そんな殺生な。
というフレーズをひさしぶりにお笑い番組のなかで耳にした。
それで、昔、「人間は、他の命を奪わなければ生きていけない、殺生せずには生きていけない云々」という誰かの言葉を思い出すことになったのだが。
仏教には殺生戒というものがあるが、お釈迦様はできもしなことをおしつけたのだろうか、、、。
そんなときに、ふと目にしたこんな記事。
溺れかけたわが子を救うために泳げない親が飛び込んで、自分は流されていった、、、という悲しい事件。
これを見たとき、こんなことを想像してしまいました。
助けられた子どもが、将来、人殺しやなんらかの犯罪に手を染めるようになったら、自分の命を捨てて子どもを助けた親は、関西人ならこういうよなあ「んな、殺生な」。
そうなのだ、殺生とは、他の命を「生かさない」ということなんじゃないか。
食べられたほうれん草は、地面から離れて、人間の目を得て立体的にものごとを見、移動し、思考し、行為をなし、創造する、ことができる。ほうれん草は命を奪われたのではなく、人間の命の一部を得たのだとしたら、、、。豚は、いくつかのパーツに別れ、あちこちの人間の命の一部に変化したのだとしたら、、、。
そして、変化した先の人間が、その命のエネルギーを使って、悪事を働くのだとしたら、「これなら、ほうれん草のままで良かったのに。豚のままで一生を終わりたかったよ。そんな『殺生』な」である。
内部もそうかもしれない。せっかくの脳が、悪事や悲観的なことに使われるのなら。
待ち構えている胃や腸や肝臓にに送り込まれてくるものが、ジャンクばかりであれば。
せっかくの足が、手が、その出番を与えられないのであれば。
「そんな殺生な」
である。
そう考えたら、殺生をせずに生きていくこと、がまた別の意味に思えてきた。
今日もしっかりと得たエネルギーを生かさなくては。
というフレーズをひさしぶりにお笑い番組のなかで耳にした。
それで、昔、「人間は、他の命を奪わなければ生きていけない、殺生せずには生きていけない云々」という誰かの言葉を思い出すことになったのだが。
仏教には殺生戒というものがあるが、お釈迦様はできもしなことをおしつけたのだろうか、、、。
そんなときに、ふと目にしたこんな記事。
溺れかけたわが子を救うために泳げない親が飛び込んで、自分は流されていった、、、という悲しい事件。
これを見たとき、こんなことを想像してしまいました。
助けられた子どもが、将来、人殺しやなんらかの犯罪に手を染めるようになったら、自分の命を捨てて子どもを助けた親は、関西人ならこういうよなあ「んな、殺生な」。
そうなのだ、殺生とは、他の命を「生かさない」ということなんじゃないか。
食べられたほうれん草は、地面から離れて、人間の目を得て立体的にものごとを見、移動し、思考し、行為をなし、創造する、ことができる。ほうれん草は命を奪われたのではなく、人間の命の一部を得たのだとしたら、、、。豚は、いくつかのパーツに別れ、あちこちの人間の命の一部に変化したのだとしたら、、、。
そして、変化した先の人間が、その命のエネルギーを使って、悪事を働くのだとしたら、「これなら、ほうれん草のままで良かったのに。豚のままで一生を終わりたかったよ。そんな『殺生』な」である。
内部もそうかもしれない。せっかくの脳が、悪事や悲観的なことに使われるのなら。
待ち構えている胃や腸や肝臓にに送り込まれてくるものが、ジャンクばかりであれば。
せっかくの足が、手が、その出番を与えられないのであれば。
「そんな殺生な」
である。
そう考えたら、殺生をせずに生きていくこと、がまた別の意味に思えてきた。
今日もしっかりと得たエネルギーを生かさなくては。