まーちょっと思う事を。別に何かあったわけではなく思っている事を文字に起こしておこうと。
人によって価値観が異なります。これは毎回毎回blogに書いている内容。私のやり方が好きだと言ってくれる子もいれば大嫌いだも言う子もいる。当然の話だと思います。万人に受け入れられるほど怖いモノはないと思いますから。宗教というのは「同じ信仰を持った人が所属する団体」です。だから全員が教祖の事を信じる。宗教上のトラブルなどはこれにより発生します。いつの間にか盲目的に教祖の言葉を信じてやっていくので犯罪さえも犯してしまう。
これも最近書いたのかもしれないなと思って自分で検索してみました。やっぱり書いていました(笑)。一ヶ月も経っていない。
『戦争ってそれぞれの立場で捉え方が違いますよね。ある思想を持っている人間にとって他者を傷つけてでもその思想を守る事が「正義」ですが、異なる思想の中ではそれは「悪」でしかない。私が誰かから必要とされる事が「正義」だとは思いません。その事を「批判的に捉える」人も出てくるからです。同じ事象を見て何を感じるか。人それぞれだと思っています。』
この時、「正義」の対義語は何だろうってふと思ったのです。辞書では「不義」となっています。が、見ていると「正義」の逆には「正義」があると書かれているモノもありました。ちょっと哲学的になるんですが。ある人にとって「信じている事」が正義である。それ以外の考え方は間違っていると捉える。が、逆の立場からすれば「自分が正しい」と思っているのだからそれも「正義」なのです。互いに信念や考え方が違っている。でもそれを「自分は正しい」と思っている。価値観の完全なる相違は間違いなく「争い」を生み出す。だって「自分の考え方と違う」のだから相入れる理由がない。そのを認められるのか敵対関係を持つのかで全く違う。
私は部活動は教育活動の一環であり、「ある目的に向かって全力で取り組む」ことを求めている。その中でしか学べないモノがあると身を持って体験してきたから。自分の考え方や行動の甘さに気づかされそこから色々なことを変えていく。誰もが最初からできるモノではない。だからこそある程度指導をする中で軌道修正をしていかなければいけなくなる。個人種目だからこそ集団としての力を求められる。一人では学べないモノがこの中で学べると思う。こういう部分が私の中での「正義」だったりする。
が、人によってはこれは「正義」ではない。独裁政治だと思われる。何度か書いたことがあるがかなり前に「陸上競技は個人種目なんだからもっと誰でも入れる部活にしてもらわないと困る」と直接言われたことがある。「適当に身体を動かしたい生徒もいるのにそんなに本気でやられたら部活に入れないじゃないか」と。このひとにとっては「少し運動したいという生徒の立場に立つ」事が「正義」なのです。生徒の立場に立って物事を見ているのかもしれない。
いや、うちの部活は「強くなるために全力でやる」というのが方針ですから、と思うけどそんな事は伝わらない。「身体を動かしたいと言っている生徒がいるのになぜ受け入れ態勢がないのか」と言われるのです。クラス経営とはちょっと違うのかなといつも思っている。クラスは様々な方向性を持っている生徒が集まる。が、部活動では「ある一定の方向を向いている選手」が集まるものだと思っています。別に強くなくても良い。少しでも記録を短縮しようと一生懸命になれる経験をする事が大切だと思っているから。
適度に週3回くらい身体を動かしてあとは好きな事をしたい。この考え方を否定するつもりはない。が、同じ集団で行動する者としては相応しくないのではないかと思う。これも私の価値観でしかない。「やりたいんだからやらせてあげれば良い」という価値観の人とは間違いなく話が合わなくなるだろう。でもこれはきっと平行線のままで終わってしまう。根本的な考え方、つまりそれぞれが信じる「正義」が別の方向を向いているのだから。どちらが正しくてどちらが間違っているなんてことは言えない。信じるものが違えば同じものを見ても全く逆に捉えることだってあるのだから。
今は国民総評論家の時代。それぞれの立場から他者を批判することが容易にできるから。その時、自分の行動や考え方が本当に正しいかどうかを冷静に見ていかないといけない。それぞれの「正義」だけでなく他者理解をしながらやっていかないと。これが極端な部分に走るとモンスターペアレンツやクレーマーと言われる部分になる。客観性を失ってしまうから。
「正義」って何だろう。考えて生きていきたい。
人によって価値観が異なります。これは毎回毎回blogに書いている内容。私のやり方が好きだと言ってくれる子もいれば大嫌いだも言う子もいる。当然の話だと思います。万人に受け入れられるほど怖いモノはないと思いますから。宗教というのは「同じ信仰を持った人が所属する団体」です。だから全員が教祖の事を信じる。宗教上のトラブルなどはこれにより発生します。いつの間にか盲目的に教祖の言葉を信じてやっていくので犯罪さえも犯してしまう。
これも最近書いたのかもしれないなと思って自分で検索してみました。やっぱり書いていました(笑)。一ヶ月も経っていない。
『戦争ってそれぞれの立場で捉え方が違いますよね。ある思想を持っている人間にとって他者を傷つけてでもその思想を守る事が「正義」ですが、異なる思想の中ではそれは「悪」でしかない。私が誰かから必要とされる事が「正義」だとは思いません。その事を「批判的に捉える」人も出てくるからです。同じ事象を見て何を感じるか。人それぞれだと思っています。』
この時、「正義」の対義語は何だろうってふと思ったのです。辞書では「不義」となっています。が、見ていると「正義」の逆には「正義」があると書かれているモノもありました。ちょっと哲学的になるんですが。ある人にとって「信じている事」が正義である。それ以外の考え方は間違っていると捉える。が、逆の立場からすれば「自分が正しい」と思っているのだからそれも「正義」なのです。互いに信念や考え方が違っている。でもそれを「自分は正しい」と思っている。価値観の完全なる相違は間違いなく「争い」を生み出す。だって「自分の考え方と違う」のだから相入れる理由がない。そのを認められるのか敵対関係を持つのかで全く違う。
私は部活動は教育活動の一環であり、「ある目的に向かって全力で取り組む」ことを求めている。その中でしか学べないモノがあると身を持って体験してきたから。自分の考え方や行動の甘さに気づかされそこから色々なことを変えていく。誰もが最初からできるモノではない。だからこそある程度指導をする中で軌道修正をしていかなければいけなくなる。個人種目だからこそ集団としての力を求められる。一人では学べないモノがこの中で学べると思う。こういう部分が私の中での「正義」だったりする。
が、人によってはこれは「正義」ではない。独裁政治だと思われる。何度か書いたことがあるがかなり前に「陸上競技は個人種目なんだからもっと誰でも入れる部活にしてもらわないと困る」と直接言われたことがある。「適当に身体を動かしたい生徒もいるのにそんなに本気でやられたら部活に入れないじゃないか」と。このひとにとっては「少し運動したいという生徒の立場に立つ」事が「正義」なのです。生徒の立場に立って物事を見ているのかもしれない。
いや、うちの部活は「強くなるために全力でやる」というのが方針ですから、と思うけどそんな事は伝わらない。「身体を動かしたいと言っている生徒がいるのになぜ受け入れ態勢がないのか」と言われるのです。クラス経営とはちょっと違うのかなといつも思っている。クラスは様々な方向性を持っている生徒が集まる。が、部活動では「ある一定の方向を向いている選手」が集まるものだと思っています。別に強くなくても良い。少しでも記録を短縮しようと一生懸命になれる経験をする事が大切だと思っているから。
適度に週3回くらい身体を動かしてあとは好きな事をしたい。この考え方を否定するつもりはない。が、同じ集団で行動する者としては相応しくないのではないかと思う。これも私の価値観でしかない。「やりたいんだからやらせてあげれば良い」という価値観の人とは間違いなく話が合わなくなるだろう。でもこれはきっと平行線のままで終わってしまう。根本的な考え方、つまりそれぞれが信じる「正義」が別の方向を向いているのだから。どちらが正しくてどちらが間違っているなんてことは言えない。信じるものが違えば同じものを見ても全く逆に捉えることだってあるのだから。
今は国民総評論家の時代。それぞれの立場から他者を批判することが容易にできるから。その時、自分の行動や考え方が本当に正しいかどうかを冷静に見ていかないといけない。それぞれの「正義」だけでなく他者理解をしながらやっていかないと。これが極端な部分に走るとモンスターペアレンツやクレーマーと言われる部分になる。客観性を失ってしまうから。
「正義」って何だろう。考えて生きていきたい。