【開館50周年記念企画展が開幕 総展示数180点!】
奈良県立美術館(奈良市登大路町)で7月8日、開館50周年を記念した企画展「富本憲吉展のこれまでとこれから」が始まった。富本憲吉(1886~1963)は奈良県が生んだ近代陶芸の巨匠。同美術館は1973年の開館以来「富本憲吉展」を延べ14回開催してきた。15回目となる今展では館蔵品100点余に個人蔵や文化庁、国立工芸館、京都国立近代美術館、石川県立美術館、兵庫陶芸美術館などからの借用分も加え、磁器を中心に180点の作品を展示している。
展示構成は「富本憲吉の生涯と作品」「図案家・富本憲吉」「生活へのまなざし」の3つの章立てで、1~2階の6つの展示室を全て使用している。第1展示室に入ると、まず50年前の開館記念展での展示作品「白磁大壷」(1940年)などが並ぶ。美術館には当時富本作品がなく、この1点だけが奈良県の所蔵。他の展示作品約400点は全て外部から借用したそうだ。その後、企画展を重ねるうちに次第に館蔵品も増え今では約170点に上る。
富本は奈良県安堵町出身で、東京美術学校(現東京芸大)図案科を卒業後、英国に留学。帰国後、陶芸家バーナード・リーチとの交流を機に自宅裏に窯を造って陶芸の道に進む。富本の生涯は制作拠点となった場所から大和(安堵)時代(1913~26)、東京時代(26~46)、京都時代(46~63)と呼ばれる。大和時代は独学で楽焼から土焼、白磁、染付と作域を広げていった。初期の展示作品に『楽焼葡萄模様鉢』(1913年)、『楽焼草花模様蓋付壺』(14年)などがある。大和時代の作品には素朴な文様のものが多い。
東京時代には一時九谷焼の窯元で色絵磁器の研究・制作に没頭した。以降、華やかな色絵の作品を次々に生み出す。『色絵木蓮模様大皿』(1936年)の底面には「於九谷 試作」の文字。富本の作陶人生で大きな転換点となった作品の一つといわれる。東京時代には蔓草のテイカカズラの花から四弁花の連続模様も創作した。代表作に『色絵四弁花更紗模様六角飾筥(かざりばこ)』(1945年)や『色絵金銀彩四弁花文飾壷』(1960年)などがある。
上段㊧白磁八角蓋付壷、㊨色絵椿模様飾箱、下段㊧色絵金銀彩四弁花文飾壷、㊨色絵金銀彩羊歯文八角飾箱
富本は終戦後、疎開先の高山から一旦東京に戻り、さらに安堵に引き揚げる。だが自分の窯がないため奈良から京都に通い、結局京都に転居する。京都時代には不可能とされてきた金と銀を同時に焼き付ける「金銀彩」の技法を確立した。同じころ羊歯(シダ)の連続模様を考案して、金銀彩と併用することで格調の高い華麗な文様を編み出した。代表作に『赤絵金銀彩羊歯模様蓋付飾壷』(1953年)、『色絵金銀彩羊歯文八角飾箱』(1959年)など。展示物の中に制作途中の未完の作品があった。『赤絵金銀彩羊歯文様壷』(1963年)。羊歯の連続模様を描くための割付線が残っており、没後に京都の工房で見つかった。
第2章では図案家としての富本に焦点を当てる。富本は「模様から模様を造るべからず」を信条とし、身近な風景や草花を題材に独自の造形と模様の探求に余念がなかった。ここでは四弁花や羊歯のほか、8幅の軸装『常用模様八種』(1949年)をもとに作品を紹介している。好んでよく描いた8種のモチーフとは薊(あざみ)・芍薬・梅・松・竹・野葡萄・大和川急雨・「寿」字。漢字は京都時代に「花」や「風花雪月」などもよく使用した。
富本は芸術的な磁器作品の制作の傍ら、服飾品(帯留め、ネクタイピン)や生活雑貨(灰皿、箸置き)などの制作にも励んだ。第3章ではこうした実用的な作品とともに量産化への取り組みを紹介する。東京時代には信楽、波佐見(長崎)、瀬戸、京都、加賀など地方の窯業地に滞在しては既製の素地に富本が絵付けする方法で日用陶磁器の量産の可能性を探る。さらに京都時代には富本が作った見本をもとに職人に成形・絵付け・焼成を任せる方法を考案し、「平安窯」「富泉(とみせん)」の銘で売り出す。50年にわたる富本の陶業は近代陶芸の先駆者としての挑戦の連続だった。企画展の会期は9月3日まで。