西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

赤ん坊のサポートと観察を皆で・・・

2007-03-04 | 色々な仮説や疑問
黒川伊保子さんは『日本語はなぜ美しいのか』(集英社新書)を、赤ん坊をお母さんが朝に抱き上げて朝日の中で「朝よ、おはよう」と声をかける場面から説き起こしている。私は男性、父親経験者として「ちょっとずるい、いい役回りは母親だけか」と最初思ったが良く考えてみて、赤ん坊は母親から生まれてくるので仕方がないな、と思った。しかし、言葉の発達だけでなく赤ん坊が幼児になり児童に成長するのに父親も役立ちたいと思っていると思うし、今や私は祖父として孫に対して役立ちたいと思っている。その辺を日本語の発達については、黒川さんに次の本で書いてもらおう。
で、生活空間のことを考える者として、赤ん坊にどういう空間が良いのか、常に考えている。黒川さんは「言語体感」というコンセプトを中心に置いているが、それと(母親の)意識、所作そしてそのときの情景の三つも重要としている。情景が生活空間にリンクしている。言葉については、話しかけることを「体感を与えること」と一緒に繰り返すことで実際に発達に立ち会える。で、どういう空間が良いかは、未だ物言わず、アンケートで調べることも不可能なので、どういう空間を欲しているか、は所作、情景を注意深く観察することから引き出す以外にないのである。黒川さんもご自分の体験と一人の子どもの観察から「言語体感」というコンセプトを掴んだのだ。こういうのを私は「一例調査」と言っている。一例でも普遍的法則は掴みうるのだ。私は、赤ん坊の空間として仮説的には、外部に緑の樹木が見えるべきでは・・、と言っている。これを実践しようとすると、部屋の回りを壁だらけにしてはいけないし、窓の外のベランダも外から閉じてはいけないのである。又、それが不可能でも近所の公園に抱っこで連れて行ってやるべきだ。だとしたら、地表の緑から遊離した超高層住居は論外ではないだろうか。まあ、こういう物言わぬ(実際は赤ちゃん語で言っているが・・)赤ちゃんについてはあらゆる学問はしっかりした観察をして結果を発達に役立てねばなるまい。
以前の関連ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/bbd2c50ea87cb81bff8ca1c46458be1d

1999年2月10日の日記よりー絶品、別品、逸品・・ー

2007-03-04 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日は、いい天気、T居住地の私の書庫に1997年~1999年の日記ファイル3冊を運んだ。で、1999年2月10日のページを何気なく読んで面白かった。この頃になると、「考察」という項目が途中に挟まって、そこに当時考えたこと、面白いこと等が書いてある。当日、上野邦一さん(現・奈良女子大生活環境学部長)と駄弁った記事がある。私が『毎日新聞』の余禄に載っていた亡くなられた哲学者・久野 収さんのエピソードで久野さんは「自閉症」という言葉に対して「他に家閉症、社閉症、国閉症もある」と言っていたらしいよ、と言うと、すかさず上野さんは「学閉症もある」と言ったので二人で大笑いになった。その時、私は別の「新聞知識」も披露した。「中国では皇帝が美術品選定のため「一品(天下一品)、二品、三品・・」と等級付けしたが、付けられず素晴らしいものが「絶品」、別カテゴリーの素晴らしいものを「別品」(別嬪に通ず)、少しずれているが面白いものを「逸品」としたようだ・・」と言うと、上野さんは「面白い、(逸品の話)」と言ってくれた。後で考えて、これを景色に適用すると、「一景、二景、三景・・、そして絶景、別景、逸景」となるのかな、と思った、と書いてある。へーそんなことを当時考えていたんだ、とすっかり忘れていたので「日記の効用はある」と言わざるをえない。

物理学からの言語解析

2007-03-04 | 生活描写と読書・観劇等の文化
黒川伊保子さんは、奈良女子大学の物理学科のご出身、お聞きすると「高エネルギー物理学」関係の卒論だったようだ。で、『日本語はなぜ美しいか』である。「発音体感」については、ソクラテスが初めて言及しているようだが、黒川さんは、次のように言っている。「私は、大学での専攻は物理学科であり、一般教養の哲学概論の時間も殆ど寝て過ごしてしまったので、「発音体感が言葉の本質である」ことを自分で発見した。人工知能の研究者として、自分の赤ん坊が言語を獲得していく姿を見ていたら、自然にわかったことである。(私注:これは、問題意識とそれに基づく観察調査の重要性を示している。)やがて、ソクラテスの言語論を知らないまま、「語感は、ことばの発音時の口腔内物理効果である」ことを発見した。そして、ソクラテスによる文字(言葉の音の最小単位)一つ一つへの解説を知らないまま、音素一つ一つの口腔内物理効果を精査して、ことばの音素並びを入力すると、発音体感のイメージグラフが出てくるプログラムを完成させてしまった。」(103-104頁)
実は、このプログラムが黒川さんの現在の「飯の種」である。色々の商品の名前が機能や顧客にあっていて心地よい響きかどうかを評価する仕事をしておられるからだ。
「発音体感は、意識と所作と情景を結ぶものだ。辞書的な意味によって発音体感の意味を語ろうとすると、美しい関係性モデルはでき上がらない。なぜなら、意味は記号であり、慣習的に使われているうちに、ことばが生み出されたときの意識や情景とは乖離してしまうからである。」(105頁)

的確な問題意識、周到な観察、論理的思考(物理学的思考)、現代的なコンピューターの駆使等によって、「発音体感」に基づく「黒川言語学」が成り立ちつつあると、言えよう。

黒川伊保子著『日本語はなぜ美しいのか』読書録ー5外国語のうちの米語

2007-03-04 | 生活描写と読書・観劇等の文化
「発音体感は、言葉の本質である(114頁)」ことから出発しているのだが、その発音体感は、所作、情景のなかで一定の意識を形成する。これら四つー発音体感、所作、情景、意識ーには一つの関係性が成り立つが、体格からして自然な所作になりうるか、風土に基づく情景と発音体感がマッチしているか等、で日本人、日本の風土では日本語の発音体感が似合うし自然ということで、日本においては母音中心の日本語が美しい、となるわけだろう。じゃ、子音中心の英語は、フランス語は、ドイツ語等々は、と問うとそれらも長い歴史をそれぞれの風土の中でイギリス人、フランス人、ドイツ人等々がつくりあげてきた訳で、それぞれの場で美しいに違いない、となる。
ところが、(あえて)米語だけが違うのでは、と言っているようにみえる。つまり、米国人は、殆どが「渡り者」、英語を持ち込んだと言っても、様々な異邦人にも分かりやすいように「記号化」された言葉に変わってきたのではないか、と言う。だから、さまざまな米語が受け入れられているのだろう、とのことだ。ふーんである。