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鉱物の部屋へのいざない

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発見の喜び

2014-05-02 18:24:54 | 日記・エッセイ・コラム

今日は「発見の喜び」です。このブログは石のブログですから、このようなタイトルですと、採集や探石で石を発見した際の喜びの事を書くのだろうと思われるかも知れませんが、今日の話題はそれだけではなく、例えば、新産地や新種の発見や数学的な法則を発見した時の喜び等も含めた「発見の喜び」に関する話題です。

まず、石のブログ的には「発見の喜び」とは石を発見した時の喜びになると思います。それは採集や探石の際に生じる心理的な高揚です。それは自然から初めて採ったもので、自分が最初の所有者になる事になります。それは単なる所有欲を満たすという事よりもその「発見の喜び」そのものがうれしいのです。その経験は山であれ川であれ海であれ、場所はあまり関係ありません。また、露頭であれズリであれ、それもあまり関係ありません。ただ、ガマ開け経験は特別なようです。それはその事自体が特別な意味を持ちますので、その「発見の喜び」は非常に強いものです。そのような昂揚感は一度経験しますと病み付きになる可能性が高いと思われます。どうも、そのような強い「発見の喜び」は再度の「発見の喜び」を期待する事に繋がってゆくようです。それは高じると依存症という厄介な心理的疾患に陥る恐れもあり、気をつけなければいけません。そういう私はガマ開け経験はまだありません。

ただ、採集であれ購入であれ、石との出会いは一期一会です。「イッコダケノキセキ」を見つける「発見の喜び」は反復性をともない、その事がコレクションを増加させてゆくのです。

愛石家の中には自採にこだわる人もいるようですが、自採だけでは石の世界は広まりません。「発見の喜び」は自採だけのものではありません。「発見の喜び」は例えば骨董市で掘り出し物を見つけた時や古書店で稀覯本を見つけた時などにも生じます。

石のコレクションとはただ単に石を集める事だけではないはずです。

もしかすると、コレクターという人種はものを集めるという行為そのものよりも個々のものとの「発見の喜び」を繰り返しているのかも知れません。その精神的昂揚がそうさせるのであって、コレクションはその累積した結果だと考える事もできるのかも知れません。

そのようなコレクション的な「発見の喜び」とは別の種類の「発見の喜び」もあります。それは、新産地の発見や新種の発見や法則発見のような「発見の喜び」です。その種の「発見の喜び」には自らがそれを見つけるという知的な昂揚感があると思います。自ら発見した新しい知見はそのひとの一生の知的財産となります。そのような「発見の喜び」も一度経験すると病み付きになるでしょう。

ひとつ前のブログで登場する浜松の中学生、山田蓮君は独自の手法で鉱物結晶とオイラーの多面体定理との関係性を検証しております。その過程で多くの「発見の喜び」を経験したようです。そして自ら発見した問題を自ら解き、更なる探究へと突き進んでいるようです。

私も中学生時代に数学の整数論の面白みを覚え、一時期、整数論にはまった経験があります。その中で独自の手法で無限級数の収束を発見した経験があります。その時の精神的昂揚はいまだに忘れないでおります。それはずいぶん昔に発見されていた事なのですが、それを学習ではなく自ら発見した事で「発見の喜び」を経験した事があります。数学の世界ではそのような独自の発見は当たり前の事で、過去にも独立した多くの再発見が行われていたと思われます。

数学的な知的な「発見の喜び」は数学の世界を進化させてきました。数学史とは過去の数学者達によって発見された人類の知的財産の歴史です。科学史も同様だと思います。

人類の知的財産というコレクションは彼らの「発見の喜び」によってもたらされた過去の知見の累積として捉えられるかもしれません。

どうもひとは「発見の喜び」によって知的に進化してゆくのでしょう。

コメント
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