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 「最近、仙台で起きた、いわゆる筋弛緩剤という事件の判決がありました。これを担当した裁判所は審理の迅速化を図ろうとしたと聞いています。それでも公判は156回という長期に及びました。これは多分、審理の迅速化という点ではモデルケースになるんだろうとは思いますが、こういう公判廷の数では、裁判員がその任務を全うすることは多分できないでしょう。いくら国民の義務といってみても、つき合っていられないよというのが、やはり裁判員候補者である国民の本音ではないでしょうか。」

 平成16年4月14日、159国会衆議院法務委員会における参考人滝鼻卓雄氏(読売新聞東京本社社長)の発言である。

 裁判と取り組むことをを職業として、それで日々の暮らしを立てている裁判官なら、いくら裁判が長引いて重荷が肩に食い入る思いをしても、いつかは終りがあると辛抱を続けられるが、ほかに本職がある裁判員が、こんな長丁場に耐えられるわけがない。だが、どうしたら裁判をもっと早く終らせられるのか。
 一合の枡に一升は入らない。
 有罪と決まれば、10年、20年は娑婆に帰れない被告人が無実を主張している裁判を、半分の80回で終えて、判決が出せるのか。仮に80回で済むとしても、それだけでも裁判員の辛抱の限界をはるかに超えることに変りはないではないか。
 むろん、「80回でも長すぎて国民の期待に遠く及ばない。そんな司法を変えるために、荒療治が必要なのだ」と主張する人は、「裁判に時間がかかるのは、古今東西を通じて変えようがない」と納得してくれる人より、ずっと多いに違いない。
 law's delay は許せないという要求を、被告人の権利保障よりも優先させていいなら、軍法会議もどきの荒業を使って、遮二無二、審理を進められるかも知れない。
 そうでもしなければ、裁判員制度は実施できないのではないか。
 しかし、国会の審議では、最高裁も法務省も、こんな事件で裁判員が審理に加わるために、どんな方法が考えられるかを、ほのめかしもしなかった。

 私は、裁判員にこんな事件は任せられないと思えばこそ、被告人が裁判員抜きの裁判を選べる制度を主張している。それは要するに、被告人に選ばせれば、裁判員はいらないというはずだと期待するからだ。
 裁判員は裁判官よりも、ずっと被害者寄りの考え方をする。裁判官だけの裁判に賭けた方が、まだましな結果が望めるだろう。
 弁護人も被告人も、きっと裁判員を避けたがるに違いないと思ってのことだが、ちょっと頭を冷やして考えると、これも所詮、独断に過ぎないのではないかという気がしてきた。
 身に覚えがあるのに、何とか罪を免れようとあがいている被告人なら、裁判官の方が、無罪までは望めなくても、まだしも量刑が軽くなるだろうと期待しそうだ。
 しかし、実は被告人が冤罪だったら、どうなる。
 逆に、「裁判官よりは裁判員の方が、検察官の思惑なんぞ気にする必要がないだけに、まだしもチャンスが期待できる。裁判員に賭けよう」と、被告人も弁護人も思うかもしれない。
 有罪の被告人だったら、裁判官。しかし、無実だったら、裁判員を選びかねない。
 どうも、そんな気がしてきた。
 裁判員なら無罪を言い渡しても、そのために将来、不利を招くことはないが、裁判官はやはり、無罪判決が法曹界でどんな評価を得るかに、無関心ではいられないのが人情だろう。
 しがらみのない裁判員の方が、裁判官よりも公正な判断をしやすい。
 それが裁判員のメリットだとは、私もかねてから思うところだ。
 そうだとすれば、被告人の選択が認められても、やはり裁判員が、時には背負いきれない重荷を負わされることは免れないのか。

 そう考えると、裁判員法の見直しを前提としても、この制度が円滑に実施されるためには、やはり長すぎる裁判の解消する工夫が、どうしても必要であることに変りはない。
 
 しかし、事実に争いがない事件までを、裁判員対象事件に含めることには、
どうしても納得できない。

 裁判員制度は平成13年6月12日の司法制度改革審議会の意見書に基づいてつくられた。
 この意見書によると、「国民主権に基づく統治構造の一翼を担う司法の分野においても、国民が自律性と責任感を持ちつつ、広くその運用全般について、多様な形で参加することが期待される」のだそうだ。
 そして 「新たな参加制度は、個々の被告人のためというよりは、国民一般にとって、あるいは裁判制度として重要な意義を有するが故に導入するものである以上、訴訟の一方当事者である被告人が、裁判員の参加した裁判体による裁判を受けることを辞退して裁判官のみによる裁判を選択することは、認めないこととすべきである。」という「ご託宣」が続く。

 「裁判員制度の導入目的は、国民が国民主権に基づく統治構造に参加することであって、被告人のためではない。だから、従来の裁判官のみによる裁判を、被告人が選択することは許せない。」
  
 どうして、そういう論理が成立するのか。
                              山田 眞也

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