映画が中心のブログです!

中島けんです。新しい映画や舞台の感想を中心に、大映の思い出、海外旅行・地元の話題などを写真付きで書かせていただきます。

永田雅一氏のこと、その10

2011年07月15日 | 日記

  
      ↑デビュー当時の松坂慶子と私           ↑若尾ちゃんと私
    
 
     昨日も今日も私どもの会社が、下関にある商業施設"シーモール"に、夏休中の
     期間だけ"東急ハンズ トラックマーケット"を出店するお手伝いをしていたため、
     昨晩は特に帰宅が遅くなり、とうとう日記は書けず仕舞いでした。
     今晩も今日と明日にまたがった日記ですがご覧ください。


     数日前、若い映画ファンとお話をしていて、松坂慶子が大映にいたことを知らな
     いと聞かされました。
     デビュー当時から彼女の売り出しにかかわった一人として、中年になっても益々
     演技に磨きをかける彼女に心から拍手を送りたいと思います。
     彼女が大映に入ってきたのが大映の終末期でしたから、中途半端なポジションの
     まま他社に移らざるを得なかったし、彼女は大変だったと思いますがよく頑張っ
     ものです。

     最近の映画は興行面を考え過ぎで安易にアイドルを引っ張り出す作品が多いの
     ですが、その中からでもいい味を出す役者に成長して行く人もいるでしょうが、
     大体は学芸会的な演技で長続きしないのがオチです。
     永田雅一率いる大映では売り出そうとする新人に対して、かなり厳しい訓練と
     いうか躾(しつけ)を施していました。


     ・・・永田社長の著書から引用してみます。

     私(永田社長)はスターを売り出す独特ないき方というものは持ってはいないが、
     スターというものは大きな映画に出すか、問題になるような映画の主演をしな
     ければ、スターが街道は進めない。
     プログラムピクチャーというものに主演して、何十本撮っても、芝居はうまく
     ならないし、スターにはなれない。私はスターを売るということよりは、いい
     映画を作っておれば、それに出ている俳優は必ずスターとして売れるという考
     え方だ。
     若尾文子を売り出したときは、映画が過度期だったから研究生制度というもの
     を復活した。大映演劇研究所では毎年男女各十人をとって俳優の養成をしてい
     るが、その中に昭和26年度の生徒として、若尾文子、南田洋子というのが入
     ってきた。

     そうしたところが、たまたま私が日蓮宗の信仰から、身延山詣でをしている時
     に、お坊さん方と世間話をしていると、お坊さんたちがいうには
     「近頃大映のニューフェースで、時々出ている若尾文子は実はこの近所の出身
     ですから、あの女優を立派なスターにしてくれませんか」
     という。
     これも仏縁であろうと思い、会社へ帰ってから、
     「若尾という娘が大映にいるか」
     「おります。可愛い娘ですよ」
     「そうか、いっぺん連れてこい」
     というので、若尾がはじめて社長室へやってきた。

     若尾もその当時はニューフェースだから、社長が本社の社長室に呼ぶというの
     で、戦々恐々としてきたろう。そこで私ははじめて会ったのだ。
     私はその時ふと若尾文子を一見したら、今までの映画スターにあるタイプと違
     うのだ。じつに平凡な庶民的な娘なのだ。私はこの子は、ひとつこういう庶民
     的な娘で売ればきっと成功すると思ったから、
     「じつは、君をスターにしてみようと思うのだ。社長を信頼するか」
     といった。向うは夢物語みたいなものだから、
     「はいはいお願いいたします」
     という。
     「じゃあ3年間、僕に身柄を預けろ」
     というので親を呼んだ。

     1年目はこうして、2年目はこうしてやる。だんだん手当の方もよいようにし
     てやるから、ひたむきにやれ。3年間でスターとしての名前を売ってやる。
     あと3年で演技をじっくり覚えて、どこに出ても恥かしくない女優になれ。
     3年間のうちに売れはじめて雑誌や新聞広告の宣伝女優になったとしても、
     スターになったのだとはき違えてはいけない。ともかく名前だけは3年間で
     スターにしてやる。次は演技の勉強を忘れるなと、こんこんと説いた。

     その時、彼女も感激し、夢かとばかり驚いたろう。そこで私は、製作関係者に
     対して、この娘は従来までのいわゆる美人という顔形ではない。こういう変わ
     ったタイプをやってみろと、理屈抜きでやらせた。果たして思ったとおり人気
     も出た。こんどは役がうまくなければいけないというので「祇園囃子」のとき
     に溝口健二に頼んだのだ。(抜粋は以上)


     若尾も一生懸命頑張ったし、性格も非常にいい人なので、確実に不動の位置を
     つかんで行ったことになります・・・。私もご縁があって一緒に仕事をさせて
     もらったし、個人的にも仲良くさせていただいて・・・。


     このような考え方で大映でのスター作りは行われてきたのですが、松坂が入っ
     た時期は大映城の落城寸前の時であり、結果的に非常に申し訳ないことになっ
     た・・・と思っています。
     アイドルや歌手出身が絶対駄目だというのではなく、問題は訓練です。
     最近は才能がありそうな人を多く見受けるだけに残念な思いも併せ持つのです。
     惜しいと思います・・・。
 
   あるパーティで。左から私、安田道代(現・大楠)、次は松山専務で、この人こそ、今では社会語と
   なっている「ゴールデンウイーク」という言葉の生みの親です。
        
コメント (1)
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