西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

黒川伊保子著『日本語はなぜ美しいのか』読書録ー4三歳から十二歳へ

2007-03-03 | 生活描写と読書・観劇等の文化
「三歳の誕生日を迎えた頃から、子どもの語彙は格段に増え始める。ここでいう語彙とは、記号として口に出せることばのこと。実際には、脳の中に、記号化していない「ことばのたまご」は、その何百倍も何千倍も詰まっている。三歳になるまでに培った「ことばのたまご」を記号化するこの時期、新たな外国語の導入などは、到底考えられない。せっかくの「ことばのたまご」を壊してしまうことになりかねないからだ。
四歳から七歳までは、ことば、所作、意識の連携を学ぶときである。特に、所作の基礎ができ上がるときなので、さまざまな分野の洗練された所作を、子どもの目の前で見せてあげたい。音楽、アート、ダンス、スポーツなど、身体性を伴う稽古事の開始適齢期だ。この時期、暗記型の外国語教育は、明らかに時間の無駄。・・・
六歳から七歳までは、、母語の社会性を養うとき。家族との親密な関係で作り上げてきた母語を、学校という公の場で鍛え上げることによって、自我を確立するとともに、社会性を獲得する。・・・脳の立場からいえば、ここは、外国語にうつつをぬかすよりも、母語の読書を重ねるときだ。母親の読み聞かせや、本人の音読も重要なときである。脳における母語習得の臨界期は、八歳である。・・・
九歳から十一歳までの三年間は、感性と論理をつなげ、豊かな発想と戦略を生み出す脳に仕上ていく、いわば子どもの脳の完熟期だ。この三年間に脳が獲得する機能は、コンピュータにたとえればOS(オペレーティングシステム)のようなもの。これに比べたら十二歳以降に手に入れる知識は、単なるデータファイルにすぎない。つまり、脳の性能を決める大事な三年間なのだ。このため、この三年間は、脳のゴールデンエイジとも呼ばれている。・・・」(71-73頁)
ここに概略三歳から十二歳までの母語習得課程のモデルが示されている。外国語が入る隙はない。それは十二歳以降、つまり中学に入ってからで十分なのだ、日本人にとっては・・。(続く)

黒川伊保子著『日本語はなぜ美しいのか』読書録ー3母音中心と子音中心

2007-03-03 | 生活描写と読書・観劇等の文化
日本語は母音を主体に音声認識する。似ているのは、今のところポリネシア語系(ハワイ原住民語も含む)で世界的には少数派であり、他は圧倒的に子音を主体に音声認識しているようだ。インド・アーリア語系(ヨーロッパの言葉はこれに入る)やアラビア語、アジア各国の言語もそのようだ。こうなった背景については、風土のことをあげている。砂嵐の吹く砂漠地帯だったり、厳しい寒さの地域だったら、口を大きく開けて発音しにくく、口を狭めて破裂音等の子音に重点をおいた言葉になると言う。それに対して高温多湿の日本やポリネシアは口を大きく開ける母音中心になったのでは、とのことだ。(以下、私の解釈)日本語は母音は5音(あ、い、う、え、お)であり、子音はK,S,T,N,H,M,Y,R,Wの9音である。これらで50音表が出来ている。(勿論、これらに濁音、半濁音が加わる)一方、英語は26字で出来ている(全ての言葉がこの26字の組み合わせで出来ているのは凄い!)が、まあ母音の5つ(A,E,I,O,U)を除く21が子音である。
こういうことを学習すると、ふと日本民族は、定説の大陸から渡ってきたというより「太平洋より島伝いにやってきた」という柳田國男の『海上の道』説の方が相応しいようにも思えてくるのだが・・。今回は、脱線しつつ、私が勝手に大事と思う点をまとめてみた。(続く)

大手筋商店街ー京都市伏見区ー

2007-03-03 | 地域居住学
今日、一寸した用事で京都市伏見区の大手筋商店街へ家内と行った。近鉄の桃山御陵前駅で降りて西へ行く。ぶらぶら歩いたのは私としては13年ぶり(1994年以来)かな。家内は4年ぶりと言っていた。私達は1994年の11月頃まで伏見区最南端の向島ニュータウンに住んでいたので、時々この商店街に買い物に来ていた。まあ、この辺りの中心商店街で、そんなに「衰退」してはいない。ただ店は栄枯盛衰が激しいというか、大分入れ替わっていた。まあ昔のままの所も多かったが・・。で、大分奥の狭い間口の「川魚屋」はまだ健在で、懐かしく鮎の佃煮を買った。並びの喫茶店(UCC)も昔のまま、家内は、店員さん4人のうち3人は昔のままと言う。カウンターで珈琲を飲んだ。目の前で煎れてくれる。老眼鏡が、いくつか揃えて置いてあるのでマスターに聞くと「最近は年配の人が多いため、若い人は別の所(スタバか?)に行く・・」とのことだ。だとすると、私達は伝統的喫茶店族かな、と思った。(写真は、大手筋商店街)

黒川伊保子著『日本語はなぜ美しいのか』読書録ー2「Good morning」

2007-03-03 | 生活描写と読書・観劇等の文化
「語感だけでいっても、「Good morning」は「おはよう」に比べると、暗く物憂げなのは事実だ。英語圏(ウン、英国?-小生注)の人たちの朝は、日本人の朝より、少し静かに始まるようである。考えてみれば、このことばを生んだ英国は日本よりずっと緯度が高いので、日本のように、年中、朝の光が眩しいわけではない。冬などは、子どもたちの登校時間になってもまだ暗い。実は、ことばは、このように風土とも無関係じゃないのである。眩しい朝を迎えることの多い日本人は、朝にアサASaということばを与えた。喉も口も開けるAに、舌の上に息をすべらせて口元に風を作るSの組み合わせ。まさに、爽やかな開放感のことばである。オハヨウも、ハの開放感が目立つ、弾むような挨拶語である。黎明の中や、穏やかな陽光の中で一日を始める緯度の高い英国に住む人たちは、くぐもった発音の「Good morning」で挨拶をし合う。いたわり合いつつ、徐々に活動を開始するイメージだ。・・鮮烈な朝日で迎える日本の朝には、日本語のアサ、オハヨウがよく似合う。日本に生まれ、日本の朝日の中で「アサヨ、オハヨウ」と言われて抱き上げられる赤ちゃんの脳には、素直に、ことばと情景の感性リングが成立する。もちろん、英国の薄暗い朝に、穏やかな低音で「Good morning」と言われて抱き上げられる赤ちゃんの脳にも、素直に、ことばと情景の感性リングが成立する。こうして、その国の風土と人々の意識とによって、長く培われたことばが、母国語である。」(12-14頁)だから、日本人が日本という風土では、早期教育か何か知らないが、赤ん坊に英語教育をしてはいけないのである、と彼女は言っているのだ。(続く)

防火御触書

2007-03-03 | 生活描写と読書・観劇等の文化
近所に相楽中部消防署西木津出張所があって、消防車、救急車が見えていて一寸安心だ。今日、その前を散歩していたら、その出張所前の塀に「高札」がかけられているのに気付いた。前からも気付いていたが、じっくり見ていなかった。
防火御触書と書いてあって、以下五項目があげられている。出張所の人に頼んでメモ用紙と筆記用具を借りてメモした。以下、実際は縦書きだが横書きしておく。

一、たばこの投げ捨て禁じ候
一、寝たばこ禁じ候
一、火の始末は責任をもって取り扱うべし
一、火付けされないよう日頃から整理整頓に勤めるべし
一、天ぷら中はその場を離れるべからず
               木津西防火奉行

聞くと、『京都新聞』にも取り上げられたようだ。こういう面白い町の「表示」なら皆気をつけて読んでくれるのではないか。

黒川伊保子著『日本語はなぜ美しいのか』読書録ー1「朝よ、おはよう」

2007-03-03 | 生活描写と読書・観劇等の文化
この本特有のキーワードは色々あるが、最もベーシックには「発音体感」というコンセプトであろう。発音と同時にその時感じる体の状況(気持ち)である。最初に「朝よ、おはよう」という日本語があげられる。「アサという発音体感には、爽やかな開放感がある。・・「朝よ、おはよう」と声をかけた母親は、無意識のうちに自分の発音体感によって、爽やかな、弾むような開放感を味わっているのだ。さて、注目すべきは、赤ちゃんの脳である。赤ちゃんには、目の前の人間の口腔周辺の動きを自らのそれのように感じとる能力がある。このため、母親が無意識に感じている、爽やかな、弾むような開放感に赤ちゃんは共鳴して、一緒に味わっているのである。アサ、オハヨウということばは、これとともにある情景、すなわち、透明な朝の光や、肌に触れる爽やかな空気や、抱き上げてくれた母親の弾むような気分とともに、脳の中に感性情報としてインプットされていくのである。」(10-11頁)と。この情景から、日本語の他の言語との比較しての特徴、12歳まで「美しい日本語漬け」にする必要性が展開していくのである。引用の最後の方も含めて、別のところで次のように述べられている。「母親の発音体感と、母親の気持ち、その時の情景と、母親の所作。この四つに共鳴することで、赤ちゃんは、ことばの基礎を作り上げる。したがって、母親は、発音体感が自らの意識や所作と密接に連携していることば、すなわち、母親自身の母語を使うべきである。(我々は日本語だ。英語を格好いいなんて思ってはいけない!)母親の発音の心地よさをたっぷり経験した赤ちゃんは、やがて、何かに興味を感じたとき、その対象物と共鳴し合うために音声を発するようになる。その音声に母親が反応して、意識の共有、すなわちコミュニケーションの体験が始まる。」(69頁)発音体感に関連して、その時の意識、情景、所作もキーワードと言えよう。(続く)