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この夏のあれこれ(1)

2008年08月22日 | ムサシ
1 8月も下旬に入り,酷暑の夏もさすがに一段落した感がある。この夏は随分暑かった。わがやのこの夏は,この数年を考えてみるといろいろと変化があった。
2 今年は電動かき氷器が大活躍した。驚くほど手軽にたびたびかき氷を作り,たくさん食べた。かき氷で消夏したかという気分である。かき氷用の氷を大量生産して,必要に備えた。
その1は,昼間夫婦でかき氷を何度も食べたことである。土日の午前中テニスの練習をして,その後家でかき氷を作って食べた。練乳をかけたミルクかき氷がおいしかった。カルピスかき氷もなかなかいける。
その2は,仕事を終えて帰宅後の深夜,かき氷に焼酎やブランデーをかけて,スプーンで食べた。これもなかなかのものである。おかげで酒量が減ったような気がする。このかき氷を食べながらオリンピックを見たが,仕事を頑張った後なので,とても充実した気分であった。
3 この夏はテニスの練習を頑張った。夫婦でしぶとく練習をした。一時期健康の不安に怯えた反動もあったかも知れない。特に用事がない土日の朝は,クラブの会員として所属しているテニスコートが朝9時から営業開始なので,開業早々のまだ誰も来ていない時間に到着し,夫婦でコート1面を独占して1時間ないし1時間30分練習した。サーブもボレーもストロークも,余り休まずウンザリする位練習した。法曹テニスクラブの常連メンバーからも感心されたりした。不思議なことに夫婦ともに練習が面白くて仕方がなくなった結果である。いわゆるテニス中毒とまでは言えないだろう。他の会員がやってきて,コートを独占できなくなるまで練習したが,とてもよいアイディアであった。
4 練習が終わるころは全身汗でズブ濡れになっている。飲料はスポーツ用魔法瓶2個を購入して,お茶とスポーツドリンクの2種類を用意した。お茶だけだとカロリー不足で低血糖となり,熱中症になり易いそうである。
 また昨年テニス用に作った色の濃い度付サングラスも活躍した。酷暑の40度近い高温の中でプレーをしても,多少大袈裟に言えば,まるで秋風の中で爽やかにテニスをしているような錯覚に陥って,余り暑さを感じないのである。汗を拭くためにサングラスを外すと,ギラギラした灼熱の日差しの中にいることを実感して,「ヒエー!こんな酷暑の中でテニスをしていたのか」と,ギョッとするという感じなのである。
練習を終えると,シャワーを浴びて家に帰り,かき氷を食べるのが楽しみであった。かき氷のお陰でテニス後のビールを飲まなかった。
5 テニスについては,この10年余り,以前はもっと上手かった筈なのにという歯がゆい思いをしていた。それは最近の練習量の不足のせいだと思われる。夏が終わりかけた今,この夏の変化として私の往年のフォアの強打が復活してきたように思えて,9月中旬の次回のテニス大会が待ち遠しい。そういえば7月下旬のテニス大会でも,既にその兆候は現れていたように感じる。ショットに自信が出てきたのである。
6 また7~8月のウイークデイの早朝7時ころ,土日とは別の場所である県営テニスコート脇の壁打ち用の壁で,週1~2回,1回約20分のテニスの壁打ちに出かけた際にも,テニスコートに空きがあるときは,1時間分の代金620円を支払って,30分程度夫婦でコートで練習したりもした。これもとてもよいアイディアであった。
 テニスに関しては,私の電光石火型(月光仮面型ともいう。)トレーニング方式が成功したと思われる。今テニスの練習をしていたかと思っていると,もう仕事をしているという方式である。「疾風のように現れて,疾風のように去ってゆく」という方式でもある。(ムサシ)

1 コメント

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あな、うらやまし (お気楽ご隠居)
2008-08-22 22:14:54
 ムサシさんの本領発揮ですね。これだけ書かれてしまうと、ただもう「あな、うらやまし」と言うしかない。お気楽ご隠居はゴロゴロしている報いで、毎朝体重計の目盛りをみては、ため息をつくばかり。
 うなぎ飯 夏痩せかこつ由もなし
 夏痩せで身軽になれた夢が覚め
 目覚めれば やはりメタボの胴回り
 古稀までも夏痩せ知らぬ身なりけり
 炎天に減らぬベルトの穴の数
 酷暑にもスペアタイヤの萎まざる

 「ああ、しんど」というところ。
 ところで、今日の朝日に、太陽は月の400倍の大きさがあり、地球からの距離も地球と月の距離の400倍なので、ちょうど月がスッポリ太陽を隠すことができるという記事があり、ムサシさんの以前の記事を思い出した。地球の太陽からの距離が、遠すぎず、近すぎず・・・という記事。われわれの存在が、これほどの奇跡的な偶然から生まれたとすれば、状況証拠による有罪認定など不可能になってしまうのではないかというのが、前にも述べかけた私の感想です。つまり、被告人に殺人の動機があり、機会もあったとしても、被告人以外の犯人が殺人を犯したという可能性を完全に排除することは不可能で、万分の一未満の可能性まで考慮したら、無罪にせざるを得ない事件がどれほど増えるか。人類の存在自体が、万分の一どころか、一億分の一よりも、もっとかすかな確率でしか生じ得ない偶然に起因しているとすれば、ふしぎな気になりませんか。だからと言って、われわれの社会を運営していくためには、百分の一の確率など無視せざるを得ないのが、裁判による正義の限界だろうとも思うのですが。また隠居のむだ話でした。
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