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く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「戦国武将と高野山奥之院 石塔の銘文を読む」

2014年08月12日 | BOOK

【木下浩良著、朱鷺書房発行】

 著者は1960年、福岡県柳川市生まれ。高野山大学文学部人文学科国史学専攻卒業、現在、同大学の図書館課長心得(司書)・密教文化研究所事務室長心得で、和歌山県高野町教育委員会副会長も務める。これまでに兵庫県竹野町史、養父町史、大阪府岬町史、和歌山県九度山町史、高野町史の編纂委員を歴任。

    

 高野山東端に位置する奥之院にある墓地群は20万基とも30万基ともいわれる。本書はその中から自ら調査し確認できた戦国時代の武将とその夫人たち124人の石塔について、1人ずつ経歴と銘文を写真とともに紹介する。その多くは建立から既に400年。苔むし磨耗した銘文を読み取る作業の困難さは想像以上だろう。著者も「炎天下や極寒の雪降る中での調査は耐えがたいものであったが、新発見の石塔が見出されたりすると、一気にそれらを忘れさせてくれた」と述懐している。

 高野山内の鎌倉時代から江戸時代草創期の慶長末年(1615年)までの有紀年銘の石造物は奥之院を中心に1969基が存在するという。最古のものは鎌倉中期の建長8年(1256年)銘の五輪塔。全体の半数強の1007基が五輪塔で、大名墓のほとんども五輪塔だった。そのほかは宝篋印塔、石室、石仏、石燈籠など。

 本書では124人を奥之院入り口の一之橋から弘法大師の御廟に向かってほぼ順番通りに紹介する。意外なのはそのうち2割強の約30人を女性が占めること。著者は「高野山は女人禁制のイメージが強く、不思議に思われるかもしれないが、生前に女人禁制であったからこそ、せめて死後は奥之院の弘法大師のお傍で安らかに供養されたい、供養したいと願ったとしても、決して不思議ではない」とみる。

 高野山最大で「一番碑」と称されているのが徳川2代将軍秀忠夫人お江の五輪塔(490.2cm)。基壇と合わせた高さは802.7cmもあり、基壇下部面の広さは8畳敷きほどもある。銘文から息子の駿河大納言忠長が1周忌に際し造立したことが分かる。「二番碑」は浅野家3代目の浅野長晟(ながあきら)夫人、振媛(ふるひめ)の五輪塔。「三番碑」は前田利長の五輪塔で、造立の奉行衆として4人の僧侶を列挙している点は他に例がなく、石材の産出地(攝州御影村)を明記している点も珍しい。

 豊臣秀頼の五輪塔は高さ302cm、淀殿の五輪塔も295cmとともに3m前後と大きい。2人が自害したのは「大坂夏の陣」で大坂城が落城した翌日。だが両塔の造立日は落城の日になっており、銘文にはともに「御取次筑波山知足院」と刻まれている。この知足院の僧侶光誉は大坂冬の陣・夏の陣のとき徳川家康の陣で戦勝を祈願した〝陣僧〟。このことから著者は「家康が秀頼と淀殿の供養のために、その光誉に命じて奥之院に両塔を造立したのではなかろうか」と推測する。

 伊達政宗の五輪塔も総高4m以上あり、その周りを殉死した家臣20人の五輪塔が囲む。上杉謙信と養子の景勝の墓所は江戸初期建築とみられる木造建築の霊屋で、中に2人の位牌が入っている。石田三成の五輪塔は総高267cmで、正面に「宗應逆修」と刻まれる。逆修(ぎゃくしゅ)は生前葬のこと。三成は「宗應」と称して30歳の時にこの塔を造り自身の葬式をしていたことになる。明智光秀のものと伝わる五輪塔は総高178cmで銘文がない。江戸時代中頃のもので「何度作り直しても破損するとの伝承がある」そうだ。

 前田利家の石塔は高さ143.2cmの宝篋印塔。夫人まつは利家が病死すると芳春院として出家する。そして夫の供養のために石塔を造るとともに、そばに自身のため「為御逆修」と刻んだ同じ形の石塔を造った。2つの石塔からも生前の2人の仲睦まじさがしのばれる。高野山を攻めた織田信長の五輪塔もある。御廟橋の近くで総高230cm。「かつて敵対した武将であっても、供養のためには受け入れる高野山の懐の深さを垣間見る、貴重な石造物でもある」。

 徳川3代将軍家光の乳母、春日局の五輪塔は弘法大師の御廟に近い燈籠堂のすぐ傍らに位置する。総高120cmで、前面には法名が刻まれた一対の石燈籠。亡くなる3年前の寛永17年(1640年)に逆修供養をした後に造立した。その場所からも将軍の権威を背景にした春日局の絶大な力の一端がうかがえるようでおもしろい。

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<BOOK> 「オオカミたちの隠された生活」

2014年07月21日 | BOOK

【ジム&ジェイミー・ダッチャー著、岩井木綿子訳、エクスナレッジ発行】

 かつてオオカミは北米大陸のほぼ全域に生息していたが、19世紀後半から20世紀前半にかけて駆除が進み姿を消した。だが、1990年代に入って米国のアイダホ州中部とイエローストーン国立公園で再導入が始まった。著者のダッチャー夫妻(写真㊨)は90年から6年間にわたりアイダホ州でオオカミの群れに囲まれてテント生活を送り、その行動や序列などを詳細に観察した。3本の記録映画はエミー賞の最優秀撮影賞などを受賞している。夫妻は2005年、オオカミの保護と人との共生を目的にNPO「リビング・ウィズ・ウルブズ」を立ち上げた。

 

 本書は「ソートゥース群と共に暮らす」「オオカミの世界」「オオカミの来た道」「オオカミと共存する」の4章で構成する。ソートゥース群とはアイダホ州のソートゥース山脈の麓に放たれ、次第に家族が増えたオオカミの一群。最初の2頭には「目が開いた瞬間から哺乳瓶で乳を与え、彼らの信頼を得て絆を築いた」。その信頼感は夫妻がオオカミに頬を寄せたり、手と前足を合わせてハイタッチしたり、カメラをオオカミの鼻先に向けて撮影したりする写真からもうかがわれる。

 序文は俳優のロバート・レッドフォードが寄せている。「頂点捕食者をオオカミからライフルを持った人間に置き換えたことの影響が、長い時を経てさまざまなかたちで現れてきている」「牧場主、熱狂的な野生生物保護活動家、狩猟家、科学者それぞれが求めるもの。そして、忌み嫌われてきた社会性のある動物、つまりオオカミが必要とするもの。どのようにしてそれらに折り合いをつけるか、私たちは今、その妥協点を探る努力を迫られている」。レッドフォードは夫妻が立ち上げたNPOの名誉理事も務めている。

 6年間の観察を通じて夫妻が痛感したのは「オオカミの社会的な序列」と「群れのメンバー同士の固い絆」という。リーダーはアルファと呼ばれる。アルファは群れの秩序を維持するのが役目。「通常、繁殖するのは雌雄のアルファ・ペアだけ」。序列第2位はベータ。その他の大半は中位に位置し、最下位はオメガと呼ばれる。オメガは服従を示すために、しゃがみ込んで体を小さく見せようとする。食事も最後。その一方でしばしば群れの仲間を誘って遊びに引き入れる。オメガは「群れの緊張を緩和するという重要な役割を担っているからだ」。

 オオカミは人と同じように「友情を育み、終生続く絆を結ぶ」という。「彼らは非常に社会性の強い動物で、群れ、つまり家族に対してとても強い献身的愛情を示す。個々のオオカミがそれぞれを大切に思い、友情を育み、病気や怪我を負った群れの仲間を養うのだ」。群れの1頭がピューマに殺された時には6週間、全く遊びが観察されず、遠吠えも悲しみに沈み、襲われた場所をしばしば訪れては地面の匂いを嗅いでいたという。「彼らが群れの仲間を偲び、喪に服しているように見えた」。

 オオカミたちは米国で1973年に成立した絶滅危惧種法で30年余にわたって保護されてきた。この間、イエローストーン国立公園ではオオカミの復活によって増え過ぎていたワピチ(シカの一種)やコヨーテの数が減り、若木が食べられていたポプラやヤナギなどが生気を取り戻すなど生態系が徐々に回復してきた。だが2011年、米国議会はオオカミを絶滅危惧種リストから除外した。これを機にアイダホ州やワイオミング州では再び、20世紀初頭以来の激しいオオカミ狩りが展開されているそうだ。

 夫妻は6年にわたるオオカミとの触れ合いを通じて「彼らの知性や学習能力、適応能力を考慮に入れれば共存への道が見えてくることが、私たちにはわかってきた」という。「まず必要なのはオオカミが家畜や猟獣、さらには観光や生態系にどんな影響を与えるか、マイナス面もプラス面も含めて偽りなく、徹底的に分析することだ。その次のステップは、オオカミの真の性質を理解し、その性質に反するのではなく、それを生かした努力をすることである。オオカミだけを管理してもだめなのだ。私たち自身のオオカミとの関わり方も管理していかなければならない」。

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<BOOK> 「オオカミが日本を救う! 生態系での役割と復活の必要性」

2014年07月04日 | BOOK

【日本オオカミ協会会長・丸山直樹編著、白水社発行】

 編著者の丸山氏は自然保護文化論、野生動物保護学を専門とする農学博士。シカの研究に20年以上関わってきた丸山氏がポーランドの田園地帯で野生のオオカミ2匹に遭遇したのは四半世紀前の1988年。「それまで植生とシカなどの植食獣止まりだった研究分野に、頂点捕食者オオカミが加わり、ようやく食物連鎖全体が視野に入り、生態系の自然調節機能も何となく理解できるようになった」。5年後の1993年には「日本オオカミ協会」を設立、以来、精力的にオオカミ再導入の必要性を訴えてきた。

   

 全国各地でシカの増え過ぎによる森林の荒廃や生態系への悪影響などが問題になっている。イノシシやサル、アライグマなどによる農業被害もますます深刻化。こうした獣害問題を解決して生態系を保護するには「狩猟・駆除だけでなく、頂点捕食者であるオオカミの復活がどうしても欠かせない」と繰り返し説く。だが、オオカミは童話や民話に必ず悪役として登場し、日本には「送り狼」「狼に衣」といった言葉もある。著者はこうした怖いオオカミ観を〝赤ずきんちゃん症候群〟と呼ぶ。

 オオカミは数十万年前から日本に生息し人と共存してきた。だが100年ほど前に突然姿を消した。絶滅の原因は「野生動物の全国的な乱獲と、当時の行政による強力なオオカミ駆除政策が主因とみられる」。海外では生態系保護のため、いち早くオオカミ復活への取り組みが始まった。米国は1990年代半ばイエローストーン国立公園で世界で初めてオオカミ再導入に踏み切った。ヨーロッパでもEUが保護政策を打ち出し、今では29カ国でオオカミが復活し1万7000~2万5000匹が生息しているという。いない国は英国、オランダ、ベルギーなど数カ国にすぎないそうだ。

 本書は様々な疑問に答える形で、オオカミに関する誤解と偏見を解くことに力を注ぐ。人を襲うのでは?「オオカミは人への恐れと警戒心が強く、人との遭遇を避けようとする」「オオカミによる人身事故の発生の確率は限りなくゼロに近い」。ヨーロッパでの過去50年間の人身事故は9件にすぎず、うち5件は狂犬病にかかったオオカミによるもの、残り4件は不用意な餌付けなどによる人馴れが原因という。欧米の多くのオオカミ研究者の間では「健康なオオカミはヒトを襲わない」というのが今や定説という。

 最近読んだ『ヒトは食べられて進化した』(化学同人発行)にも「北アメリカではこれまで、人間はオオカミ(狂犬病のオオカミを除く)に一度たりとも襲われていない」とあった。ただ「ヨーロッパのオオカミは中世以前から現代までそれとは正反対の記録を残していた」として、いくつかの事例を挙げている。時代を遡るが、エストニアでは「1804~53年の間に111人がオオカミによって殺され、その中の108人が子ども(平均年齢7歳)だった」という。この数字をどう捉えたらいいのだろうか。

 狭い日本にオオカミの居場所はあるのか?「人口の大部分は国土面積のわずか十数%にすぎない平野部の都市域に集中しており、オオカミ生息可能域は各地に広大な面積で存在している」。羊や牛などの家畜が襲われないか?「夏季を中心にしたヒツジの野外飼育は小屋の周りの狭い飼育場に囲われていて、オオカミによる捕食害発生の可能性は考えられない」「成牛はオオカミにとっては体が大きすぎて捕食の対象になりにくい」。オオカミを復活させるとしたら、どこから連れてくるのか?「ユーラシア大陸に広く分布するタイリクオオカミ(ハイイロオオカミの1つの亜種とされる)のうち日本に一番近い地域に生息するものが第一候補」。

 生態学者はオオカミを「キーストーン(要石)種」と呼ぶそうだ。「オオカミ復活論は好き嫌いや恐れなどによる感情論ではなく、あくまで論理的な思考にもとづいて議論し、合理的な判断を下すべき問題。一言でいって、最近の獣害の激化を見るならば、オオカミ復活をためらっている状況ではない」「奇人変人と見られようが、オオカミ復活は日本の国土を救うために必要なことなのです」。著者の固い信念と意気込みがひしひしと伝わってくる。復活へのカギは国民の間に蔓延する〝赤ずきんちゃん症候群〟を払拭しながら、同時にどう行政側の理解を得ていくかだろう。

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<BOOK> 「森とともに生きる中国雲南の少数民族―その文化と権利」

2014年06月14日 | BOOK

【比嘉政夫監修、大正治・杉浦孝昌・時雨彰著、明石書店発行】

 雲南省は中国の南西部に位置する広大な山岳地帯。面積は日本よりやや大きく、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する。2002~03年、日中の研究者12人がメコン川最上流に当たる同省南西部の9つの村の少数民族(タイ族、ワ族、ハニ族など)を対象に、伝統的な焼畑など森林の利用状況や森林に関する信仰などについて現地調査した。本書はその調査を踏まえつつ、森林と共生する少数民族の生活様式や森林文化の現代的な意義を指摘する。

     

 中華人民共和国成立直後の1950年代、中国では食料増産のための「大躍進」政策と人民公社化運動で、木材の伐採が全国規模で行われた。さらに60~70年代の文化大革命の時期には「改天換地」のスローガンの下、山や谷が全て段々畑に改造された。少数民族の多くが万物に霊的存在を認め、山や森林にも神が宿ると信じていたが、この間、神樹や聖域の森林も容赦なく伐採された。その結果、「森林破壊が進んだだけでなく、元来あった森林利用権も多く変化を被ったので、各地で権利紛争が多発した」。

 転機となったのが98年に発生した長江(揚子江)と黄河での大洪水。これを機に中国政府は「退耕還林」という政策を打ち出した。「過去40年来進めてきた、森林を農地に変えるコースを180度転換して、耕地を森林に戻す」方向に舵を切った。「世界最大の自然環境対策事業」と自負する政策で、退耕地造林面積だけで906万ヘクタール(日本の森林総面積の2.6分の1)に達した。ところが2007年、政府は「退耕還林の暫時停止」を発表し急ブレーキをかける。「このまま続けると、農地と食料が不足する恐れが出てきた」という判断によるとみられる。

 少数民族は多くが焼畑農耕を山林利用の中核に据えてきた。1年ないし数年の短期間耕作した後、長い間休閑して森林を回復する。休閑中に再び土壌に養分が蓄積され、休閑林は山菜や薬草、果実、小動物などを採集して自給や販売もできる。少数民族はそれを何百年も繰り返してきた。

 焼畑といえば森林破壊の元凶とみなされることが多い。中国政府も退耕還林策を打ち出した際、「長江の大洪水は上流の傾斜地において長期にわたって続いた粗放農法が原因」と、責任を焼畑に転嫁した。だが本書は「化学肥料にも農薬にも頼らない点で、伝統的焼畑は人類生存と生命健康の観点からいえばすぐれた農法」「農林業を復活させるのは農業と林業を同時に営むアグロ・フォレストリだと言われているが、焼畑こそその元祖」と指摘、森林の荒廃が進み土砂崩壊が増えている日本でも「焼畑を維持復活していきたい」と望む。

 最終の第Ⅲ部第3章「新しい森林政策と思想」では、①森林保護は少数民族文化の保存をベースに②少数民族の土地・森林利用権を認め充実する③自然との共生を優先し商品経済を制御する――ことを提言する。そして最後をこう結ぶ。「新しい森林政策は、森林に生きる少数民族を排除するものであってはならない。彼らの多くは焼畑という生業によって地域々々の豊かな生態環境を生み出し維持してきたのであるから、焼畑農法を禁止するのではなくそれを活かす方向で森林政策を再構成すべきである」。

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<BOOK> 「京都 まちかど遺産めぐり なにげない風景から歴史を読み取る」

2014年06月08日 | BOOK

【編著=千田稔(代表)、本多健一、飯塚隆藤、鈴木耕太郎】

 編者代表の千田稔氏は現在、奈良県立図書情報館館長や帝塚山大学特別客員教授などを務める。本書はかつて立命館大学大学院の客員教授として日本文化論を担当した千田氏と、現在各方面で活躍している当時の院生ら3人との共作。京都市内と周辺で計38の〝街角遺産〟を取り上げて、それぞれの歴史的背景などを探っている。

    

 梅小路蒸気機関車館はSLを動態保存していることで人気だが、ここが戦時中の70年前、米軍の一大目標になっていたという。原爆投下目標に当初、京都が挙がっていたことは広く知られているが、その標的が梅小路機関車庫(1914年建設、重要文化財)だったというのだ。扇形の車庫は上空から見ても目立つ存在で格好の標的だった。原爆投下が避けられたのは「戦後処理において日本との和解が長期間不可能となり、逆にソ連の接近を可能にする」という判断からだったという。

 京都には円山公園や船岡山公園など8カ所に「ラジオ塔」が残っている。初のラジオ塔は1930年に大阪の天王寺公園に設置された。以来、40年前後を中心に爆発的に全国に広がった。その目的は大きく分けてラジオ体操の普及とスポーツの実況の2つ。現在、全国では約20基が確認されている。京都に多く残っている理由は不明だが、「すべて公園という比較的、改修などの手が入りにくい場所に設置され」「市民の間に歴史的資産として認知する向きが広がっているからでは」と推測する。

 他にも、平城京の正門である羅城門が930年に強風で倒壊してから、京の南の入り口は東寺南大門となり、長く日本全国の距離原標として位置づけられた▽嵐山と愛宕神社の間には愛宕山鉄道が走っていたが、1944年、線路の金属類回収を目的とする〝不要不急線〟指定で休業に追い込まれ、戦後、叡山線や鞍馬線が再開する中でそのまま廃線になった▽京都御苑の東南にあるグラウンド富小路広場は明治時代、常設の博覧会の会場だった――など興味深い話題を満載している。

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<BOOK> 岩波新書「唐物の文化史―舶来品からみた日本」

2014年06月05日 | BOOK

【河添房江著、岩波書店発行】

 著者は1953年生まれ。小学生の頃から歴史小説に読みふけっていただけに〝歴女のはしり〟を自任する。文学博士。現在、東京学芸大学教授、一橋大学大学院連携教授を務める。専攻は「源氏物語」を中心とする平安文学。異国からの舶来品全般を総称する「唐物」というテーマに目覚めたのも、「源氏物語」の梅枝巻に出てくる唐物に着目したことが発端という。国文学、歴史学、美術史など学際的なテーマとあって、各方面から多角的に掘り下げており読み応え十分。

    

 表紙をめくると、きらびやかな舶来品のカラー写真が8ページを飾る。正倉院の螺鈿紫檀五弦琵琶や香木の蘭奢侍(らんじゃたい)、中国・南宋時代の曜変天目、珠光青磁茶碗、ペルシャのタペストリーを使った豊臣秀吉着用の鳥獣紋様綴織陣羽織……。本書はこうした唐物が時の政治的権力や日本文化史の上で果たした役割を、各時代のキーパーソンにスポットを当てながら紹介する。キーパーソンとして聖武天皇や嵯峨天皇、藤原道長、平清盛、足利義満・義政、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・吉宗を取り上げた。

 聖武天皇の遺品に舶来品が多いのは「積極的に唐の文物を採用した国際派の天皇であった」ことに加え「舶来趣味の人物」だったことを理由に挙げる。正倉院の五弦琵琶は遣唐使・吉備真備がもたらしたという説があるそうだ。嵯峨天皇はその五弦琵琶も含め正倉院の楽器や屏風を借りたり買い取ったりした。それらの文物を「唐風の文化国家としての威厳を国際的に示すため」、渤海国使の歓待の場などで活用したのではないかとみる。

 「藤原道長の為政者としての権力も文化的権威も、朝廷を凌駕する質量ともに充実した舶載品によって支えられた」。平清盛は日宋貿易を独占し平氏に巨万の富をもたらした。「平家一族にとって、日宋貿易で得た唐物の富は、経済的安定基盤であったばかりか、旧貴族層や上皇をおさえて平家政権を樹立し、文化的覇者となるための必須の糧だった」。ただ当時の唐物ブームを冷ややかに見る人物もいた。吉田兼好は「徒然草」に「唐の物は薬の外はなくとも事欠くまじ」(百二十段)と記した。

 信長は唐物の茶入「つくも茄子」など秘蔵の名物茶器をふんだんに使って茶会を開き、自らの権力を誇示した。同時に功績を上げた家臣には茶器を惜しげもなく与えて恭順を求めた。秀吉の名物茶器は〝信長御物〟の量を上回り、秀吉の死後、〝太閤御物〟は家康の元に吸収される。ただ「秀吉ほど名物茶道具に執着しなかった家康は、名物を贈与財として惜しげもなく政治的に活用していく」。

 名物茶器の持ち主の変遷を辿ると――。「つくも茄子」足利義満→義政→村田珠光→越前大名・朝倉宗滴→小袖屋山本宗左衛門→松永久秀→信長→秀吉…、「初花肩衝(はつはなかたつき)」足利義政→信長→嫡子信忠→家康→秀吉→宇喜多秀家→家康→松平忠直…、「投頭巾(なげずきん)肩衝」村田珠光→娘婿宗珠→奈良屋又七→千利休→秀吉→家康→秀忠…。その変遷は主従の関係や様々な思惑を垣間見せてくれる。

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<BOOK> 中公新書「スキマの植物図鑑」

2014年05月24日 | BOOK

【塚谷裕一著、中央公論新社発行】

 タイトルの「スキマ」は隙間。文字通り、アスファルトの割れ目や電柱の根元、石垣やブロック塀の小さな穴などを指す。本書は都会の真ん中でこういった隙間から顔を出して力強く生きる身近な植物たち約110種類を、春・初夏・夏・秋・冬と季節ごとにカラー写真で紹介。それぞれの植物の特徴や似た植物との見分け方などの解説も添えている。

    

 著者塚谷氏は1964年鎌倉市生まれで、現在、東京大学大学院教授。専門は植物学で、葉の発生を司る遺伝子経路の解明を主なテーマにしている。その傍ら、趣味として長年、スキマ植物の探索・撮影に取り組んできた。著書に『植物の<見かけ>はどう決まる』『植物のこころ』『変わる植物学 広がる植物学』など。

 スキマ植物から思い起こされるのが10年近く前、話題を集めた〝ど根性大根〟。アスファルトの隙間から生えた大根が大きく成長し、植物のど根性ブームの先駆けとなった。だが、著者は「つい何でも私たちヒトになぞらえて擬人化して見てしまう習性」に疑問を投げ掛けながら、こう指摘する。

 「一見、窮屈で居心地の悪い場所に思えるが、こうしたスキマは実は植物たちの『楽園』なのだ」「隙間に入り込むことに成功した瞬間、その植物はそのあたり一帯の陽光を独り占めできる利権を確保したことになる。これほど楽なことはない」「隙間に生えるということは、過酷な環境への忍耐などではなく、むしろ天国のような環境の独り占めなのだ」――。

 「隙間を好む花の代表」として本書で詳細に紹介しているのがスミレの仲間たち。タチツボスミレやヒゴスミレなど10種類を写真とともに取り上げている。タネに付着する「エライオソーム」という脂質分はアリの大好物。アリは巣に持ち帰って、その部分を餌にした後タネを放棄する結果、アリが掘った隙間の中から芽吹くというわけだ。カタバミやタツナミソウのタネも同様にアリによって運ばれる。

 日本在来のゲンノショウコに似た北米原産の帰化植物、アメリカフウロはなんと放置されたトラックの荷台の隙間から生えていた。実が熟してはじけたタネがたまたま荷台の上に着地したのだろう。民家の雨樋の水が流れ込む集水器からは青々とした立派なクロマツが生えていた。背後には大きな松の木。そこからタネがくるくる舞って雨樋に落ち、枯葉などがたまった集水器の所で芽を出したに違いない。

 他にコンクリートの割れ目やブロック塀、石積みの間などから顔を出すオダマキ、ノースポール、ユキヤナギ、ヒメヒオウギ、キンギョソウ、ヤグルマギク、ドクダミ、オオムラサキツユクサ、ペチュニア、ヒガンバナ、タマスダレなどの草花も紹介している。

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<BOOK> 「高峰秀子の言葉」

2014年05月04日 | BOOK

【斎藤明美著、新潮社発行】

 半世紀にわたって300余本の映画に出演した大女優、高峰秀子(1924~2010年)。編集者・ライターの著者は取材を通じて引退後の高峰に身近に接し、晩年は養女として付き添った。本書は高峰が生前、著者の面前でさらりと口にした言葉の数々を、その場の光景や空気も交えながら紹介する。著者は「高峰の物言いが好きだ」と記す。「伝法だが、品がある。言葉に嘘がなかった。飾りや婉曲、蛇足が全くなかった」。潔い率直な表現の中に高峰の鋭い感性や波乱の人生が凝縮されている。

     

 『「親兄弟、血縁」と聞いただけで、裸足で逃げ出したくなる』。これは著者が高峰と死別するまでの20年間に親族について聞いた唯一の言葉。5歳のとき子役としてデビューした高峰はほとんど学校に通えず、その双肩に養父母をはじめ十数人の親類の生活がかかっていた。高峰の心の底には親族への強い拒否反応が鬱積していた。だから55歳で女優を引退した後、全ての血縁と縁を切った。

 『学校にゆかなくても人生の勉強は出来る。私の周りには善いもの、悪いもの、美しいもの、醜いもの、なにからなにまで揃っている。そのすべてが、今日から私の教科書だ』。これは14歳のときに呟いた言葉。著者が直に聞いたものではなく、自伝「わたしの渡世日記」の中に登場する。高峰は「女学校に入れてやる」という条件に引かれ松竹から東宝に移ったものの、仕事に追われてほとんど登校できなかった。

 『私、その成れの果てです』。高峰が70代初めの頃、近くの魚屋に行ったときのこと。店主に近くに住んでいることを告げると、「あそこには女優の高峰秀子さんが住んでいるんですよ。知ってました?」と店主。それに対し、間髪入れずに言ったのがこの言葉。驚いた店主は口をあんぐり。その痛快な場面が目に浮かぶ。

 『他人(ひと)の時間を奪うことは罪悪です』。これは養女になる前から「おかあちゃん」と呼んでいた高峰の声を聞きたいと、何度も電話していた著者本人に対する言葉。高峰は相手の都合などお構いなしに会話を強制する電話を嫌っていた。著者は高峰が自分から誰かに電話している姿を見たことがなく、ファンからの電話には「手紙にしてください」と応えていた。

 『こんな所で喋ってないで、うちへ帰って本でも読めッ』。午後3時すぎ、東京のホテルでのインタビュー後、席を立って店内を見回すと中高年の女性ばかりで埋め尽くされていた。そこで著者だけに聞こえる音量で発したのがこの言葉。『男の人は職場で見るに限ります』は、夫で映画監督の松山善三との馴れ初めを聞いていたときの発言。高峰は『仕事場で見ると、特に男はその人がむき出しになるからね』と続けた。

 他にも快哉を叫びたくなる言葉、示唆に富む言葉、耳に痛い言葉が並ぶ。『人はあんたが思うほど、あんたのことなんか考えちゃいませんよ』『食べる時は一所懸命食べるといいよ』『私はイヤなことは心の中で握りつぶす』『緊張してたら太りませんッ』『自分から女優というものをとってしまったら何もない、そういう人間にはなりたくないと思った』『いい思い出だけあればいいの。思い出はしまう場所も要らないし、盗られる心配もない』……。

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<BOOK> 「記者たちは海に向かった 津波と放射能と福島民友新聞」

2014年04月23日 | BOOK

【門田隆将著、角川書店発行】

 東日本大震災から3年余。あの時、福島県は激震と津波に加え原発事故にも見舞われた。創刊110年を超える地元紙、福島民友新聞では取材中の若手記者が犠牲となり、新聞を発行できない〝欠号〟の危機にも直面していた。本書は丹念な取材を基に、未曾有の難局に直面した新聞人の姿とその時々の思いを克明に描写している。

    

 巻頭に海を背に男性6人が並ぶカラー写真。民友新聞の相馬・双葉ブロックの記者たちで、震災2日前の送別会のときに撮った。そのうちの1人熊田由貴生(24)は津波の取材中に亡くなる。その直前、軽トラックに向かって「来るな」と合図を送り続け男性の命を救っていた。取材中の他の1人は自分の方へ逃げてきた老人と子どもを救えなかったことに今も自分を責め続けているという。

 民友新聞はその日、停電で自家発電機もなかなか動かなかった。朝刊早番(第7版)は結局、災害協定を結ぶ東京の読売新聞で紙面を制作し、印刷は自社の郡山工場で行った。欠号になることなく創刊以来の〝紙齢(しれい)〟をつなぐことができた。その新聞が読者の元に届いたのは「自身が震災の被災者でありながら、それでも新聞配達をおこなった人々が数多くいた」からだ。

 熊田記者の遺体は震災から3週間後にようやく見つかった。上司が棺の上に無惨な被災地の大写真が載った震災翌日の朝刊を置きながら「熊ちゃん、こんな風になったんだよ……」と呟いた。民友新聞は最後まで仕事と向き合った熊田記者を忘れないため、2013年「熊田賞」を設けることを決めたという。

 第1章「激震」から最終第17章の「傷痕」まで記者をはじめ関係者の生々しい証言が続く。「私はお墓にひなんします。ごめんなさい」。こう遺書を残して、避難生活していた93歳のおばあちゃんが自殺したという話は衝撃的だった。様々な証言を通して、福島の人々が体験した恐怖と不安が改めて直に伝わってきた。

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<BOOK> 「鶴子と雪洲―ハリウッドに生きた日本人」

2014年04月14日 | BOOK

【鳥海美朗著、海竜社発行】

 表紙のタイトル「鶴子と雪洲」の左側にやや小さく「日本人初のハリウッド女優青木鶴子と世界で活躍した早川雪洲の愛」。2人は草創期のハリウッド映画界で知り合い、1914年4月14日に婚姻届を出した。ちょうど100年前のきょう。異色の日本人俳優2人は映画ファンから「ツル」「セッシュウ」と呼ばれトップスターとして人気を集めた。

    

  早川雪洲といえば「戦場にかける橋」(1957年)。本書を手にする少し前、偶然にもDVDで数十年ぶりに観たばかりだった。舞台は第2次世界大戦中にタイとビルマの国境付近にあった日本軍の捕虜収容所。雪洲はその収容所長「斎藤大佐」を重厚な演技で圧倒的な存在感を示した。正直なところ、雪洲の映画はこれしか観たことがなく、青木鶴子のことは全く知らなかった。

 著者は産経新聞の元記者で、外信部長、編集長、論説委員などを歴任して昨年6月に退社。これを機にロサンゼルス特派員時代のハリウッド取材に加え、鶴子の手記や雪洲の自伝などを基に本書をまとめた。執筆の狙いを「あとがき」にこう記す。「『国際俳優』として一世を風靡した夫の雪洲に比べて注目されることが少なかった妻・鶴子の足跡に照明を当てることだった」。タイトルを「雪洲と鶴子」ではなく「鶴子と雪洲」としたのもそんな思いからだろう。

 鶴子の母親は「オッペケペー節」で知られる川上音二郎の妹。9歳の時、音二郎一座とともに子役として渡米したことが波乱に富む人生の始まりだった。米国では小児保護法令で子どもを夜間舞台に立たせることが禁じられていた。このため鶴子は青木瓢斎という日本人画家に預けられ、瓢斎没後は鶴子が渡米直後に知り合った2歳年上の女性ジャーナリストが〝養母〟となった。

 その女性が演劇学校に通っていた鶴子をハリウッドの関係者に紹介し、映画に出演することに。デビュー作は「ツルさんの誓い」(1913年)。英語を自在に操る日本人形のような鶴子は大きな話題を集めた。その鶴子がたまたまロスで雪洲主演の演劇を見て、雪洲に「大物の片鱗」を感じた。それを所属映画会社の社長に伝えたことが雪洲のハリウッド入りにつながった。「ツルがいなければ、セッシュウという伝説のスターが誕生することはなかった」。著者がこう繰り返すのもそのためだ。

 雪洲が出演した「神々の怒り」や「タイフーン」は大ヒットし、雪洲はその後、米国をはじめ、日本、フランス、英国、ドイツと5カ国の映画100本以上に出演した。一方、鶴子は結婚後「家庭が第一、女優は第二」と考えて1923年には女優業を引退した。

 だが「日本の芸能史上、早川雪洲ほど女性遍歴を重ねた俳優は少ない」こともあって、鶴子の苦労は絶えなかったようだ。雪洲は新人女優たち2人との間に男1人女2人をもうけたが、鶴子は3人を自分の子どものように可愛がった。70歳を過ぎて鶴子にハリウッドから声が掛かった。37年ぶりに出演した映画は「戦場よ永遠に」。日本でも1960年秋に公開された。鶴子はその1年後、71歳で急逝。雪洲は12年後、87歳で逝った。

 長男の雪夫(1921~2001)は生前「私に限りない愛情を注いでくれた」と鶴子に感謝し、女優としても尊敬していたという。一方で、父親の雪洲には強い反発を抱いていたようだ。雪夫は戦後、外国テレビ映画の輸入・販売会社で日本語の吹き替え台本づくりを担当した。「ララミー牧場」「名犬ラッシー」「ボナンザ(カートライト兄弟)」――。どれも懐かしい番組ばかりだ。

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<BOOK> 岩波現代全書「東アジア流行歌アワー」

2014年04月11日 | BOOK

【貴志俊彦著、岩波書店発行】

 著者は1959年兵庫県生まれで現在、京都大学地域研究統合情報センター教授。専門は東アジア近現代史。主な著書に「二〇世紀満洲歴史事典」「模索する近代日中関係―対話と競存の時代」などがある。本書では東アジア・ポピュラー音楽関係の膨大な和書や洋書、アジア言語図書に当たって、その栄枯盛衰を詳細に辿っている。

   

 「東アジアの流行歌を、時代性・地域性・社会性の3つの側面から説き起こすこと」。序章に本書の目的についてこう記す。副題に「越境する音 交錯する音楽人」。戦前の東アジアでは歌曲や音楽人が国境を跨いで交流したが、著者は大きく分けて日本本土とその植民地の「帝国圏」と、中国本土と南洋の華僑社会の「華語圏」に二分できるとみる。

 第1章は「東西音楽の融合―ダンス音楽とレコード歌謡の幕開け」。そこから第6章の「植民地と革命の継続―香港と中国」まで時代を追って流行歌の変遷を辿る。この間の第2~4章では戦前~戦中の「アリラン」ブームや「満州歌謡」ブーム、「夜来香」「支那の夜」「蘇州夜曲」など〝大陸歌謡〟のヒット、朝鮮語流行歌の禁止などについて触れる。第5章「戦争の残影」では台湾や韓国での日本語歌謡一掃の動きを追う。

 東アジアでの流行歌の終焉時期を「中国は1950年代(おそらく北朝鮮も)、日本は70年代、韓国は80年代、台湾は90年代」とみる。日本で58年に始まった「ロッテ歌のアルバム」は玉置宏の名調子で人気を呼んだが、約20年後の79年に終了した。グループサウンド台頭の中で流行歌離れが加速した。台湾、朝鮮半島は戦前~戦中、日系レコード会社の拡張を支えたが、「皇民化運動の進展とともに台湾語、朝鮮語の使用を禁じ、日本語で統一させようとしたことこそ、流行歌の衰退を促すことになった」と指摘する。

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<BOOK> 「清閑の暮らし 隠者たちはどんな庵に住んでいたのか」

2014年04月04日 | BOOK

【大岡敏昭著、草思社発行】

 著者大岡氏は1944年神戸市生まれ、九州大学大学院博士課程(建築学専攻)修了。古代~現代の日本・中国の住宅とその暮らしの風景を研究している。現在、熊本県立大学名誉教授。著書に「日本の住まい その源流を探る」「江戸時代 日本の家」など。  

 本書では世俗を離れ清閑の暮らしを送った日本・中国の著名な隠逸詩人8人を取り上げ、詩歌や日記などからそれぞれの人生の軌跡をたどる。その8人とは古代中国の陶淵明と白楽天、平安中期の兼明(かねあきら)親王と慶滋保胤(よししげのやすたね)、平安末期~鎌倉時代の西行と鴨長明、江戸時代の芭蕉と良寛。彼らが雨露をしのいだ庵のイラストも添えている。

       

 著者は8人の共通点として①自然をこよなく愛した②隠棲したとはいえ人との関わりを大切にした③着るものや食べ物に乏しく、住む家はあばら家だったが、それに頓着せず天命として受け入れた④終生自らを修める生き方を貫いた――などを挙げる。そして「かれらの詩歌や句を読むとき、その哀しいまでの誠実な生きざまと生涯に胸打たれること、たびたびであった」と振り返る。

 陶淵明は上官に媚びへつらう役人生活が全く合わず、世俗との関係を断ち切って故郷での隠棲の道を選ぶ。自給自足の貧苦の生活は没するまで続くが、心が安らぐ自由な暮らしに満足していたようだ。晩年の詩「詠貧士」の末節には「已(や)んぬる矣(かな)何の悲しむ所ぞ」とある。

 中唐の詩人、白楽天は科挙に合格し官職に就くが、たびたび左遷させられた。そんな中で選んだ生き方は陶淵明のような世俗を逃れた暮らしではなく都にあって〝心の隠棲〟といえるものだった。「老子のいう『知るを足る』の思想である。また易経の『天を楽しみ命を知る、ゆえに憂えず』の思想でもあった。楽天という字はそのような意味でもあった」。白楽天は琴と詩と酒を〝三友〟とした。

 平安~鎌倉時代には多くの貴族や武士が出家し、さらに寺も出て漂泊の旅に出た。諸国行脚は「苦難の修行の旅であり、また物乞いの旅でもあった」。彼らは「乞食聖(こつじきひじり)」と呼ばれた。

 その1人、西行は23歳のときに出家した。都に近い東山や嵯峨、小倉の山里に質素な庵を結び、たびたび諸国を行脚した。著者は西行の庵の広さを「一間(当時の寸法で約3m)四方」と推測する。「あばれたる草の庵のさびしさは風よりほかに訪(と)ふ人ぞなき」(山家集)。西行にとって風は友でもあった。

 西行は2090首の歌を遺したが、直接家族を詠んだものはない。出家時にまだ2歳ほどとみられる娘は後に出家し、母を追って高野山で尼になったという。鴨長明の出家は50歳のとき。「方丈記」には「もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし」とあり、西行と違って家族はなかったようだ。

 芭蕉は37歳のとき江戸市中から場末の深川の庵に隠棲、自らを〝乞食の翁〟と呼んだ。庵の周りには大好きな芭蕉の木を植えた。芭蕉は同じ武士出身ということもあって西行を敬慕した。しばしば旅に出た目的も「西行が旅で和歌をきわめたように自分の俳諧の新しい道を探ることにあった」と著者はみる。

 芭蕉は故郷伊賀上野にたびたび立ち寄ったが、芭蕉を慕った良寛も故郷越後への思いが強かった。帰郷後の約20年を山中の「五合庵」で過ごした。庵のみずぼらしさを「其れ鳥の巣の若(ごと)く然り」と詩に詠んだ。そこで坐禅を組み、托鉢に出ては村の子どもたちと手まりなどで遊んだ。「汚れた世俗を捨てたかれにとって、子どもたちの遊びは澄みきった清らかな世界であった」。

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<BOOK> 「老楽国家論 反アベノミクス的生き方のススメ」

2014年03月30日 | BOOK

【浜矩子著、新潮社発行】

 〝アベノミクス〟を標榜する安倍内閣が発足してまもなく1年半。今春闘では円高に伴う業績回復で大手企業の相次ぐベア回答が新聞紙上をにぎわした。これに対し著者は『ビックイシュー』などで「春闘劇場の浮かれ騒ぎに少し泣きたくなってきた」と嘆いた。日本の労働環境はこの10年ほどで様変わり、今や非正規雇用が全体の4割を占める。世論調査でも景気回復を「実感しない」という声がなお大勢を占める。日本全体を「豊かさの中の貧困問題」が黒雲となって覆う。

   

 著者は安倍政権が掲げるスローガン「日本を取り戻す」にまず異を唱える。「今の日本は、世界の背中を目指して頑張っていた時代の日本ではない。過去を『取り戻す』ことにこだわっていればいるほど……未来を展望することが出来なくなる」「不似合な若さへの郷愁に浸るのは大人げない」。そして、今の日本の〝真像〟は「豊かさの中の貧困という問題を抱えた成熟国家」であると指摘する。

 OECD(経済協力開発機構)の調査によると、日本の相対的貧困率は先進30カ国の中で4番目に高い(2004年14.9%)。その数値はなお上昇を続けている(2010年16.0%)。著者は「豊かさの中の貧困」問題は「人間の冷たさの産物」とし、これが続くようなら「あまりにも人の痛みに無頓着な精神風土だ」という。

 全5章のうち2つの章を欧米諸国の国家像の分析に当てる。成熟した〝老楽国家〟日本の本来の姿を求めるのが目的。その結果「イギリスの姿はかなりの程度まで、老楽国家の理想像に近い」とし「ドイツの姿からも学ぶべきことは多い」と指摘する。さらにベルギー、スイス、デンマークといった小国にも注目する。「いずれも実に強烈な個性を持ち……したたかに生き抜いている」。

 最後に老楽国家に必要な要素を列挙する。過去を振り切る思い切りの良さ▽現実を直視する勇気▽国境無き時代に生きていることを認識する時代感覚▽小国たちの多様なしたたかさに学ぶ感性……。そして「老楽の域に入りたければ人の痛みを我が痛みとして感じとる感受性が必要」とし「グローバル時代をすいすいと生きる大人の国の姿を、地球的世間にみせてあげて欲しいものだ」と結ぶ。

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<BOOK> 「命の輝き 若き遣唐使たち―国を背負い唐に渡った使節の実像」

2014年03月22日 | BOOK

【大原正義著、叢文社発行】

 1000年以上前の7~9世紀、唐の都長安を目指して遣唐使が派遣された。約260年間に合計17回。造船技術が未熟だった時代のこと、渡航はまさに命懸けだった。遣唐使の中には二十歳前後の若い留学生(るがくしょう)や学問僧も多かった。著者は序章に「困難を乗り越えて、命と引き替えに志を遂げた多くの若者たちがいた事実に、魂の揺さぶられる思いがする」と記す。

    

 10年前の2004年、中国・西安市で井真成(いのまなり)の墓誌が出土し公開された。井真成(唐名。日本名には諸説あり)は19歳のとき第8次遣唐使船で派遣された留学生。36歳のとき長安で没した。墓誌には死を惜しんだ玄宗皇帝が高位の役職を賜ったことなどが刻まれていた。当時、多くの日本人が唐に渡ったが「墓誌が発見され、その存在が確認されたことは奇跡に近い」。

 同じ第8次遣唐使船には井真成と同年齢とみられる阿倍仲麻呂も乗っていた。仲麻呂は日本人として初めて官吏登用試験「科挙」に合格し、玄宗皇帝に重用された。入唐15年後に第9次遣唐使船が渡ってきたとき、望郷の思いから帰国を申し出るが却下されている。これも異国人としては異例の出世を遂げ高位に昇りすぎたことが一因だったらしい。

 それから19年後、第10次の遣唐使船が入ってきた。仲麻呂は再度帰国の許しを申し出たところ、玄宗はようやく認めてくれた。「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも」。仲麻呂が帰国船の船上で詠んだといわれる。ところが出帆後、暴風雨で船が安南(ベトナム)に漂着、仲麻呂らは捕らえられた。どうにか脱出して長安に戻ったものの、仲麻呂の帰国は結局かなわなかった。

 万葉集では遣唐使船を「四つの船」と呼んでいる。第7次から1度に唐に渡る遣唐使船が4隻になったことによる。朝廷には1船でも唐土につけばよいという考えがあったらしい。第10次では帰国船4隻のうち仲麻呂の船は遭難するが、別の第2船は順風に乗って九州・薩摩に漂着した。この船には後に唐招提寺を開いた鑑真が乗船していた。渡日は鑑真にとって6度目の挑戦だった。

 唐に渡った留学生や学問僧の中には唐の女性と恋愛し子どもをもうけた人も多いとみられる。阿倍仲麻呂と共に乗った船が遭難し帰国を果たせなった藤原清河には結婚した唐の女性との間に喜娘(きじょう)という娘がいた。清河没後、喜娘は「亡き父の国日本を一目見たい」と願い出た。これが皇帝に認められ、喜娘は第14次の帰国船で日本に向かい天草に漂着したという。

 遣唐使に選ばれることは大変な名誉だったが、既に地位や名誉のある人の中には命を懸けてまで行きたくないという者もいたようだ。航路が北路から南路になった第7次以降、仮病を使って辞任を申し出る人が目立ったらしい。最後の遣唐使となった第17次では病気を理由に拒否した小野篁が官位を剥奪され隠岐島に流されている。この第17次では往路復路とも遭難が頻発、4割を超える260人余が犠牲になった。

 614年に始まった遣唐使の派遣は894年、第18次の大使に任命された菅原道真の建議により廃止が決まった。だが、この間に先進国家だった唐から吸収したものは多い。国の内外で混迷が深まる中、1000年以上前に新しい国づくりのため海を渡った多くの若者がいたことに思いを馳せることも意義深いのではないだろうか。

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<BOOK> 「名曲の暗号 楽譜の裏に隠された真実を暴く」

2014年03月20日 | BOOK

【佐伯茂樹著、音楽之友社発行】

 著者は早大卒業後、東京芸大でトロンボーンを学んだ。現在はピリオド楽器(作曲当時の古楽器)を中心にした演奏活動の傍ら、大学で楽曲・楽器に関する講義をしたり、音楽雑誌に月評やコラムを執筆したり。著書に「管楽器おもしろ雑学事典」「オーケストラ・吹奏楽が楽しくわかる楽器の図鑑(全5巻)」「名曲の『常識』『非常識』―オーケストラの中の管楽器考現学」などがある。

    

 4章構成で、第1章「常識を疑うと見えてくる名曲の真相」ではまずベートーヴェンの交響曲第五番「運命」を取り上げる。冒頭の「ダダダダーン」について扉を叩く音ではなく鳥の鳴き声だったのではないかという。第五が「運命」と呼ばれるようになったのは「ベートーヴェンが『運命が扉を叩く音である』と語った」と秘書が伝記に記したことから。だが秘書には虚言癖があって、その証言には信憑性がないという。

 一方、ベートーヴェンの弟子だったカール・ツェルニー(ピアノの教則本で有名)は全く別の証言をしていたそうだ。冒頭のモチーフは扉を叩く音ではなく、ベートーヴェンがウィーンの公園を散歩中に聴いたキアオジという鳥の鳴き声をヒントに思いついたという。著者は「実際、ベートーヴェン自身『鳥は偉大な作曲家である』と語ったと言われており……鳥の鳴き声を曲の中に採用したとしてもおかしくはない」としている。

 第1章では他に「ホルストの《惑星》は天体を描いたわけではない?」「ラヴェルが望んだ《ボレロ》は現在の演奏とは異なっていた?」「モーツァルトの〈トルコ行進曲〉のリズムは間違って演奏されている?」など、名曲の定説に疑問符を投げかける。

 第2章は「名曲に隠された死の概念を知ろう」。西欧のオーケストラ曲の中でトロンボーンは縁起が悪い概念を表すことが多く、人々はその音からミサや葬儀を連想するという。「バロック期の作品でもトロンボーンは死を表す楽器として扱われ、モーツァルトやハイドンなど古典派時代になっても、基本的に宗教曲とオペラの死の場面にしか使われていない」。トランペット(またはホルン)と打楽器に弱音器を装着したときの響きも葬儀を表すことが多いという。

 こうした傾向を踏まえ、著者は「ベートーヴェンの交響曲第六番≪田園≫は実は告別の歌だった?」「ドヴォルザークの≪新世界より≫第二楽章はアメリカ先住民の葬儀を表している!」などと指摘する。≪新世界より≫第二楽章といえば「家路」として知られる牧歌的なあの名曲。米国滞在中に作曲したドヴォルザーク自身も「この楽章は先住民の葬儀を表現している」と語っていたそうだ。クラシックの名曲の数々に「こんな見方や解釈や裏話もあったのか」と感心させられることが多い一冊。

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