く~にゃん雑記帳

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<馬見丘陵公園館> 歴史教室「馬見古墳群を考える―主墳と陪塚」

2015年02月23日 | 考古・歴史

【泉森皎氏「巣山古墳が陪塚のルーツ」!】

 奈良県馬見丘陵公園館(河合町)で22日、考古学者の泉森皎氏(元奈良県立橿原考古学研究所付属博物館館長)を講師に迎えて、歴史教室「馬見古墳群を考える―主墳と陪塚」が開かれた。泉森氏は馬見古墳群を代表する大型前方後円墳の巣山古墳とその出島状遺構、隣接する2つの古墳のつながりから、「巣山古墳が陪塚のルーツ」「馬見古墳群が陪塚の発祥地」などと話した。

   

 陪塚(ばいづか、ばいちょう)は大王(おおきみ)や王(きみ)を埋葬する大型の古墳に隣接して、臣下ら従者を埋葬した中小型の古墳。ただ「陪塚は死者だけを埋葬したのではない」と泉森氏は強調する。大型古墳の埋葬者のために武具や馬具、装身具などの副葬品を埋葬するために築造した古墳もあった。それらは「埋葬用陪塚」と呼ばれる。

 巣山古墳は全長約220mの国指定特別史跡。馬見古墳群では最大規模で、4世紀終わり頃の築造とみられる。出島状遺構は2003年、前方部西側から見つかった。周濠に張り出した16m×12mの四角形で、墳丘と幅2mの土手でつながっていた。出島からは水鳥や蓋(きぬがさ)形の埴輪が出土し、すぐそばからはひょうたん形の島も見つかった。泉森氏はこの出島状遺構が「陪塚の始まりではないか」とみる。

 巣山古墳のすぐ西側には三吉2号墳(全長89.8m)と狐塚古墳(86m)がある。いずれも前方部が短い帆立貝式で、この2つも「巣山古墳の陪塚的性格を持つ」。泉森氏はこうした点から巣山古墳を「陪塚のルーツ」とし、「後の仁徳陵に引き継がれた」とみる。泉森氏が「古墳の一番完成した姿」ともいう仁徳天皇陵(大仙陵古墳、全長486m)には、堤や周濠に帆立貝式古墳を中心に十数基の陪塚が整然と築造されている。

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