く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 大滝秀治写文集「長生きは三百文の得」

2013年08月23日 | BOOK

【大滝秀治著、谷古宇正彦写真、集英社クリエイティブ発行】

 大滝秀治といえば、あの独特の甲高いかすれ声と味のある演技の印象が深い。宇野重吉亡き後、奈良岡朋子と共に劇団民芸を支え、舞台に映画にテレビドラマに活躍した。2011年には長年の演劇活動が評価され文化功労者に。だが昨年10月、惜しまれながら亡くなった。享年87。本書巻頭に「俳優であったという事実を、自分で確認するために、この本を出す」。出版は今年5月。生前手にすることはかなわなかったが、自らの足跡を自分の言葉で書き残すことができて本望だろう。

   

 写真を担当した谷古宇(やこう)正彦氏は1947年生まれ。多摩芸術学園写真科を中退後、演劇を中心に撮影してきた。主な写真集に「風間杜夫舞台写真集」「PLAYERS1985-1999光の記憶―影の記録」など。写真展の中には「劇僧・大滝秀治」と銘打って紀伊國屋画廊で開いたものもある。本書には撮りためた大滝秀治の写真の中から舞台写真を中心に白黒78枚がほぼ1ページ大または見開きで掲載されている。

 大滝秀治は1925年(大正14年)6月6日、母の実家がある新潟県上越市で誕生した。「お産婆さんが、ぼくを見て仰天したんですね。なぜかって言うと、髪の毛が真っ白だったんです」。役者になっても老け役が多かったことがつい思い出される。楽しみにしていた小学校卒業祝いの富士登山は麻疹(はしか)で参加できず。そこで「じゃ、あたしが代わりに行ってあげよう」と母が参加したそうだ。中学4年の時、授業中に空襲警報が鳴った。初の体験。先生の「自習してろ」を無視し屋上に上がると、低空に飛んできたため操縦士が見えた。「おーい」と手を振ったところを先生に見つかって「3時間ぐらい直立不動で立たされた」。こんなユーモラスなエピソードが満載だ。

 戦中、通信兵として応召されたこともあって、戦後は丸の内電話局に勤めた。その頃、帝国劇場で研究生募集のチラシを目にしたことが転機となる。だが役者になったものの長い不遇時代。宇野重吉からは「おまえの声は、ぶっ壊れたハモニカみたいな不協和音を出す……役者に向かないんじゃないか」とまで言われた。だが、めげなかった。「宇野さんは厳しかったですね。でも、こんなすばらしい師匠に出会えたから、ぼくは今日まで役者をやってこられたと思うんです」。

 宇野重吉からはこんな言葉もかけられた。「人の芝居に粗ばっかり見えるときは、あまえの心がさもしいときなんだ。人の芝居がいいなあと思うときは、心が豊かなんだと思えよ」。滝沢修の「台詞は覚えるものではない。体のなかに、いつのまにか忍び込んでくるものだ。だから覚える動作は創造のうちに入らない」という言葉も印象に残っている。一人前に食べていけるようになったのは「五十ちょっと前から」という。

 長年の役者生活から含蓄のある言葉もちりばめられている。「役者ってのはね……狂気というものを持っていないと、表現できる分野を、ふつうは超えることができないというふうに、ぼくは考えるんですがね」「役者の場合、必要なのは、自信と謙虚のあいだでね。自信の上に自惚(うぬぼ)れがある。謙虚の下に卑屈がある……自信と謙虚のあいだでもって、一生懸命やっていればいいんじゃないかと思うんです」。

 11歳のころ中耳炎で右耳の鼓膜を切開して以来、耳が悪いため役者になっても補聴器を手放せなかった。だが、稽古の終わり近くから本番にかけては補聴器を取った。「どんなに高級な補聴器でよく聞こえても、補聴器は機械だからね。相手の声は機械を通して聞いたのでは、駄目なんですよ。かすかにしか聞こえなくても、生でないと駄目だから、補聴器を取ります」。「耳が聞こえないと、ふつうの人にはわからない、あるいは耳がきこえない人でもわからない、ぼくの特殊の世界ができるんですよ」とも。巻末には23ページにわたって詳細な大滝秀治年譜も付けられている。


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