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鉱物の部屋へのいざない

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石を拾う

2015-06-12 14:07:13 | 日記・エッセイ・コラム
今朝の北陸中日新聞の投書欄に気になる投書がありました。その投書は梅雨のテーマ特集で、「綺麗な小石を拾って宝物に」という見出しが付いており、ついつい読んでしまいました。その投書は小松の68歳の女性が書いた文章なのですが、以下一部引用すると「黄土色や水色、水晶のような石は、雨にぬれてとても美しく、大切な宝物として扱ったものだ。」

この投書を読んでいると、私も同じ小松で育ったせいか、小さい頃の石拾いの記憶が甦ってきます。確かに、私も未舗装の道端で水晶の欠片を拾った記憶があります。当時は尾小屋鉱山か遊泉寺鉱山か、どこかの鉱山の残土が道路に撒かれていたようです。私も紫水晶の欠片を拾いました。今思えば、そんな古き良き時代だったのだろうと思います。

「石を拾う」事は私にとっても小さい頃の思い出であり、そして、その行為は鉱物趣味への芽生えの第一歩だったのかもしれません。

「石を拾う」、宮田珠己さんのエッセイも思い出してしまいます。「石ころ拾いの楽しみ」はいくつかのタイプに分かれます。小さい頃の石拾い体験は水石や観賞石の趣味や鉱物(化石や隕石等も含む)採集の趣味、はたまた、何の変哲もないただの石ころ集め、等々へ繋がって行きます。石の楽しみ方も色々です。

そういえば、現在、東京・森美術館で開催中の「シンプルなかたち」という美術展では著名な建築家ル・コルビュジエが拾った岩や小石のコレクションが展示してあるようです。私はその美術展を見損なってしまいましたので、その図録を取り寄せました。その写真を見ているとル・コルビュジエの美意識がわかったような気がしてしまいました。

「石を拾う」行為は人間誰しも経験する人間的な根源行為なのかもしれません。

昨日、「石の華」の店の外で面白いものを見付けました。今日の写真はそれです。





これは子供か誰か?の悪戯なのでしょうか?どこかで拾ってきたと思われる小石がちょこっと置いてありました。何か?意味ありげです。ただ、気になるのはその値段です。丁寧に書かれたその値段には意味があるのでしょうか?

私的には、できれば、0円として欲しかった、と思いました。赤瀬川原平氏の0円札ではありませんが、そうする事によって現代芸術的な複層した意味が付加できて面白いのにと思いました。そのままですと檸檬爆弾的な意味しか連想できません。残念です。

そもそも、「石の華」は石を売ってはいますが、基本的に「石の華」では自採した石は売っておりません。「石の華」の石は仕入て来たものです。それと少数の委託品だけです。

それは拾ってきた石には値段を付け難いからです。また、自採品を売る事には何となく抵抗があるからです。そういう意味で、「石の華」は自採で乱獲して売りさばく業者ではありません。石好きさんとのコミュニケーションを楽しんでいる趣味のような店です。

それから、昨日、面白いお客さんがありました。そのお客さんは犀川で拾ってきたという石を持ってきました。そして、それらに価値があるものかどうか?と尋ねて来ました。残念ながら、私にはそのような趣味がないので、「正直、わからない。」と答えました。そのお客さんは「そうですか。それなら捨てて来ます。」とおっしゃいました。私は「捨てるなら、拾ってきた所に捨てて下さい。」とお願いしました。それから、「浅野川の上流の方なら瑪瑙が採れるようですよ。」という話をしました。そのお客さんは「調べて、行ってみます。」というような話になりました。

「石を拾う」事は趣味の範囲に留めるべきだと思います。つげ義治の「無能の人」ではありませんが、拾ってきた石は売れません。



コメント
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