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5 「疑わしきは被告人の利益に」とか,「仮に10人の真犯人をとり逃がすとも,1人の無辜(むこ)を処罰することなかれ」とか,「刑事裁判の本質は無罪の発見にある」というような言葉がある。これらは,疑わしいというだけで,確実な証拠がなければ有罪にしてはならないとか,無実の者を誤って処罰するようなことがあってはならないという,歴史的な教訓の中から生まれた法格言というべきものであろう。被告人が無罪を主張する事件については,あらゆる方向から無罪ではないかと疑い,無罪の疑問が全て排除された場合に初めて有罪にすべきであるとも主張されている(「刑事司法を考える」下村幸雄著,勁草書房刊,67頁)。現実の裁判でこのような言葉の精神がどれだけ生きているかについては,大いに疑問があるとされている。

6 仮に足利事件を担当したとして,自分なら無罪判決をしただろうと思う裁判官は余りいないのではあるまいか。やはり鑑定の威力は余りにも大きい。我々は足利事件のような悲劇を繰り返してはならないことは言うまでもない。そのためには足利事件から何らかの教訓を学ばなければならないだろう。では何を学ぶべきであろうか。裁判官はこのような事件を担当した場合に一体どうすればよいのだろうか。

7 例え裁判官の目で見たときに,証拠上有罪であることは間違いないと思える事件であっても,それが冤罪である場合には何らかの疑問点が必ずあるのではあるまいか。足利事件では菅谷さんは公判廷での審理の途中から否認に転じたり,再び認めるに至るなど,不自然な変遷があったとされている。裁判官は,菅谷さんのその不自然な態度に疑問を抱いて,菅谷さんは公判廷において言いたいことを十分言えないでいるのではないか,なぜそのような不自然な態度を取るのかという点に疑問を抱いて,その疑問を解明する努力をなすべきであったのではないかと思う。

8 全ての事件についてというわけにも行くまいが,例えその疑問点が小さいものであっても,裁判官はその疑問点を見逃すことなく,丁寧に審理し,疑問点を解明するという姿勢を持つことが、誤判を防止するためにとても大切なような気がする。私の体験によっても,現実の裁判では必死に無実や事実誤認を訴える被告人や弁護人に対して,真剣に耳を傾けようとするのではなく,これだけ証拠が揃っているのに,一体何をいうのかと,案外冷たく素っ気ない対応をする裁判官が少なくないように感じられる。裁判官は,検察官が有罪であるとする証拠を,基本的に全て信用するという態度で事件に臨むのではなく,間違いはないかチェックする姿勢を大切にすべきであろう。捜査過程における証拠の収集には多くの疑問がある場合もあるからである。刑事訴訟手続きの構造として,検察官は被告人に有利な証拠があっても,自ら進んで提出することにはなっていないのであるから,裁判官は,検察官を余り信用し過ぎてはならないということになる。(ムサシ)



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