。

 

 その獅子岩から少し南へ下った場所に鎮座するのが、これも世界遺産の「花の窟(いわや)神社」(写真㊧)。といっても本殿はなく、高さ45mの巨岩がそのままご神体となっている。その巨大さには圧倒されるばかり。日本書紀にも登場し、熊野三山信仰に先立つ日本最古の神社ともいわれる。毎年2月と10月の例大祭には花を飾り、舞を捧げて「御綱掛け神事」が行われる。本居宣長はその様子を「紀の国や花窟にひく縄のながき世絶えぬ里の神わざ」と詠んだ。緩やかに弧を描く七里御浜はアカウミガメの産卵上陸地。道の駅「紀宝町ウミガメ公園」ではアカウミガメ、タイマイなど子亀も含め7匹の海亀が飼育されていた。

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<ウキツリボク(浮釣木)> 赤と黄の花が愛らしい〝チロリアンランプ〟

2015年07月07日 | 花の四季

【ブラジル原産、アオイ科アブチロン属の半つる性常緑低木】

 アオイ科アブチロン属(イチビ属)の植物は熱帯~亜熱帯に100種以上分布する。そのうちブラジル南部原産で半つる性の「アブチロン・メガポタミクム」に、「ウキツリボク(浮釣木)」という和名が付けられている。ただ、一般には「チロリアンランプ」という名前のほうが広く親しまれている。

 花はその名の通り、小さなランタンを吊り下げたような形。和名の「ウキツリボク」は花の形を魚釣りのためのウキに見立てた。長さは5cmほどで、袋状になった赤い萼(がく)の先端から黄色の花弁が顔を出す。鮮やかな赤と黄の色のコントラストが目にも鮮やか。その花冠からさらに雄しべが花柱を包み込んで突出する。

 花期は長い。初夏から晩秋まで次々と咲き続ける。熱帯性のアブチロンの仲間の中では寒さにもなかなか強く、関東以西なら戸外での冬越しも可能。繁殖力も旺盛。発根しやすいため挿し木で容易に増やすことができる。この写真を撮らせてもらった庭の持ち主の男性は「特に梅雨のこの時期が挿し木に最適」と話していた。

 同じ仲間の「アブチロン・ストリアツム」は「ショウジョウカ(猩々花)」という和名を持つ。葉に黄色の斑(ふ)が入る「キフ(黄斑)アブチロン」はその園芸品種。ウキツリボクとショウジョウカの交配によって生まれた「ヒブリドゥム」からは多くの園芸品種が生まれている。花の色は多彩で、花は傘状に広がる。大輪のものもある。単に「アブチロン」という場合、このヒブリドゥムとその仲間を指すことが多い。

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<奈良市埋文センター> 赤田横穴墓群出土の円筒棺と亀甲形陶棺を復元公開

2015年07月06日 | 考古・歴史

【平底の縦置き円筒棺の出土は全国で初めて】

 奈良市埋蔵文化財調査センターで夏季発掘調査速報展「赤田横穴墓群の陶棺2」(8月28日まで)が始まった。昨年の陶棺5基の公開に続く第2弾。今回は新たに復元作業が完了した9号墓出土の円筒棺2基(写真㊧)と亀甲形陶棺1基(㊨)を展示中。円筒棺は蓋付きの円筒形で、奈良県内では初めての出土。しかも平底で縦置きとみられる円筒棺は全国でもこれまでに出土例がないという。

 

 赤田横穴墓群は近鉄あやめ池駅と西大寺駅のほぼ中間のすぐ北側に位置する。陶棺と呼ばれる素焼きの棺に遺体を納めて埋葬した横穴墓が多数見つかっており、これまでに1~9号墓の発掘調査を行ってきた。造られたのは6世紀後半から7世紀中頃にかけて。今回展示対象の9号墓は出土した土器から7世紀中頃に造られたとみられる。

 3つの棺が納められていたのは長さ5.7m、幅2.5mの墓室内。円筒棺は大小2つで、大は口径29.5cm、高さ85.1cm、小は口径26.6cm、高さ67.4cmだった。いずれも赤褐色の素焼きの土師器。底は平たく、小形品は斜めに立った状態で見つかった。蓋受け部分には蓋を固定するための紐穴とみられる小さな穴が8~20cm間隔で設けられていた。(下の写真は㊧9号墓墓室内の出土状況、㊨同時に見つかった土器類や耳環などの出土品)

 

 亀甲形陶棺は別々に焼き上げた棺蓋(かんふた)と棺身(かんみ)から成る。棺身の大きさは長さ117cm、幅48cm、高さ44cmで、8つの円筒形の脚で支えられる。棺蓋を再現できたのは片側だけ。左右に円柱状の小さな突起を持つ。こうした突起が付いた亀甲形陶棺は岡山県北部の美作地方で多く出土例があるが、奈良県内では初めて。同センターは「陶棺の2大製作地だった大和北部と美作の間で交流があったことを示すもの」とみる。

 3つの陶棺は大人を葬るには小さすぎる。7世紀中頃の陶棺は小型化の傾向にあったため、単純に子ども用とみることもできないという。7号墓からは鉄釘が出土している。木棺に埋葬した後、陶棺に納めたらしい。そのため同センターは9号墓の陶棺も埋葬後、改めて骨だけ納めるための再葬用容器として使用されたのではないか、と推測する。

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<フウラン(風蘭)> 芳香を放つ純白の可憐な花 別名「富貴蘭」

2015年07月05日 | 花の四季

【古典園芸植物、江戸後期の将軍家斉の時世に一大ブーム】

 日本から朝鮮半島、中国にかけて分布するラン科フウラン属の宿根草。着生ランの一種で、細い気根を出して樹木の幹や渓谷の岩場などに着生する。日本では関東南部から西日本、沖縄まで広く分布する。しかし、森林の伐採や園芸採集などによって自生種は急減、環境省のレッドリストには絶滅の危険が増大しているとして絶滅危惧Ⅱ類に分類されている。

 7月頃、葉腋(葉の付け根)から花柄を伸ばし純白の花を付ける。花弁は長さ1cmほどの線状。距(きょ)と呼ばれる管が後方に湾曲して長く垂れ下がる。「風蘭」の名はその可憐な花が微風にもそよぐことからか。花は芳香を放つ。代表的な古典園芸植物の1つで、「富貴蘭(フウキラン)」とも呼ばれる。文献での初出は江戸時代前期の1664年に発行された『花壇綱目』(水野勝元著)。その30年後、1694年発行の貝原益軒著『花譜』には「桂蘭(けいらん)、一名は風蘭。土なくして生ず……」などと紹介されている。

 江戸時代後期には文化・文政期(1804~30)を中心に一大ブームが巻き起こった。時の11代将軍徳川家斉が大のフウランマニアで、斑(ふ)入りなど珍しい品種の収集に余念がなかった。そのため大名たちは珍品探しのためお国の藩中にお触れまで出す始末。参勤交代の折、駕籠(かご)にフウランを吊るして江戸に向かう大名もいたそうだ。その結果、江戸城の庭に設けられた家斉自慢の〝風蘭棚〟には珍品・貴品が200種も並んでいたとか。1855年には『風蘭見立鏡』というフウラン番付表まで発行された。

 

 フウランを愛する人は今も多い。愛好家でつくる「日本富貴蘭会」は今年5月、東京で「美術品評全国大会」を開いた。今年で66回目。7月10~11日には東京・上野公園の上野グリーンクラブで「彩と香の富貴蘭展示即売会」も開く。奈良県五條市の登録有形文化財「藤岡家住宅・うちのの館」では1日から地元の愛好家が丹精込めて育てたフウランを展示中(写真)。新潟市食育・花育センターでも18~20日「彩りと香りの富貴蘭展」が開かれる。「風蘭や大木をめぐる白き蝶」(岡本癖三酔)。

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<十津川村点景③> 秘境! 熊野三山の奥の院「玉置神社」

2015年07月04日 | 旅・想い出写真館

【杉の巨樹群は県指定天然記念物、「神代杉」は樹齢3000年】

 玉置(たまき)神社は大峰山脈の南端に位置する玉置山(標高1076m)の山頂近く、標高1000m付近に鎮座する。十津川温泉郷から「一の鳥居」そばの玉置山駐車場まで車で40分近く。さらに山道を20分ほど歩いて、ようやく神社本殿に着いた。まさに山懐に抱かれたという感じ。霧雨で煙っていたが、それがかえって霊気漂うようで古社の荘厳な雰囲気を一層醸し出していた。

 創建は第10代崇神天皇の時代の紀元前37年ともいわれる。古くから熊野・大峰修験道の霊場の1つとして栄え、「玉置三所権現」「熊野三山の奥の院」などと呼ばれてきた。平安時代を中心に多くの天皇が行幸参拝し、修験道の開祖・役の行者や弘法大師もここで修行したといわれる。2004年には世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」の吉野~熊野を結ぶ「大峯奥駈道」の構成資産の1つとして認められた。

 広さ約3万㎡という境内は杉を中心に鬱蒼とした森で包まれ、杉の巨樹群は奈良県の天然記念物に指定されている。神社を訪ねたのも主に杉の老樹・巨樹に一度会いたいとの思いからだった。本殿のすぐそばに推定樹齢3000年、幹周8.5mという「神代杉(じんだいすぎ)」(写真㊧)が屹立していた。何本もの枝が天をつかむかのように伸び、葉もしっかり付いていた。その手前には根元近くから二股に分かれた「夫婦杉」(㊨)があった。

 

 最大の杉は「大杉」で、幹周が11m、高さは50mもあるという。他にも「常立杉(とこたちすぎ)」や「磐余杉(いわれすぎ)」「浦杉」など、名前が付けられた巨樹が境内のあちこちに立つ。温暖多雨の気候によって育まれてきたのだろう。江戸時代末期建設の社務所内部は約60枚の杉の一枚戸で仕切られ、その1枚1枚に狩野派の絵師による極彩色の花鳥画が描かれているという。その見学も目的の1つだった。ところが、巨樹に圧倒されるうちにすっかり失念し、不覚にも気づいたのは翌日の帰宅直後のことだった。

 

 十津川村に別れを告げた後、帰途に天川村のみたらい渓谷(上の写真㊧)、洞川(どろかわ)温泉街(㊨)、龍泉寺(下の写真㊧)、下市町の丹生川上神社下社(㊨)などに立ち寄った。洞川温泉は役の行者の高弟「後鬼」の子孫の里とも伝えられ、古くから大峰山を目指す山伏や登山者たちでにぎわう。龍泉寺は約1300年前、役の行者によって開創された古刹。登山者が必ず訪れるお寺で、門前には「大峯修行供養碑」やいくつもの登山記念碑が立っていた。

 

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<十津川村点景②> 「野猿」爽快! 青い清流と緑の山々 360度の眺望を独占

2015年07月03日 | 旅・想い出写真館

【〝人力ロープウエー〟自力で引き綱を手繰り寄せながら対岸へ】

 「野猿(やえん)」は十津川村特有の交通手段。川の上に張られた2本のワイヤロープにぶら下がる木製の「屋形」に乗り、引き綱を手繰り寄せながら対岸に渡っていく。猿がツルを伝って移動する様子に似ていることから野猿と名付けられた。かねて一度体験したいと思っていた望みがようやくかなった。

 吊り橋が架けられるまで野猿は村民が対岸に渡るための唯一の交通手段だった。かつて村内に何箇所も設けられていたという。野猿は国道168号を南下し十津川温泉郷を過ぎて上湯温泉に向かう横道に入ってすぐの所にあった。平日の昼下がり。幸運というか、観光客は一人もいなかった。

 

 「危険ですので、身を乗り出したり、ゆすったりしないで」という注意書きを読んだ後、早速試乗へ。屋形は1人乗りで、こぢんまりとした造り。乗り込んで床に座りロックを外して綱を引くと、ゆっくり動き出した。綱の直径は3~4cm。対岸までの距離は100mほどか。綱引きのように両手で引っ張ると、途中から順調に進みだし川の中央付近へ。ここで一休み。爽やかな風と清流の音が涼やかで心地いい。視界をさえぎるものは何もなく、緑の山々が連なる360度の眺望も満喫できた。

 対岸近くまで行ったところで体勢を入れ替えて逆戻り。ところが次第に腕が疲れてきて思うように進まなくなった。中央付近からは何回も小休止。ワイヤロープは屋形の重みによって中央部分が最も低くなる。一方、岸辺の乗り場付近は高いから緩やかな上りになる。その分、より腕力を要するのだ。野猿が生活の足だった頃、女性やお年寄りたちはさぞかし大変だったことだろう。野猿は第三セクターが運営する近くの温泉リゾート施設「昴の郷」内にもある。利用はいずれも無料。

 

 野猿で貴重な体験をさせてもらった後は十津川温泉の「庵の湯」(写真㊨)で汗を流した。十津川村が全国に先駆け村内の全温泉施設を対象に「源泉かけ流し宣言」をしたのは今から11年前の2004年。それを記念した感謝祭の一環として6月30日まで村内4カ所の温泉施設が無料開放中だった。せっかくの機会なので、湯泉地(とうせんじ)温泉の「泉湯」にも入浴させてもらった。

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<十津川村点景①> スリル満点 全長約300mの「谷瀬の吊り橋」

2015年07月02日 | 旅・想い出写真館

【61年前に架橋、日本最長の鉄線吊り橋】

 奈良県は奥行きが深い。紀伊半島の中央部に位置する十津川村は全国一広い村。ほぼ琵琶湖の広さに匹敵する。その村を南北に貫く十津川(熊野川)に、生活用吊り橋としては全国最長といわれる鉄線橋「谷瀬の吊り橋」が架かる。全長297.7mで、国道168号側の上野地と対岸の谷瀬地区を結ぶ。

 完成したのは今から61年前の1954年(昭和29年)。それ以前にも丸木橋が架かっていたが、洪水のたびに流されたという。川面からの高さは54mもある。「危険ですから一度に20人以上はわたれません」。橋の入り口頭上に赤字と一部黒字でこう書いた横断幕が掲げられていた。渡る人が多いときには監視員が一方通行などの規制を行うという。

 

 幅は2mほどで、左右両側は金網のため真下を流れる川まで丸見え。中央部に張られた4枚分の板がいわば〝命綱〟だ。歩くたびに板が少したわんで、橋は左右にゆらゆら。「まるで空中を散歩している気分を体験できます」。観光パンフレットはこう謳っていたが、足元ばかりが気になって、とても空中散歩を楽しむ余裕はない。真ん中辺りでついにギブアップしてUターンした。その姿は多分へっぴり腰だったに違いない。

 

 「やれ、やれ」。どうにか戻り振り返って、橋の左側たもとに小さな石仏があるのに初めて気づいた。石仏の両側には鮮やかな色の造花。右側に男性とみられる方のお名前とお年「三十七才」が刻まれていた。そして左側には「昭和五十六年七月十二日」とあり、続く3文字に目が釘付けに。そこには「墜落死」とあった。渡り終えたばかりのバイク旅行中の男性も「えっ、墜落!」と驚いた様子だった。

 村内には他にも吊り橋が多い。そこで十津川村は語呂合わせで8月4日を「吊り橋の日」に制定した。毎年この日には谷瀬の吊り橋とその周辺で「揺れ太鼓つり橋まつり」が開かれる。最大の見どころは揺れる橋の上での和太鼓の勇壮な演奏。谷背の吊り橋は地元の十津川太鼓倶楽部「鼓魂(こだま)」のメンバーにとって、まさに天空に架かる晴れ舞台になっている。

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