日本裁判官ネットワークブログ
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  北澤さんが j-sup-4727 で示された
 「裁判員制度も,柔軟に改めるべきところは改めるという姿勢が必要だと
 思います。被告人側の選択権を認めること,裁判員は有罪無罪だけを
 判断し,量刑については意見を述べることができるにとどめるのがベターの
 ように思っています。」という意見は、棘のない言い方ではあるが、私が
 裁判員法実施延期を求める理由の一部と同じだ。
  もっとも北澤さんは実施延期まで求める意見ではなさそうだし、裁判員対象
 事件を一律に定めることに対する意見も示されてはいない。
  しかし、被告人の選択権を認めないということは、裁判員法の基本的な前提
 であって、これを認めれば、重罪事件で起訴された被告人の9割は、裁判員を
 加えた裁判体を選ばないであろうし、弁護人も同意見であろう。
  私は昨年、引ったくりの被害者に追いかけられ、逃げようとして被害者の顔を
 殴り、傷を負わせたとして、強盗致傷罪に問われた被告人の事件で、裁判員
 事件の予行演習のような裁判に立ち会ったが、基本的な事実に争いはなく、
 裁判員が加わることのメリットがどこにあるのか、とんと納得しかねた。
  むろん、裁判官も検察官も、裁判員法では外に選択の余地がないのだから、
 法の要求に従っているだけであったろう。
  それでも裁判員が、検察官が調書の内容を読み上げるのを聞くだけで、その
 全部がすらすらと頭に入るとしたら、それはよほど注意力や集中力が優れた
 人だろうと感じた。
  しかし、いずれにせよ、裁判員の役割は、量刑を決めることに限られるはずだ が、 求刑は懲役8年で、判決は法定刑の下限の6年だったから、裁判員がいて もいなくても、選択の幅は狭いに決まっていた。むろん、これが普通であること は、多言を要しない。
  ただ裁判官にとっては、審理が終った次の日に、もう判決を言い渡すことを
 求められるのが、かなりの負担と感じられたであろう。
  とにかく下限の刑を言い渡されたのだから、被告人は納得するはずであった  が、実はこの被告人は、公判中に、千葉管内ではなく、都内で出店荒らしの余罪 があり、神田警察署の取調べを受けて、その事実を認める上申書を出したことを 告白して、どうなるんですかと不安を示していたのに、千葉地検の検事は、その 余罪の存在について、何も知らされていなかったようであり、裁判所も、弁護人 である私も、被告人の不安に答えないまま、予定どおり次の日に判決が言い渡さ れたところ、その直後に神田署の捜査員がまた調べに来て、被告人は、やはり起訴されそうだという不安を弁護人に訴え、懲役6年の判決に対しても控訴を申し立てた。
  その後、この被告人が神田署管内の事件でさらに起訴されたかどうかは確かめ
 ていないが、とにかく裁判員事件の予行演習という趣旨で直ちに判決を言い渡し たことが、被告人の利益を害したのではないかという不安を感じている。
  こういうことは、裁判員法が実施されれば、起こりがちになるのではないか。
  裁判員の負担を軽くするために審理を急ぐことが、被告人の利益を害する
 可能性は、小さくはないのではないか。
  北澤さんの意見のように、裁判員は有罪無罪だけを判断するということになれ ば、被告人が争わない事件は、最初から裁判員対象事件にはならないはずだ。
  裁判員制度というものを現実に運用していくためには、そういう仕組みを選ぶ のが 当然なのに、裁判員法は量刑も裁判官だけには任せられないという発想から、すべてを組み立て、だからこそ被告人の意思に反しても、裁判員裁判を押し付けなくてはならない結果になり、さらにその当然の結果として、数が少ない重罪事件だけを、一律に裁判員事件と定めることになるのだ。
  そうして裁判員法は、冤罪の救済という課題を放棄し、被告人のための制度で はないと宣言されてしまっている。
  法推進派は、延期を求める意見を、裁判員制度反対派と一括りにしがちな傾向 があるが、私自身は別に裁判員制度に反対しているつもりはなく、裁判員法に反 対しているだけだと思っている。
  法推進派がなすべきことは、裁判員に負担がかかりそうな事件でも、こうすれ ばやれるよという具体的な工夫を示し、また有罪明白で被告人が争わない事件で も、裁判員が加わることに有益性があると論証することではないのか。
  それが今できないのであれば、なぜ、そんなに急ぐのか。今年5月が来年5月 に延びたって、もっとまともな制度を工夫した方が、いいに決まっているではな いか。

  つい4年前、国民は「郵政民営化」という掛け声に惑わされ、それが既得権益 を打ち破って社会に活力をもたらす特効薬であるように思い込まされて、民主主 義の失敗例として歴史に残るような愚かな選択をした。
  裁判員法については、国民が全く乗り気でないという点では、郵政民営化とは
 大違いだが、私には裁判員法丸呑み論者の皆さんは、郵政民営化の幻想に踊ら
 された大多数の有権者と同様な、思い込みにかられているのではないかという気
 さえする。
 「行政事件にも裁判員を参加させようよ」というような声をあげてもらえるな  ら、私のそういう「偏見」も雲散霧消するのだが。(山田 眞也)




コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
Unknown (市民)
2009-01-20 20:29:48
量刑の判断、事実の判断の両方に、国民は裁判所に不信を抱いています。

すなわち、裁判員に量刑の判断まで行わせるということは必要なのです。

しかし、裁判員としても量刑まで判断したくないという人もいるでしょう。特に死刑の場合です。

そうすると、裁判員の権利を制限する形で量刑を判断させないとするのではなく、裁判員は事実認定の判断のみして量刑の判断は回避できるという選択肢を与えれば良いでしょう。

あえて法律で明示しなくても、裁判員が独自に量刑について判断をしないと明言すればなし崩し的に認められるものです。   


被告人の立場、裁判員の立場の他に、裁判所に対する信頼の欠如から制度を必要とする国民の立場というものが存在することを忘れないで貰いたい。


多くの裁判官の口癖である、「裁判官は弁明せず」は、権力の監視機関であるマスコミに対しても行われてきました。冤罪が強く疑われる事件に対しても一切の弁明が行われていないのです。今の裁判官は説明責任を全く果たさないならず者に成り下がってしまったのです。
 
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