kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

命ある限り

2016-03-06 | 陸上競技
金曜日、「命」について考える時間がありました。これはいつも思うのですが「「有限の時間をどう使うのか」ということに関して本当に考えなければいけないと思います。中高生はなかなかそのようなことを考える事はないと思います。今のような生活が毎日続いて学校を卒業してから働く。それが「当たり前」のように存在するからです。

「死」について考える。これは日本の文化的にあまり好まれません。「命の大切さ」に関しては様々な場面で取り上げられていると思いますが実際にそれを自分のこととして捉える事が出来るかどうか。大きな事だと思っています。

毎日のニュースで「命が失われた」話が流れ続けます。子供が親の命を奪う。自分の思い通りにならなければ相手のいのちを奪う。更には「守るべき存在」であるはずの乳幼児に対して食事を与えず暴力を振るい命を奪う。これは本当に悲しいことだと思う。

この世に生を受ける。これは奇跡的な話です。若い頃はその時間が永遠に続くような気持ちになる。本当は二度と戻ってくることのない時間であっても「またやれば良いや」という感覚でいる。だから何となく毎日を過ごしてしまう。

陸上競技をする。私は「一生懸命やること」を求める。が、そこまでしてやらなくても良いと思う人もいる。適度になるのであれば自分で勝手にできる。本気でやりたいと思うのであればやはりきちんとした方向性の中でやっていく方が良いと思っている。そこには「限られた時間」しかないから。

生きている時間というのは限られている。今は生きているのが当たり前のように存在しているが、明日その命は突然失われてしまうかもしれない。そう考えると生きている時間をどのように使うかというのは本当に大きなことだと思っている。ただ漠然と過ごすのであればもっと有効な時間の使い方があると思っている。嫌々部活動をやるのであればもっと自分のためになる事をやる方が良い。集団に属することが大切なのではない。

だとしたら私が生きている間に何をするのか。必要としてくれる人もいるだろう。同時に拒否する人もいるだろう。そうであれば「必要としてくれる人」のために生きたい。それは自分の人生の中で譲れない部分だと思う。

だからといって過剰にそうなる事は避けたい。「自分が大切だと思う者のために必死になる」事はすごく大切なことだと思う。しかし、やり過ぎるとそれが本人の成長を妨げることになる。何でもかんでも守ってやろうとする、やってやろうとするのは「他者の時間」を本当の意味で有効に使えていない。守る方も守られる方も互いに依存してしまうから。

冷たいかもしれない。が、必要とされない時に自ら手を差し伸べるのは違うと思う。自分の命を削って誰のためにやるのであればそこに「価値がある」と思えるかどうかが重要になるから。そこを選択するのは他の誰でもなく自分自身のはず。

他者の時間を預かる事になる仕事をしている。特に部活などはその最たるものだと思っている。これをこの場で議論する気はない。私自身の価値観の中でそう思っているだけだから。陸上競技を通じて人生や生き方、価値観が激変した選手を何人も見てきた。そこに意味があると信じている。だから私は自分の命を削ってでもそこに力を注ぐ。

生きているからこそ考えることが出来る。行動することが出来る。でもいつか必ず「死」を迎える。どんな人にでも必ずくる最後の日。どうやってその日を迎えるか。それが今の私の中の課題。今はまだ「死」を迎えるには早すぎる。しかし、実は目の前にその「死」があるかもしれない。「死」を迎えないように足掻くのではなく「生きている時間」を大切にしたい。それしかないから。

お世話になった方が亡くなられました。他者の「死」に直面することで自分の「死」についても考えるようになる。貴重な機会を与えてもらっているのだと思います。

今はまだ生きていたい。強くそう思います。

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