西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

さまざまな事おもひだす櫻かな  

2007-03-25 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
さまざまな事おもひだす櫻かな 
 これは松尾芭蕉の『笈日記』にある一句である。西行の「花の歌」は人生最後の情景だが、芭蕉のこの句は人生途上の感慨である。そうだな、と思う。私もこの句を読むと子ども時代からの「さまざまな事」を思い出す。私には記憶がないが、祖母と一緒に兼六園の桜の下で撮った2歳位の「可愛い」写真がある。記憶がある年代になっても毎年家族で兼六園に花見に行った。金沢市立十一屋小学校の入学式や卒業式でクラスで学校正面にあった桜の下で記念撮影した。金沢市立野田中学校校庭、金大附属高校校庭の桜並木を巡る淡い恋。大学に入り下宿した京都の銀閣寺町近くの疎水・哲学の道の桜並木散歩。最初に勤めた豊田高専校門前の桜並木の鮮烈な印象。31年間も勤めた奈良女子大の老木の桜並木、小倉遊亀画伯による緞帳「爛漫」。生まれて高校まで住んだ故郷は金沢市桜畠、現在住んでいるのは、桜が丘・・。
思い出す桜の下や金次郎  市路

金沢市立野田中学校の桜並木:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/f236654fc94611ac7e78ddffa0c15437

俳句鑑賞

2007-03-24 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
今朝、NHK衛星テレビで坪内念典さん(龍谷大学教授)主宰の俳句王国があり、見てみた。今日の兼題は「卒業」、中々難しそうだった。「自由題」で8人のうち5人があげた句に「永日や鳥を離れて鳥の羽」というのがあった。「春の日永の一瞬に鳥から抜け落ちる羽が見えるようだ」との選評もあった。これを聞いて、ふと蕪村にある一句を思い出そうとして、『蕪村俳句集』を調べた。夏之部に「涼しさや鐘をはなるるかねの声」というのがある。これは、鐘の声が、次々と鐘を離れて涼しげに鳴っている、といった意味か。何か、鐘を離れる鐘の声が見えるようだ。
こういう見えないものを見えるように詠う、ということを考えていたら、何処かで紹介した芭蕉の「山も庭も動き入るるや夏座敷」という一句も思い出した。夏座敷から庭や山を眺めているのだが、向こうから動いてやってくる、という捉え方が面白いと思う。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/1118f0d729413f8961adc2bd20607955

学長式辞「ただ酒を飲むな」滝川幸辰さん他

2007-03-24 | 言語・字・言語遊戯
今朝、ラジオで「今日は何の日」を聞いていたら、昭和29年(1954年)3月24日の京大卒業式で京大総長・滝川幸辰さんが、「ただ酒を飲むな。そこから色々問題が起こる・・」と式辞で述べたと言う。この言い方は今でも通用する。私は、当時、小学校を卒業する頃で、この言葉も後に聞いたと思う。滝川幸辰さんとは、戦前の「滝川事件」で一旦京大を辞職せざるをえなくなり(鳩山一郎文部大臣等の圧力による)、教員、学生等が抵抗した事件の張本人である。戦後、京大に復帰して法学部長、総長を歴任した。復帰したのは滝川さんただ一人で、戦前一緒に辞めた末川 博さんは立命館大学総長、恒藤 恭さんは大阪市大学長になる等、戦前に京大法学部を辞任した人々が関西の法学の水準を上げ、平準化した効果もあった、と言われる。
他に記憶に残る学長式辞では東大総長・大河内一男さんの「太った豚よりは痩せたソクラテスになれ」があり、私が京大院生の頃で新聞で読んだ。大河内一男さんは有名な社会政策学者、東大闘争、安田講堂占拠事件の責任をとって東大総長を辞任した。奈良女子大初代学長の落合太郎さんの式辞も味があったようだ。私が奈良女子大に在籍の頃、的場輝佳さんと共に歴代学長の式辞を大抵聞いた。出口、田村、丹羽学長である。的場さんと二人で「式辞評論家」と自称していた。私の10数年の日記に式辞概要が載っていると思う。検索・反芻が楽しみだ。(写真は、滝川幸辰さん関連本)

「脳トレ、12歳まで」とノート取れ

2007-03-23 | 言語・字・言語遊戯
木曜日の午前に「代替セラピー論」研究会があって、私は五感の機序と根幹の触覚の話をし、ビデオも見せたのであるが、私以外のもう一人の世話人の野崎光洋先生(阪大理卒、上田篤先生と高津高校同期、滋賀医大副学長歴任、75歳)が、昨年の流行語の一つとして「脳トレ(脳のトレーニング)」があった、で、実際の脳トレーニングで効果あるのは12歳まで、それまでに大脳の発達はほぼ終わる、と言われた。小学生までである。この年齢については、『日本語はなぜ美しいのか』(黒川伊保子著、集英社新書)で黒川さんが「12歳まで日本語漬けで、英語等はその後でよい」と言っているのとピッタリ符合している。私は野崎先生に「学生にその話をした後で、脳トレは12歳まで、としっかりとノート取れ、と言ったら・・」と言っておいた。分かるかな。

「町並み的俳句群」の鑑賞

2007-03-23 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
数日前、俳句論(蕪村と芭蕉以下・・)を幾つか書いたが、本ブログではコメントゼロで一寸淋しい。別のSNSにも転載して一つのコメントを頂いた。
「蕪村と芭蕉」にしろ「西行の「花」の和歌に対する後世の俳句について(3)」にしろ、空間的、時間的パースペクティブにおいて複数の俳句を配してみて、連続性、展開性を楽しもうというのが私の意図である。まあ自分の専門に引きつけて言うと、一つの建物(俳句)を味わうだけでなく、それを含む連続した町並み(町並み的俳句群)をも味わおう、との意図である。飛び飛びの連続した風景と言うならば、芭蕉の『奥の細道』だって全体として立派な展開風景だが、私の意図は、もう少し空間的(時間的)に近接した俳句群(違う時代、違う作者を一般に想定)を群として、つながりとして味わったらどうか、ということである。どうであろうか。

事故の隠蔽

2007-03-23 | 時論、雑感
電力会社で事故隠蔽が続発している。原発の重大事故(北陸電力、東京電力・・)だけでなく、水力発電での利用水量の虚偽記載もある。電力会社は、北海道電力から九州電力まで地域独占企業である。地域の電力安定供給に責任がある。原発の場合、事故が明らかになると、安定供給の「エース」と思われている原発に「ストップ」がかかると恐れての隠蔽であろう。しかし、それでもっと大きな事故に繋がる恐れもあったのだ。原発が昼間の電力ピークに対応すると夜に出力を急に落としにくいので、夜間に電気を使わせる「圧力」が働くなど、一寸変なことにもなっている。これらをチェックするシステムを確立することは大事な上に大事である。

代替セラピー論研究会ー触覚の重要性ー

2007-03-22 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
今日の午前、平安女学院大学で、代替セラピー論の研究会があった。4月から入学してくる生活福祉学部の1回生に必修の科目の一つに「代替セラピー論」という講義を新設したが、新しい分野でもあり、一人で通しで講義は難しいとて、専任7、8人と客員教授のコンビネーションで展開することにしたので、専任で少し前から研究会を立ち上げているのだ。私と野崎光洋先生が「世話役」だ。
代替セラピーとは、現代社会の強いストレスに対して負けてしまわないため、諸種の癒し行動があるが、その意義、洗練された方法を明らかにし、個々人に合ったものを選ぶ方法を明らかにすると同時にストレスに負けないライフスタイルを確立することを目指す、と一応している。その癒しの方法を考えるにあたり、五感を快にして活用することが重要との捉え方から、今日は、その基本ともいうべき触覚(スキンシップ)について、ある45分ビデオをみた。中に親ざるから無理に引き離した小猿に、鉄筋で出来ているがミルクをもらえる「母親」と、柔らかい布で出来た「母親」の二つを与えると、小猿は恐怖を感じたり、「甘えたい」時は、「柔らかい布の母」の方に駆けつけて抱きついている、という実験場面を見た、又、未だ目の見えないネズミの赤ちゃんでも「筆」で頭などを撫でてやると、そうでないネズミより発育が早くなる、人間の未熟児でも保育器の赤ちゃんを優しく撫でてやると体重がより早く増えて成長する、といった「実験結果」も見て、触覚が「気持ちが快になる上で」大変大事との認識を全員が持ったと思う。以下、嗅覚(味覚)、聴覚(視覚)についても議論していきたい。

奈良女子大学生による「奈良」に関わる研究発表会

2007-03-22 | 地域居住学
今日の午後、奈良の猿沢の池から南に行った奈良町にある世界遺産・元興寺の禅室で表記の会(奈良女子大学生による「奈良」に関わる研究発表会、今回が初めて)があり、出てみた。生活環境学部(私の古巣)の「現代GP」(文部科学省補助のプロジェクトhttp://www.nara-wu.ac.jp/gp/)と文学部の自主的「なら学」プロジェクトhttp://www.nara-wu.ac.jp/bungaku/nara/index.html の共催である。私は少し遅れて参加したが、その時点で60人位、市民も含めての参加だった。生活環境学部の発表2本、文学部の発表4本聞いたが、このように歴史的にリッチな奈良に立地する大学として、こういう形を通じて奈良に関する情報を蓄積していったら良いと思った。出田・次期文学部長が最後の挨拶で、これらの研究は先生方の研究の「鏡」でもある、と言っておられた。元興寺禅室は少し寒かったが、世界遺産で研究発表したことは学生の良い思い出になるだろう、と思った。
(写真は、元興寺、右が禅室)

建築の形態は企画・計画・設計過程の何時生まれるのか

2007-03-21 | 住まい・建築と庭
最近来た『建築とまちづくり』(No.351,2007年1月号)で、伴 年晶さんの「形態の呪縛を超えて 止揚された建築へ」を読んだ。伴さんとその事務所VANSのコンサルティング、設計で出来、私もそこに「書斎」を持つコーポラティブ住宅「T・・」を身近に知っているし、その時の伴さんの作法も身近で見聞したことがあったので、その論考を興味深く読んだ。これによると、(1)「僕の(注:伴さんの)建築感における建築デザインのレベルアップの必要条件は建築目的の高揚・発見に他なりません。使用者がやってもらいたいこと、僕たちがやりたいことを互いに高めあい完全に一致させることは、いつも僕達の設計監理業務の絶対目標になっています。」偉い!と思う。・・「建築はつくるものではなく”できるもの”。」含蓄有り。(2)「内なる建築目的は、使用者から聞き出すだけではダメで、しっかりと対話し、高揚、さらに普遍化することが、必要なひとつです。」研究における調査にも通じる。(3)「もうひとつ必要なのは、”外なる建築目的”です。それは、その環境との対話・観察することで見えてきます。ここでは対話の相手は使用者ではありません。社会・自然環境を読み取り、建築家の構想力と技術力で総合し、さらに機能と性能の幅に高さ(縦軸)を加え立体化した建築目的と建築手段をスパークさせ、形態に結実させるところを専門家として担うのです。」(4)「僕達によくあるのは、建築形態が計画設計経過の中で諸要求にジワジワと対応していく中で、形態・技術の合理性を壊し、不幸せな関係のままで妥協してしまうことです。初期段階に幸せに結合したかに見える建築形態にむやみに固執している建築家は、見苦しい限りです。設計過程で目的と手段の双方に磨きがかかり、その二つの変数が大きく成長しています。したがって、設計後期に幸せな建築形態に彩やかに再スパークすることが、多くの場合、必要になってくるようです」
まあ、「そとなる建築目的」の把握については、まちづくりとの接点で更に突っ込む必要はあるとは思うが、企画・計画・設計過程を何十となく経験している人ならではの考察と「まとめ」であると思った。つまり、建築形態への「スパーク」は、山は少なくとも二つあるということだ。私達の「T.居住地」でも全体計画は数度描き直されたことを知っているし、机上の空論ではないな、なるほどな、と思った。
(写真は、伴 年晶(としあき)さん)

西行の「花」の和歌に対する後世の俳句について(3)

2007-03-21 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
以上(1)(2)と西行の「花」の歌に触発されて後世色々な俳句が生まれてきたことを述べた。(勿論、もっと調べるべし!)それらを見ていて、松尾芭蕉の「西行の庵もあらん花の庭」と現代俳人・角川春樹の「西行の庵の闇に花女郎」という句が共鳴しているのに気付いた。「西行、庵、花」と上五、中七、下五の頭を同じにしたのは、勿論、後世の春樹の意図である。ところが、この二句の風景は、全く別というか、いわば逆なのである。これも意図的に春樹がそうしたのである。芭蕉の風景は「桜の植わった見事な庭があるが、その奥にはきっと(死を待つ)西行の庵があるに違いない」といった春の風景であるが、春樹の風景は「西行の庵の闇(薄暗い床の間か)にひっそりと女郎花(おみなえし)が置かれているなあ」というもので、女郎花は秋の七草だから秋の風景である。女郎花は仏花でもあり秋の彼岸に置かれているとするならば、西行は先立つ春に亡くなって初彼岸を迎えた風景とも言える。もちろん、春樹の句の前提として、庵の外には庭があり春に咲くべき桜も植わっているのである。
このように春樹の趣向は、芭蕉の取り上げた西行の庵を真ん中に置いて、空間的には外の風景と内の風景、時間的には春の風景と秋の風景を連続的に捉え桜と女郎花(花女郎と記していることにも注意)の対比によって哀感を出そうとしたと言える。このように先人を受けながら、更に展開しうるのは、我々現代人の特権とも言える。ところで、「春樹」とは、即ち「桜」と思われるが、敢えて自分の名前でもある桜を避けて女郎花をもってきたのも角川春樹の趣向であろう。
このように関連二句を二重風景、展開風景とみる見方は前に「蕪村と芭蕉」で述べた問題意識と通底している。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/ea0aa902bd26fd9a1ed8514fd24c2582

西行の「花」の和歌に対する後世の俳句について(2)

2007-03-21 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
近代になると、例えば、正岡子規の『病状六尺』(岩波文庫)に「西行庵(さいぎょうあん)花も桜もなかりけり」という句がある。西行には「花も桜も」つきものなのに「それらがない」というのである。だとすると、西行は庵のすぐそばでは死ぬに死にきれないのではなかろうか。一方、子規は、そんな桜のもとで死ぬなんて馬鹿らしい、と「病状六尺」で思ったかもしれない。実際、子規には「林檎喰うて牡丹の前に死なんかな」と、桜ではなく牡丹の前で死のうかな、という句があるくらいなのだ。
更に角川源義(角川書店創立者)に「花あれば西行の日とおもふべし」(桜の花があれば、その日が、西行が死を願った日なのだ・・山本健吉『定本 現代俳句』(角川書店)による)という句がある。その息子の角川春樹は「西行の庵の闇に花女郎」と言った。この他にも色々関連句があると思うが、それらの検討は今後の課題とする。
そこで、最後に私は、小倉遊亀画伯の描いた原画「爛漫」に基づく奈良女子大学講堂の緞帳の前に立って「「爛漫」や西行切に招きたし」としておきたい。
(注:小倉遊亀画伯は、奈良女子大学の前身である奈良女子高等師範学校の卒業生で、文化勲章受章者。「爛漫」は、奈良女子大学創立80周年記念に、学章の八重桜をイメージしつつ小倉画伯が描かれた伝統を意味する老木に若々しい桜花が若草山を背景に咲き誇っている画である。)

西行の「花」の和歌に対する後世の俳句について(1)

2007-03-20 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
西行は『新古今和歌集』に、その和歌が多数選ばれ、自らも『山家集』を出している歴史的有名歌人の一人である。西行の最も人口に膾炙している歌は「ねがはくは花のもとにて春しなむその如月の望月のころ」(『新訂 新古今和歌集』(岩波文庫)による)であろう。もちろん、花とは桜である。歌の意味は「出きれば桜の花のもとで春に死にたいものだ。それも如月(旧暦の二月)の満月のころがいい」といったものだ。そして、実際には建久元年(1190年)2月16日に河内・葛城山の西の麓(弘川寺)で、歌に詠んだような状況で、73歳で亡くなった。だから、この歌が日本人の死に際しての状況美意識の形成に作用してきた。そして、西行後、この歌を受けて、関連俳句を作っている人も多い。今回、それについて少し紹介し、考察してみたい。
松尾芭蕉は「西行の庵(いほり)もあらん花の庭」、与謝蕪村は「実さくらや死(しに)残りたる庵(あん)の主(ぬし)」(桜の花も散って実ざくらになってしまった。庵の主、即ち自分は未だ死なずに生きているのだなあ・・といった感慨をあらわしている)、小林一茶になると「いざさらば死(しに)ゲイコせん花の陰(かげ)」あるいは「死支度(しにじたく)致せ~と桜哉」さらに「穀(ごく)つぶし桜の下にくらしけり」と、「花」「桜」のもとで西行を意識しつつ、根底では生き続けようとの意志をあらわしている。同時に、一寸、茶化している。一茶らしいと言えよう。(続く)(絵は、西行法師)

平安女学院大学卒業式(アカデミック・ドレス)

2007-03-20 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
今日、平安女学院大学で卒業式があった。今年から新しい試みとして、アカデミック・ガウンと角帽(+タッセル=房)着用となった。卒業予定者では、和服、袴を着て式に出たい要望が強かったので、それらの上からガウンを着用することとして、教育後援会の援助でアメリカから購入したものを貸し出した。色は黒である。壇上に上がる学長は、赤が基調のデザインのガウンと帽子で一段と立派、副学長、学部長(私もその一人)、学監は青が基調のガウンと帽子。学生と同じく背広の上に羽織る形だ。帽子に付いているタッセル(房)は最初から左側に垂れるようになっている。大学卒業生を表す。左右の肩から腕にかけて縫い付けている三本の横線は、博士を表す。
学生の角帽のタッセル(房)は、最初は右に垂れているが、学位記を貰った途端に「卒業生」として左側に移動させる。今日も、学長の指示で皆一斉にタッセルを右から左に移動させていた。近辺の女子大では、京都ノートルダム女子大が、このアカデミックドレス着用の卒業式をしている。今回、平女の係の人がダム女の卒業式を視察させて貰ったようだ。これが、伝統になるだろうか。
式が終ったら、記念撮影等の後、アカデミック・ドレスは返却、和服、袴で又違う気分で交流、卒業記念パーティ等へと向かっていった。
(参考写真、ノートルダム清心女子大卒業式でのアカデミックドレス)

A to Z あからん ん?!

2007-03-20 | 言語・字・言語遊戯
全部、というのは「A to Z」というようだ。正確には「From A to Z」であろうか。「AからZまで」というわけである。昔、ロンドンでLondon map AZ と言うロンドン全体の地図帳を買ったことがある。では、英語の「From A to Z」を日本語で何と言うのか。英語と同じように考えると「あ から ん まで、即ち あからん となる」「あらかん」(鞍馬天狗)という俳優は聞いたことがあるが、「あからん」なんて初耳だ。まあ此れは、50音表(あいうえお、あかさたなはまやらわ)でいくとだが、「いろはにほへと」でいくと「いからん」となる。あほらしいとて余り「怒らん」でね。
別の言い方あったっけ?

蕪村と芭蕉

2007-03-19 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
正岡子規が蕪村をかったこともあり、蕪村が見直され色々の人が蕪村を語ることになった。しかし、与謝蕪村の尊敬する先達は松尾芭蕉である。少し前に藤田真一著『蕪村』(岩波新書)を読んだ。藤田真一さんはその著の「ことばの伝統性」というところで、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」という蕪村の句について次のように述べている。「紀貫之が書いた『古今和歌集』の仮名序に、つぎのような有名な一節がある。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いずれか歌をよまざる。これによって、鶯と蛙は、歌を歌う生きものの代表選手となった。そして、これが、鶯・蛙の本意の基本となった。蕪村の「鶯」も、かの「古池や蛙(かはず)飛(とび)こむ水のをと」の蛙も、古今集以来の由緒ある血統をひいていることになる。また、この蕪村にとって、芭蕉のことも意識するべき対象であった。蕪村が「古庭」と言いかけたのは、芭蕉の「古池」に応じたからにほかならない。蛙だから「古池」、では鶯なら「古庭」になるだろう、というのだ。芭蕉のもじりといってもよい。つまり、「鶯」の本意性と「古池」のパロディをないまぜにしてなった句といえる。実は、これは、「蕪村」号のお披露目句であった。蕪村がこの句に、改号の意気をしめそうといたとしてもふしぎではない。・・」(「同上書」128~129頁)
私は、この藤田氏の解説を前提として、更に踏み込んで考えてみたい。蕪村は、芭蕉の「古池」に対して「古庭」、同じく「蛙」に対して「鶯」を対置しただけではなく、一瞬の「水のをと」に対して長い「日もすがら」も対置している。句の風景は、古庭にある梅ノ木に鶯がとまって一日中啼いている、というものである。私の視線は鶯に向かってやや上方を向いているが、ここで下方はどうなっているかと目を向けると「ハッ」と気付くのである。古い庭だから古い池があってもおかしくないのではないか。ならば蛙がそこに飛び込んでいても良いのではないか。即ち、この「古庭」の中に「古池」が包含されているのではないか。「古庭」の方が「古池」より空間的に広く、「鶯」の方が「蛙」より視点が高く、また、「日もすがら」の方が「水のをと」より時間的に長いので、「古庭」句が「古池」句を包摂できるのである。また紀貫之の言う「蛙の声」に対して、芭蕉は新しい「飛び込む蛙」を見出したが、蕪村は貫之の言う「鳴く鶯」にこだわっているとも言える。
古庭に鶯啼きぬ日もすがら
「蕪村」号スタートにあたり、ある意味で、「芭蕉」なにするものぞ、の気概を表し、蕪村句は最も人口に膾炙している芭蕉句(「古池や蛙(かはず)飛(とび)こむ水のをと」)を言外に取り込んでいる二重風景句とみたらどうか、と私は思う。