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く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 『戦争に隠された「震度7」 1944東南海地震1945三河地震』

2015年01月26日 | BOOK

【木村玲欧著、吉川弘文館発行】

 著者木村玲欧(れお)氏は1975年生まれ、2004年京都大学大学院情報学研究科博士後期課程修了。名古屋大学大学大学院助教、富士常葉大学准教授などを経て、現在、兵庫県立大学環境人間学部・大学院環境人間学研究科准教授。著書に『歴史災害を防災教育に生かす―1945三河地震』や『日本歴史災害事典』(共著)など。

    

 太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)12月7日、紀伊半島沖で東南海地震が発生した。マグニチュード(M)7.9、死者・行方不明1223人。三重県尾鷲町(現尾鷲市)では最高9mの津波が襲来した。その37日後の45年1月13日には愛知県三河地方を震源とするM6.8の三河地震が発生、死者は2306人に達した。名古屋市から集団疎開していた国民学校の児童たちも多く犠牲になった。だが、2つの地震は戦時報道管制下で「意図的に隠された」。

 第1章「地震はいかにして隠されたのか」で、著者は「報道管制によって地震情報・適切な対応について住民への周知徹底ができず、被害拡大を招いた」とみる。言論統制は復旧・復興にも多くの困難をもたらした。「戦争で物資が不足している上に、報道管制によって被災地外へ地震・津波の被害情報がほとんど伝わらず、人的・物的支援がほとんどなかった」。

 第2章では報道管制の実態に触れながら、朝日・読売の全国紙2紙と地元の中部日本新聞を取り上げ、約4カ月にわたる地震報道を丹念に分析した。3紙に共通したのは①記事の大きさはベタ記事(1段見出しの記事)が主流②詳細な被害情報には触れず「被害微小」というあいまい、かつ事実に反した報道がなされた――など。「政府は被害を小さく見せ、国民の戦意喪失を回避し、敵国への情報漏洩を防ぐ意図があったことが推察される」。当時は激しい空襲の時期とも重なる。全国紙にとって地震報道は「相対的に掲載の優先順位が低かったことも考えられる」。

 第3~6章では2つの地震の被災者の体験談を通して、当時の時代背景が人々の災害に対する意識や行動にどう影響を与えたのかを探る。著者は仮定の話と断ったうえで「戦時中とはいえ、当時から地震・津波の知識の普及、自然災害に対する備え、津波警報発表の仕組みが存在していたならば、被害を極小化することも十分に可能であった」とし、最終第7章でも改めて防災教育の重要性を説く。

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<BOOK> PHP新書「どんな球を投げたら打たれないか」

2015年01月21日 | BOOK

【金子千尋著、PHP研究所発行】

 オリックス投手、金子千尋は昨シーズン16勝5敗・防御率1.98でリーグ最多勝と最優秀防御率の2冠を達成、初の沢村賞にも輝いた。今や日本の球界を代表するナンバーワン・ピッチャー。昨年オフには一時メジャー移籍話も浮上したが、オリックスに残留しリーグ優勝・日本一を目指すことになった。今年も金子の〝快投〟乱麻の活躍に注目が集まることだろう。  

     

 社会人野球のトヨタ自動車に所属していた金子がプロの世界に入ったのは10年前の2004年。自由獲得枠でのオリックス入団だった。1年目は肘の故障もあって一軍での登板はゼロ。しかしスカウトの期待に応え次第に力を発揮する。2008年から4年連続2ケタ勝利。2010年に初の最多勝、13年には最多奪三振、そして昨年の大活躍。 

 この間、金子は「どうすれば、自分みたいなピッチャーが、プロの世界で勝てるようになるのか」自問自答してきた。「その命題と真正面から向き合ったからこそ、おそらく他のピッチャーとは違う思考を身につけ、そして新たな球種を一つずつ習得していったのです」。金子の持ち球は実に多彩。カットボール、スライダー、シュート、チェンジアップ、スプリット、カーブ、パワーシンカー、ツーシーム――。

 「ストレートだけでは抑えられないから、変化球をたくさん投げるしかない。自信を持っているのではなく、打者を抑えるために、必然的にいろんな変化球を投げ分けている」という。「打者から見て、一番打ちにくいのはどんな変化をするボールなのか。ピッチャー目線を捨て、打者目線で変化球を考えるようになったとき、それまでとはまったく違う発想が芽生えた」とも。、

 では、金子が考え抜いた末の理想の変化球とはどんなものなのか。「指先を離れたボールがストレートと同じ軌道で打者に向かっていって、打者がヒッティングの動作を始めたポイントで左右、あるいは下に変化していく、というもの。まっすぐ伸びたボールが、途中でいろんな方向に枝分かれしていくようなイメージ」。そして理想のピッチングは「27のアウトをすべて凡打で、100球以内の投球で終わらせること」という。

 最終章第6章「ライバルに学ぶ」の最後に「強打者の才能が、ピッチングを磨いてくれる」という1項目を立てている。その中で「ピッチャーとして一番嫌なのは、どのコースへ投げても、しっかりと振りきってくる打者」として、ソフトバンクの内川聖一や李大浩、柳田悠岐、長谷川勇也らの名前を挙げる。今シーズンの開幕は3月27日。金子と好打者の対戦がますます楽しみになってきた。

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<BOOK> 『身近な生きものの子育て奮闘記 育児上手なオスはモテる!』

2015年01月16日 | BOOK

【稲垣栄洋(ひでひろ)著、筑摩書房発行「ちくま文庫」】

 著者稲垣栄洋氏(1968年生まれ)は岡山大学大学院農学研究科修了の農学博士。農林水産省、静岡県農林技術研究所などを経て、現在は静岡大学大学院教授。雑草生態学専攻で『身近な雑草の愉快な生きかた』『身近な虫たちの華麗な生きかた』『蝶々はなぜ菜の葉に止まるのか』などの著書がある。

     

 2部構成。第1部「生物にとって『子育て』とは何か?」の中で、恐竜マイアサウラとオヴィラプトルを取り上げて恐竜の子育てという興味深い話題に触れている。最近の研究でオスも子育てに参加していたことが分かってきたという。「恐竜はオスも卵を温めたり、エサを運んだりと、子育てをしていたことが報告されている。すでに何億年も前の地球上に『イクメン』は存在していたのである」。

 第2部「子育て上手なオスに学べ!」では魚類、両生類、鳥類、哺乳類などに分け、38種類の生きもののユニークな子育て法を紹介する。例えば――。【コモリウオ(子守り魚)】繁殖期になるとオスのおでこ部分にある突起が発達し、メスはその突起に卵を産み付ける。オスはブドウの房のような卵の塊を突起に引っ掛けたまま孵化するまで守る【タツノオトシゴ】オスが妊娠する! オスの腹部にある育児嚢にメスが産卵管を挿入して卵を産む。その卵は未受精卵で育児嚢の中で受精し、孵化すると子どもたちはオスのおなかから出てくる。

 【サンバ(産婆)ガエル】メスが透明のチューブ状の卵塊を産み付けると、オスは卵塊を足に巻き付け卵が孵るまで足に付けたまま移動する【オオサンショウウオ】オスはメスのために産卵の巣穴を用意し、産んだ卵に精子をかけて受精させる。その後、卵が孵化するまで巣穴にとどまって敵から守り続ける【エミュー】メスは産卵するとどこかに行ってしまい、残されたオスは孵化までの約8週間、飲まず食わずで卵を抱き続ける。この間に体重は半分に減るという。孵化後も18カ月間、オスは口移しでヒナにエサやり。

 【コウテイペンギン】メスは大きな卵が地面に落ちて凍りつかないように前足の上に産む。オスはその卵を自分の足の上に移動させ、それから2カ月間、ブリザードが吹き付ける中、何も食べずに温め続ける【フンコロガシ】オスはメスにアピールするため大きく立派な糞玉を作り、相手のメスが見つかるとメスを糞玉に乗せて運ぶ。穴を掘って糞玉を埋めると、メスは糞の中に卵を産み付ける。オスの役割は子どもが大人になるまで守り、子どもが食べていけるだけの糞玉を作ること。力持ちのオスは自分の体重の1000倍以上の重さの糞玉を転がすことができるそうだ。 

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<BOOK> 『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』

2015年01月13日 | BOOK

【大輪靖宏著、祥伝社発行】

 著者大輪氏は上智大学名誉教授・文学博士で、日本伝統俳句協会副会長や国際俳句交流協会常務理事などを務める。著書に『芭蕉俳句の試み』『俳句に生かす至言』『俳句の基本とその応用』『大輪靖宏句集』など。本書には「日本人なら身につけたい教養としての俳句講義」という副題が付けられている。

        

 〝俳聖〟松尾芭蕉(1644~94)が没してから約320年。近代俳句の礎を築いた高浜虚子は著書『俳句はかく解しかく味う』の中で「多少の盛衰もあり多少の変化もあるにしたところで、要するに俳句は即ち芭蕉の文学である」と書いた。著者も「はじめに」の中で、「芭蕉への道程と芭蕉の試み、および芭蕉精神の継承ということを十分に理解することが、俳句そのものを理解するということなのである」と指摘する。

 「芭蕉までの一五〇年の歩み」「芭蕉句 その試みと達成まで」「芭蕉以降の俳句と俳人」の3章構成。芭蕉の時代には「俳句」という言葉はなく俳諧の発句から単に「発句」といった。「だから、芭蕉など古典作者の句は発句と呼ぶのが正しい」。本書中に引用した発句は芭蕉と弟子の宝井其角、服部嵐雪、向井去来ら〝蕉門十哲〟の代表作を中心に約450句に上る。

 「春や来し年や行きけん小晦日(こつごもり)」。芭蕉が最初に作ったのは19歳のときのこの句とみられる。以来、20代で松永貞徳らによる「貞門派(ていもんは)」の俳諧に触れ、30代になると西山宗因、井原西鶴らによる「談林派」の影響を受ける。40代に入ると『野ざらし紀行』を皮切りに『笈の小文』『更科紀行』『おくのほそ道』と旅に出て、「蕉風」と呼ばれる独自の作風を確立する。

 「蛇食ふと聞けばおそろし雉子(きじ)の声」「鶯や餅に糞する縁の先」――。芭蕉は自由で意外性のある句も多く残した。著者は「破壊のための破壊はせずに伝統を守りつつ新味を出しているのだ。この新味が『日比工夫の処』なのだろう」とみる。ただ「数日腸(はらわた)をしぼった」と告白するなど苦心の末に生み出した作品も多い。どちらの句がいいか迷って弟子たちにたずねることもよくあったそうだ。人間味にあふれる芭蕉の一面がうかがわれる。

 芭蕉は卓越した指導者でもあった。「芭蕉は弟子の個性を生かし、伸ばしてやることができた。そして、弟子もまた存分に自己を発揮した」。著者は「おわりに」でこう結ぶ。「俳句は生き物である……芭蕉の中でも俳句は成長を続けるのであり、その試行錯誤から生じるさまざまな形態もそのまま俳句の巾として認識できるのだ。そして、最終的に芭蕉が到達したところにこそ、俳句の気品の高さと意味の広がりの大きさが発揮されるのである」。

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<BOOK> 『国分寺を歩く 日本六十余州 全国国分寺を完全収録』

2014年12月22日 | BOOK

【かみゆ歴史編集部編、イカロス出版発行】

 奈良時代、聖武天皇が国分寺の建立を全国に命じたのは今から1300年近く前の741年(天平13年)。それらの寺跡は現在どうなっているのだろうか。本書は存在が確認されている全国の国分寺跡68カ所を1つ1つ訪ね歩いて天平寺院跡の「いま」を紹介する。

   

 国分寺には高層の七重塔が建立され、他に金堂、講堂、鐘楼などが設けられた。その立地場所は清浄性と利便性から〝好処〟を選ぶよう指示された。「七重塔は変革期の国家や天皇の権威を諸国に示す一大モニュメントであった」。ただ国分寺の造営には膨大な費用を要したため、中には諸国財源の2分の1を費やすなど財源捻出には相当苦しめられたようだ。

 本書では畿内からスタートし、東海道、北陸道、山陰道、南海道、西海道など地域ごとに国分二寺(国分僧寺・国分尼寺)の遺跡を紹介する。信濃国分寺(長野県上田市)では全国でも珍しく二寺の遺構が近接して発掘された。跡地は史跡公園として整備され、堂塔配置が復元されている。伯耆(ほうき)国分寺(鳥取県倉吉市)も二寺が接近し、すぐ北側に尼寺が並ぶ形で建てられていた。遺構跡地は「日本の歴史公園100選」に選ばれている。 

 周防国分寺(山口県防府市)は再建ながら創建時の境内に、ほぼそのままの規模や配置で堂塔を維持している。金堂は1779年の再建。上野(こうずけ)国分寺(群馬県前橋市、高崎市)は一辺220~230mの長さの築垣で囲まれていたとみられ、南辺の築垣が創建時の工法で復元された。相模国分寺(神奈川県海老名市)では七重塔を3分の1の規模で復元、高さ20m近いモニュメントが中央公園に立つ。

 国分寺跡地の中には国指定史跡になっているところが多いが、遠江国分寺(静岡県磐田市)や常陸国分寺(茨城県石岡市)、讃岐国分寺(高松市)の寺跡は国の特別史跡。国分寺は武蔵国分寺があった東京都国分寺市をはじめ、各地の地名にも名をとどめる。国分僧寺の住所を調べたところ、37カ所と半数以上が「国分寺」「国分」「国分町」などだった。「国分寺まつりin遠江」「上野国分寺まつり」など、国分寺所在地だったことを地域起こしにつなげようという新たな動きも出てきた。

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<BOOK> 『ちひろさんと過ごした時間 いわさきちひろをよく知る25人の証言』

2014年12月16日 | BOOK

【ちひろ美術館監修、新日本出版社発行】

 今年は水彩画家いわさきちひろ(1918~74)の没後40年。約30年の画業生活の中で描いた作品は1万点近くに上るという。その中の愛らしい子どもの絵が新聞配達店から毎月届く「毎日夫人」の表紙を飾っていることや、約20年前「安曇野ちひろ美術館」の起工式の場面に遭遇したことなどもあって、ちひろの作品にはかねて親しみを抱いていた。

     

 本書は副題の通り、ちひろと交流のあった人々の中に息づくちひろの記憶を書き残し、ちひろの実像を広く知ってもらおうと出版された。最初の数ページにわたって淡い色彩の童画が続く。「こげ茶色の帽子の少女」「絵をかく少女」「わらびを持つ少女」……。と、その後半にそれまでとは異なる色彩のない作品が出てきた。「戦火のなかの子どもたち」より「たたずむ少年」と「焔のなかの母と子」。ちひろもこんな激しい絵を描いていたんだ!

 19歳で結婚、そして夫の自殺。満州渡航、戦況悪化による帰国。空襲と母の実家(長野県松本市)への疎開、両親の公職追放――。ひちろの前半生がその絵からは想像できないほどの過酷なものだったことを初めて知った。ちひろの絵が表紙や挿絵として使われた『窓ぎわのトットちゃん』の著者で東京、安曇野両ちひろ美術館館長の黒柳徹子も本書の中でこう告白する。「こんなに可愛い、こんなに綺麗な、なんの禍いもない、苦しみも悩みもないと思っていた方が、これほど苦しむ人生を送った挙句、あれだけの子どもを描いたんだと思うと、もう本当にびっくりしました」。

 ちひろは31歳のとき8歳年下の松本善明(日本共産党元国会議員)と再婚する。松本によると「体験的に〝戦争と平和〟というのが彼女の中心的なテーマ」になっていた。ちひろの東京・神田のアトリエによく遊びに行っていた3姉妹たちも、ちひろが平等や平和の大切さについて度々話していたという思い出を語る。アニメ映画監督の高畑勲はちひろについて「子どもたちの尊厳というものを描き出すことに成功した、非常に稀な人ではないか」という。高畑の一番好きな絵は「戦火のなかの子どもたち」で「すごいなー」と思っていつも見ているそうだ。

 ちひろが55歳で亡くなった2日後、松本は「ちひろの残したものを家族だけのものにせず人類の遺産のひとつとして位置づけたい」と長男夫婦に話した。それが今の2カ所のちひろ美術館として結実した。長男の松本猛は「母の絵が、一体何を描いているかって考えると、やっぱり〝いのち〟なんだろうと思う」。妻の由理子は「自分の理想の世界を守りたい、それが本当の世界になってほしい、そんな祈りにも近い思いを込めて、彼女は純なるものの象徴として、子どもの絵を描いた」とみる。ちひろの母親が奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)の卒業生というのも新しい発見だった。 

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<BOOK> 『美の侵犯 蕪村×西洋美術』

2014年12月10日 | BOOK

【北川健次著、求龍堂発行】

 著者は1952年福井県生まれ、多摩美術大学大学院美術研究科修了。銅版画とオブジェの第一人者で、油彩画、写真、詩、評論も手掛ける。著書に『「モナ・リザ」ミステリー』『絵画の迷宮』など。タイトルの「蕪村×西洋美術」が示すように、本書は江戸中期の俳人・与謝蕪村(1716~84)の俳句と、そのイメージ世界をそっくり表現したような西洋美術を対(つい)にして紹介する。

    

 蕪村に魅せられた著者がある時、「いな妻や波もてゆへる秋津島」という句から横山大観が描いた「或る日の太平洋」を思い起こす。それを機に日本美術の中に蕪村が詠んだ3000近い句にイメージが重なるものはないかを調べた。だが、見つからない。ところが日本から遠く離れた西洋美術の中に、あった! 著者は『序』で述懐する。「始まりは直感であった……。蕪村を全く知らない美術家たちの表現世界の中に、蕪村の俳句と重なるイメージの数々を見つけ出してしまった事は、まるで謎めいたミステリーに立ち会うような妙味があった」。   

 取り上げた蕪村の俳句と西洋美術は全部で30対。1点目は「潅仏やもとより腹はかりのやど」と表紙を飾るレオナル・ド・ダヴィンチの「モナ・リザ」だ。私生児だった蕪村のこの句は「冷笑的な自画像として映る」。ダ・ヴィンチも私生児だった。「モナ・リザ」のモデルはフィレンツェ商人の妻ともいわれるが、著者は「画家自身と母カテリーナが重なった上に、画家の内面に棲まう一人の異形なる女性性を持った存在」と推論する。

 「桃尻の光りけうとき蛍哉」の句と対になるのはマン・レイの代表作の1つ「アングルのヴァイオリン」。愛人女性の背中に音符記号を描き、豊満な肉体を楽器に見立てた。「飛尽す鳥ひとつづつ秋の暮」にはニコラ・ド・スタールの「かもめ」。「硝子(びいどろ)の魚おどろきぬ今朝の秋」には色彩画家アンリ・マティスの「金魚」(写真㊧=部分)。明るい草花に囲まれたテーブルで金魚鉢の中を4匹の鮮やかな赤い金魚が泳ぐ。

 

 「日の光今朝や鰯のかしらより」に対として挙げるのはフェルメールの「牛乳を注ぐ女」。窓から差し込む早朝の光の中で家政婦が卓上の器に牛乳を注ぐ。「草いきれ人死に居ると札の立つ」にはゴッホの「カラスの群れ飛ぶ麦畑」。「春雨や同車の君がさゞめごと」にはサルバドール・ダリのオブジェ「雨降りタクシー」。「月天心貧しき町を通りけり」にはルオーの「郊外のキリスト」。

 そして辞世の句「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」にはミレー最晩年の油彩画「春」(写真㊨)。著者は「ミレーが最後に描こうとしたものは、春の過剰なまでの『気』の律動、決して視覚だけでは伝わってこない不可視なる存在――つまりは、生と死を超克して在る、春の<地霊>のごときものであったのかもしれない」とみる。〝俳聖〟松尾芭蕉を敬慕した蕪村は芭蕉没後90年の1784年に生涯を閉じた。享年68。 

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<BOOK> 『日本風物詩』(IBCパブリッシング発行)

2014年12月02日 | BOOK

【ステュウット・ヴァーナム-アットキン著、とよざきようこ訳】

 副題に「海外から訪れた人たちを惹きつける日本の物事」。旅行やビジネスで日本にやって来る人にとって不思議なものや珍しいものを、英国出身で日本滞在歴が長い外国人の視点からリストアップした。その中には「えっ!、こんなものまで?」というものも。身近な存在で日本人にとって当たり前のものでも、外国人には珍奇に映って関心を呼ぶことがあるようだ。

    

 筆者はオックスフォード大学を卒業し、1970年代から日本に在住。劇団主宰を経て翻訳・ナレーションなどを業務とする会社を設立し、NHKワールド番組のナレーションや大相撲英語放送のゲスト解説などを担当、2011年には放送大学客員教授に就任した。著書に『Trad Japan Mod Nippon』『夕顔』『若紫』など。

 取り上げた日本独特の風物は全部で82件。これらを「寺社仏閣」「街の風景」「冠婚葬祭」「遊び」「伝統芸能・美術」「歳時記」の6項目に分類し、それぞれに写真と英語・日本語訳の説明を添えている。(最初の「寺社仏閣」の見出しは正確には「神社仏閣」だが、そこはひとまず目をつぶることにしよう)

 「寺社仏閣」で取り上げたのは、しめ縄、鳥居、狛犬、五重塔、蹴鞠、絵馬、おみくじなど。蹴鞠では「下賀茂神社で行われた2014年の蹴鞠はじめではサッカーワールドカップ公式球も使われた」、おみくじでは「今では赤い郵便ポストそっくりの自動販売機が多くなっている」など最新の情報も加えている。「街の風景」では交番、招き猫、舞妓、食品サンプル、のれんなどを紹介、「外にのれんがかかっているときは営業中のしるし」「京都を訪れる観光客でにわか舞妓の扮装を楽しむ女性が多い」などと説明している。

 「冠婚葬祭」は花嫁の角隠しや水引、木魚など、「遊び」は将棋、碁、羽根つき、歌がるたなど、「伝統芸能・美術」は文楽、浮世絵、いけばな、盆栽など。「歳時記」は季節ごとに花見や蚊取り線香、風鈴、月見、年越しそば、破魔矢、お年玉などを取り上げ、最終ページは豪雪地帯のかまくらを幻想的な写真とともに紹介している。

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<BOOK> 「つばさの贈り物 ― 本を通して家族と共に分かち合ったよろこびのかずかず」

2014年11月20日 | BOOK

【アニス・ダフ著、大江栄子・間崎ルリ子・渡邊淑子訳、京都修学社発行】

 原書のタイトルは「BEQUEST Of WINGS ― A Family's Pleasures with Books」。最初に出版されたのが1944年というから、今年でちょうど70年前になる。英米の児童書を扱う図書館の関係者にとっては必読書とされてきた古典。訳者3人がこの本に出会ったのは20年以上前のことだった。いずれも神戸や大阪の図書館や自宅の家庭文庫などで児童書に関わってきた。毎月1回集まって読み解くうち、この本をもっと多くの人と分かち合いたいとの思いが募って刊行にこぎ着けた。

    

 著者アニス・ダフはカナダのトロント近郊の生まれ。学校卒業後、図書館に2年間勤務した後、書店の児童書部門の主任を務める。音楽教師の男性と結婚後、米国イリノイ州に移って2児に恵まれる。1930年代後半から40年代初めにかけ、子どもたちの成長に合わせて共に本を楽しんだ記録を次々に発表、それが出版社の目に留まって出版に至った。その後、アニスはニューヨークに移り、出版社で児童書の名編集者として20年近く活躍した。

 本書は「家族の行事として」「子ども部屋で楽しむ詩」「ことばの楽しみ」「笑いをもたらす本」など15章で構成する。巻末の索引に本書に登場する童話などが50音順に紹介されているが、その書名や作品名を合わせると250点余に達する。その中には『クマのプーさん』『ちびくろさんぼ』『不思議の国のアリス』など日本でもおなじみの童話も多く含まれている。

 子どもが最初に出会う本で、本当に良い本とはどんな本だろうか? 著者は体験から「絵が子どもの毎日の生活の中で目にするものを、くっきりと、美しく、生き生きと、力強く、そしてユーモアと魅力をもって描き出しているもの」とし、「こうした絵は日常目にふれるものを画家の想像力で輝きを与えて見せてくれる」という。

 そのくだりを読みながら、奈良のある図書館の入り口にあった貼り紙を思い出した。『「よい絵本」とは』というタイトルで、そこには「作家、画家たちが文字通り情熱を注いだ作品で、子どもたちの年齢にあっていること、理解しやすく、楽しく、正確な内容と美しい絵と文章、そして子どもの興味、関心をひくもので読書の原点となること」とあり、末尾に「全国学校図書館協議会」と書かれていた。

 著者の長女は多くの本と接するうちに、本の一節をうまく会話の中に引用するようになった。3歳になったばかりの頃、おもちゃを片付けずにぐずぐずしていた娘に、父親がしびれを切らし「早くしろ!」とどなった。すると、娘は静かな声で「と、とてもおおきなトロルが言いました」と言ったとか。その光景が目に浮かぶ。

 本書から「大きな刺激と喜びと励ましを得た」という訳者たちは「あとがき」にこう記す。「夫婦、子どもで成り立つ家族のなかで、本と自然、そして音楽や絵画といった芸術、つまり人間の想像力の翼の羽ばたきから生み出された良きもの、美しいもののかずかずがこのように自然に好ましく結合し、楽しまれ、子どもたちが豊かな精神性を得てゆくということは、なんとうれしいことでしょう」。図書館関係者だけでなく、小さなお子さんを持つ親御さんにもぜひ一読してほしい1冊である。

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<BOOK> 『日本の巨樹 1000年を生きる神秘』

2014年11月16日 | BOOK

【高橋弘著、宝島社発行】

 著者高橋氏は1960年山形県生まれ、北海道育ち。巨樹写真家として活躍する傍ら、東京の奥多摩町日原森林館の解説員・調査員、環境省の巨樹データベースの管理者を務める。「東京巨樹の会」を主宰、「全国巨樹・巨木林の会」「日本火山学会」の会員でもある。著書に『巨樹・巨木をたずねて』『神様の木に会いに行く』など。

    

 高橋氏が巨樹に魅せられ〝巨樹巡礼〟を始めたのは1988年に会津で巨木に出会ったのがきっかけという。以来、訪ね歩いた全国の巨樹は幹周5mを超えるものだけでも3200本を超える。「それぞれの巨樹に個性があり、歴史があり、表情がある」「巨樹とのすべての出会いが一期一会の感動的な体験」。本書では「あまり日の目を見ないが素晴らしい個性を持った巨樹たち」にもスポットを当てている。

 最初取り上げるのは「圧倒的なオーラに人生が一変 神宿る巨樹12選」。まず菅山寺のケヤキ(滋賀県)。山門のそばに樹齢1000年余といわれる巨樹2本が阿吽の仁王像のように並び立つ。ほかに表紙を飾る西善寺のコミネカエデ(埼玉県)、加蘇山の千本かつら(栃木県)、山高神代ザクラ(山梨県)、洞杉(富山県)、小野のシダレグリ(長野県)など。いずれも圧倒的な存在感だ。

 続いて北海道・東北から南へ、心に訴えかけてくる〝100体〟を順に紹介する。喜良市(きらいち)の十二本ヤス(青森県)、三春滝桜(福島県)、賀恵渕のシイ(千葉県)、月瀬の大杉(長野県)、岩屋の大杉(福井県)、平湯大ネズコ(岐阜県)など。近畿では高井の千本杉(奈良県)や祇園杉(京都府)、和池の大カツラ(兵庫県)など12体を取り上げている。中国や四国、九州では川棚のクスの森(山口県)、杉の大杉(高知県)、仲間川のサキシマスオウノキ(沖縄県)など。

 筆者によると「日本は巨樹大国」。国土が南北に長く降水量が多く、様々な気候が存在するため、多種多様な樹種が育つ。北海道で多く見られるのはイチイやカツラ、東日本ではスギやケヤキ、シイノキ、カツラ、西日本ではクスノキ、カシ、シイノキなど。巨樹は深い森の中に多く存在すると思いがちだが、森林内は生存競争が熾烈なため、思うほど巨樹を見ることが少なく、むしろ人里近くの社寺にある場合が多いという。本書に登場する巨樹にも注連縄を飾られたものが目立った。

 解説板に書かれた樹齢は実態より大きな数値が記載されていることが多いそうだ。「一番手っ取り早くて適当と思われる樹齢は解説板にある樹齢表記の半分の数値」。巨樹を目の前にすれば誰もが直接木肌に触ってみたいと思うはず。「木も人との触れ合いを望んでいる」と筆者。だが、最近は周囲を柵で囲うことが多くなった。中には鋼鉄製の3mもの高い柵で囲んだケースもあったという。「『困る』という漢字は『木』を国構えで囲んでしまっていて困る――。まさにその通りだと感じざるを得ない」。なるほど!

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<BOOK> 「日本の軍歌 国民的音楽の歴史」

2014年10月31日 | BOOK

【辻田真佐憲著、幻冬舎発行】

 略歴によると、著者辻田氏は1984年大阪府生まれ。ということは今年で30歳。その若さにして軍歌という組み合わせが目を引いた。軍歌の研究に〝開眼〟したのは中学生の頃という。世界中の軍歌の収集を始め、大学在学中にウェブサイト「西洋軍歌蒐集館」を開設した。「軍歌を中心とした世界のプロパガンダ」を研究テーマに掲げる。著書に「世界軍歌全集 歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代」など。

    

 「軍歌の誕生」「軍歌の普及」「越境する軍歌」など7章で構成する。著者は『軍歌』(後に『皇国の守』『来れや来れ』に改題)という軍歌が作られた1885年(明治18年)を軍歌元年とし、その後の日清・日露戦争の時期を第1次軍歌ブーム、満州事変から太平洋戦争を第2次軍歌ブームと呼ぶ。日清戦争の開戦からわずか2年間に1300曲以上が作られ、終戦までの60年間では「1万曲を下らないだろう」と推測する。

 軍歌作りには音楽家のほか詩人や文学者など多くの知識人が動員された。佐佐木信綱は『凱旋』を手始めに「日清戦争から太平洋戦争まで軍歌を作り続けたほとんど唯一の歌人」。森鴎外は『第二軍』、土井晩翠は『征夷歌』を作詞し、夏目漱石も『従軍行』という〝戦争詩〟を残した。夭折の天才作曲家・滝廉太郎も『我が神州』を作った。著者は「もし滝が長生きしていれば、山田耕筰のように軍歌を多く手がけ、戦争責任を追及されていたことは想像に難くない」という。

 新聞社や放送局、出版社などによる〝懸賞募集軍歌〟も多く生まれた。「勝って来るぞと勇ましく」で始まる『露営の歌』もその1つ。毎日新聞が募集し約2万5000篇の中から選ばれた歌詞に古関裕而がメロディーを付けた。選者は菊池寛、北原白秋ら3人だった。朝日新聞の募集からは『父よあなたは強かった』、読売新聞からは『空の勇士』などが生まれた。

 メディア間の競争で懸賞金が高騰した結果、いずれも応募が殺到した。講談社が募集した『出征兵士を送る歌』(林伊佐緒作曲)の応募は13万篇近くに達したという。終戦間近の1945年夏になっても、全国の新聞などが共同で本土決戦に向けた『国民の軍歌』を募集した。その締め切り日は奇しくも8月15日。過酷な状況にもかかわらず、応募は約1万5000篇に達した。

 著者は軍歌を「官民挙げての国民的なエンターテインメント」と位置づける。「軍歌の作り手たちは戦争を主導した『戦犯』でもなければ『民族精神』の祭司でもない。彼らの作った軍歌は何よりも『娯楽』であり『商品』であり、様々な利害関係の中から生まれてきたものだった」「当時も今も、老若男女、貴賎を問わずに消費されるこのような娯楽を他に見いだすことは難しい。その意味で軍歌は、日本史上最大のエンタメだったとさえいえるのではないだろうか」。

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<BOOK> 「反骨の棋譜 坂田三吉」

2014年10月21日 | BOOK

【大山勝男著、現代書館発行】

 著者大山氏は1953年神戸市生まれ。夕刊紙、地方紙を経て現在『週刊大阪日日新聞』記者。ノンフィクションライターとしても活躍しており、著書に『あるシマンチュウの肖像―奄美から神戸へ、そして阪神大震災』『愛しのきょら島よ―悲劇の北緯29度線』などがある。

   

 大阪が生んだ希代の棋士、坂田三吉(1870~1946)の一代記。「中世の自由都市・堺の出身」「千日手で開眼」「関西から関東へ」など8章で構成し、別稿で坂田三吉の「一人語り」を演じている評論家・木津川計のインタビュー記事や坂田の年譜などを添えている。

 坂田には「無学で風変わりで粗野な人物」というイメージがつきまとう。没後、坂田の生涯が舞台や映画、テレビドラマなどとして取り上げられ、村田英雄の『王将』(西条八十作詞、船村徹作曲)は300万枚を超える大ヒットとなった。こうした中で脚色された〝奇人・坂田〟のイメージが作られてきた。

 事実、坂田は貧困のため教育をろくに受けられず、生涯に覚えた漢字は「三」「吉」「馬」の3字だったともいわれる。だが、坂田の実像は謙虚かつ礼儀正しい人物だった。本書も歪曲化されたイメージを正そうと、生前の坂田を知る人のコメントなどに多くの紙幅を割く。「非常に律儀で、とにかく『真っ直ぐ』な心情だ」(故大山康晴15世名人)、「決して奇行でもなければ、変人でもない。将棋の奇手は坂田独特の作戦なのだ」(故星田啓三8段)……。

 坂田が生涯のライバルとなる関根金次郎と初手合わせしたのは24歳のとき。以来、息詰まる対局が続く。36歳のときには「千日手」で敗れる。千日手は双方で同じ指し方が繰り返され局面が進展しない状態を指す。決死の覚悟で初めて上京したのは43歳のとき。「明日は東京に出ていくからは/なにがなんでも勝たねばならぬ……」(演歌『王将』)。

 関根はその後、13世名人となる。生涯の2人の対局は坂田の16勝15敗1分だった。関根は昭和21年7月に死去、坂田もその5カ月後の12月、後を追うように亡くなる。関根享年79、坂田享年77だった。坂田の死亡記事の扱いは小さく、たった10行で写真も掲載されなかったという。日本将棋連盟は昭和30年、坂田に「名人位」「王将位」を追贈した。

 著者は坂田を〝盤上の哲学者〟と形容する。読み終え、最後に「あとがき」を開いて驚いた。その書き出しに「将棋については門外漢の私が……」とあったからだ。本書は昔から将棋を指す著者の趣味が高じて結実した作品と思い込んでいた。だから、最後に「門外漢」と知って仰天してしまった次第。差別問題をテーマの1つに掲げる著者らしい作品といえよう。

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<BOOK> 「宣教師ウェストンの観た日本」

2014年10月11日 | BOOK

【ウォルター・ウェストン著、山本秀峰訳、露蘭堂発行】

 「日本近代登山の父」と呼ばれる著者ウェストン(1861~1940)は1888年、英国国教会伝道協会の宣教師として初来日、以来3度にわたって来日し通算15年間を日本で過ごした。明治憲法の公布、教育勅語の発布、日清・日露戦争、第一次世界大戦参戦……。在日期間は日本がまさに富国強兵の道を歩む時期に当たる。本書はウェストンの日本に関する著作4冊のうち最後の『日本』の邦訳本。『日本』は最後の離日(1915年)から10年余り後の1926年に出版された。ウェストンは離日後も友人たちを介して日本の情報を収集し、日本の状況や進路に大きな関心を持ち続けていた(写真㊨は上高地・梓川河畔にあるウェストン碑=撮影1994年4月25日)。

    

 全14章のうち前半部分では「日本アルプスと聖域」「荘厳な祭りと楽しい祭り」「日本の家」「スポーツと娯楽」などのタイトルで実際に見聞した日本の地理や習俗、生活習慣を詳細に紹介している。日本の自然は「驚くべき多様性で構成されている」とし、「山々からは火山の噴火が突発する。大地からは身震いがやってくる。海からは恐ろしい大波が押し寄せてくる。さらには台風が猛威をふるう」と記す。日本を襲う昨今の大災害もこうした自然への畏敬の念の希薄化が一因かもしれない。日本の家屋については質素な中に「集中の原則」が貫かれているとして、その象徴として床の間を飾る掛け軸や生け花を挙げる。

 ウェストン在日時、文明開化で羽織袴に山高帽と洋傘という和洋折衷スタイルが流行したが、「その奇観は信じられないものであった」と振り返る。また関東大震災からの復興に伴い「外国様式」の建物が数多く建てられている現状を「今日の東京には限りない不調和が溢れている」と憂えた。西洋思想の流入などの中で日本人の礼儀作法が急速に失われようとしていることについても「昔からの克己と自制心の精神が衰退することに関しての結果は悪であり、嘆かわしいことである」と述懐した。

 後半部分では出版前年の1925年に制定された普通選挙法、治安維持法などにも触れ、岐路にあった日本の状況を鋭い洞察力で分析している。「選挙権が拡大されることによるさらに大きな結果は、国の公的問題に対する大衆の側の関心が増大し活発化することを意味する」。一方で「日本はなお『男の国』であり、法律……そしてそれ以上に……長い時代の習慣や因習が主として男の視点から物事を見る」と記す。

 日本の女性については「女性とその状態」「今日の日本の若い女性」と最後の2章を割いており、ウェストンが当時、女性が置かれていた立場や地位について深く憂慮していたことを示す。一方で城ノブ(婦人参政権や公娼制廃止などに取り組んだ社会運動家)、津田梅子(女子英学塾=現津田塾大学=の創立者)、吉岡弥生(東京女医学校=現東京女子医科大学=の創立者)たちを取り上げて、新時代を切り開こうとする女性の活躍に期待を寄せた。

 ウェストンは初来日3年目の1891年、初めて北アルプスを訪れ、紀行文で世界に日本アルプスを紹介した。1910年には日本山岳会最初の名誉会員に。梓川河畔では毎年「ウェストン祭」が開かれ夏山シーズンの到来を告げる。本書最終ページにはそこで歌われる「ウェストン祭の歌」(岡村精一作詞・辻荘一作曲)の歌詞が添えられている。「大空にそびえて光る日本の 北 中 南アルプスに 胸をうたれてふみ続け その名を世界につたえたる 日本の友ウェストン ウォルター・ウェストン」。 

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<BOOK> 「動物園の文化史 ひとと動物の5000年」

2014年10月07日 | BOOK

【溝井裕一著、勉誠出版発行】

 筆者の溝井氏は1979年神戸市生まれの文学博士。関西大学文学部准教授で、専門はドイツ民間伝承研究、西洋文化史、ひとと動物の関係史。数年前「ひとと自然の共生」をテーマに講義しているうちにネタがなくなり、新しい話を探すうちに注目したのが「動物園」だった。「もともと動物好きだったこともあって、このテーマにとりつかれてしまった」そうだ。

   

 「『動物コレクション』の起源」「飼いならされた『自然』」「近代動物園の誕生」など、最終章も含めて8つの章で構成する。ヨーロッパの動物園に焦点を当て、その歴史をたどりながら西洋人と動物・自然との関係性を明らかにしていく。「動物園の歴史をふりかえってみると、ひとははるか昔から、自然から切りはなされていくプロセスと並行して、動物コレクションを充実させていったことがわかる」。

 支配階級にとって動物コレクションは「権威と富を誇示する」役割を担い、「外来の珍しい動物をもつことで、他文明との政治的なつながりを宣伝することもできた」。イギリスのヘンリー3世は1254年、フランスのルイ9世から十字軍のお土産としてゾウを贈られた。ロンドン塔には14世紀以降「ライオン塔」という施設があり、力の象徴であるライオンが好んで飼われていたという。

 17世紀に入るとフランスのヴェルサイユ宮殿の庭園内に動物の飼育舎が放射状に広がる「メナジェリー」と呼ぶ展示施設が造られる。その後、オーストリアのシェーンブルン宮殿に造られたメナジェリーは1778年、女帝マリア・テレジアによる宮殿内の公開で「メナジェリーが特権的な施設から、人びとに公開された近代的な動物園へ移行するきっかけをつくった」。

 動物園では外来の動物だけでなく人も展示された。第6章ではドイツの動物商カール・ハーゲンベック(1844~1913)が行った「民族展」を取り上げている。世界の僻地から珍しい民族を連れてきて見世物にする試みは大きな反響を呼び「ヨーロッパの植民地政策を支持するものとして、しばしば称賛された」。民族展が行われた背景として、筆者は①異民族が欧州人より「野生に近いもの」とみなされていた②主催者側が強調する学術的な民族展が研究・教育目的で造られた動物園の趣旨と合致した③主催者と動物園の間に利潤の獲得という共通した目的があった――などを挙げる。

 日本人で初めてヨーロッパの動物園を見たのは1862年の遣欧使節団。ロンドンやベルリンなどの動物園を見て回ったが、「彼らが草履、陣笠、羽織袴に刀をさすといういでたちだったので、ヨーロッパ人は動物よりもこちらをおもしろがって見物していた」そうだ。随行員の1人、福沢諭吉が動物飼育施設を初めて「動物園」と呼んで日本に紹介したという。その後、上野をはじめ国内各地に動物園が造られたが、日本では飼育法や施設の不備などで動物がすぐに死ぬことも多く、「動物園ではなく成仏園」と揶揄された時期もあったそうだ。

 筆者は最終章で動物園の存在意義についてこう記す。「教育や自然の再生といった建前がなくても、わたしたちは動物園を必要とするのではないだろうか。拡大するいっぽうの都市のなかで、野生動物を見る機会が失われていくかぎり、動物園は、わたしたちに自然との結びつきを思い起こさせてくれる、大切な『よすが』なのである」。

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<BOOK> 「植物の奇妙な生活 電子顕微鏡で探る脅威の生存戦略」

2014年09月04日 | BOOK

【著者=ロブ・ケスラーら3人、監修=奥山雄大、訳=武井摩利】

 英国旅行の際、ロンドンのキュー王立植物園を訪れたことがある。芝生で休んでいると、遠くから人懐こいリス(勝手に「ピーター」と命名)が駆け寄ってきた(写真㊨)。随分前のことだが、その場面が昨日のように思い出される。本書はその世界で最も有名な植物園の全面協力で出来上がった「世界で一番美しいシリーズ」の『花粉図鑑』『種子図鑑』『果実図鑑』の3冊のエッセンスをぎゅっと1冊にまとめ上げたもの。

    

 著者は植物学者のマデリン・ハーレー、種子形態学の専門家ヴォルフガング・シュトゥッピー、視覚芸術家のロブ・ケスラーの3人。植物は「確実に子孫を残すために信じられないほど多種多様な戦略を編み出した」。植物の生殖器官である花粉や種子、果実を光学顕微鏡や電子顕微鏡で撮った精細な拡大写真が全144ページの多くを飾る。肉眼では見えない〝小宇宙〟は実に美しい。それぞれがカラフルで不思議な形をしている。

 写真の間で植物の奇妙な生存戦略を分かりやすく解説。花粉は「自然界の建築学と構造工学の完璧な傑作」という。花は「運び屋の生物(昆虫など)を呼び寄せるための多種多様な広告戦略や報酬を発達させた」。死肉にたかるハエを送粉者に選んで進化した花は、見かけも臭いも動物の死骸にそっくりという。

 「植物が昆虫の必要に合わせて適応するだけでなく、昆虫の方も『自分たちの花』に合わせた進化をして、身体や口器の形、採食行動を変えてきた」。これを「共適応」というそうだ。マダガスカルのランの送粉者の姿を予言したダーウィンの逸話が興味深い。彼は細長い距(きょ)を持つ花を見て、距の奥の蜜を吸えるほど長い口を持つ昆虫(ガ)が存在するに違いないと考えた。長さ22cmの口吻を持つ巨大スズメガが発見され、説の正しさが証明されたのはダーウィンの死後数十年のことだった。 

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