こんばんは、4年目の安永です。
決勝の日から2ヶ月近くが経ちました。いまや部活での数々の思い出が美化され、美しい物語として幕を閉じようとしていますが、どうしても拭いきれない想いや、伝えきれなかったことがいまだに残っています。苦い味ほど舌に残るものですが、いつまでも過去をふり返っている場合ではないので、全てこのブログで「引退」の言葉と共に成仏したいと思います。
ボート部の大部分を僕は漕手として過ごしてきました。ある意味で常に「主役」であり続けられたことは、自分にとってとても幸せなことだったと思います。ただ、競技する側として本当に楽しかったのは今年のインカレだけで、本当の意味でローイングを競技として好きになるまでにはかなりの時間がかかりました。
推し(S: Tom George B: Ollie Wynne-Griffith)
1年生の頃、自己紹介ブログにも書いてありますが、当時の僕は漠然と「強くなりたい」という気持ちでこの部活に入部しました。当時の僕は中高のころから周囲と自分を比較することが多く、特に、顧問から厳しく指導された経験を持つ部活動組は自分にとって強者に見えていました。だから何かしらスポーツをやって結果を残せば自信になるだろうという考えがぼんやりとありました。しかし、大学から始めて勝てるスポーツは限られていて、僕の中では最初からボートに興味がありました。当時主務だった和田さんの熱い言葉に惹かれて、試乗会で即入部を決めることになります。今思えば、同じ日に僕よりも先に勇気を出して入部宣言をした女子がいましたが、それがまさか運命の出会いになるとは思いもしませんでした。
漕手人生を振り返って思い出すのはまず「エルゴ」です。好きな人はいないと思います。北大ボート部は冬漕げないので、尚更エルゴと向き合う機会が増えるわけですが、あの心肺を限界まで追い詰めることのできるマシンを忘れることはできないでしょう。昔から、持久力には少し自信がありましたが、それでも心臓がちぎれるまで追い込む2000mTTなんて地獄で、常に恐怖でした。
今でも覚えているのですが、冬練のとき、どうしてもキツいメニューをやる日に漕手以外スタッフが来ない日があって、気持ちが萎えてしまった僕はジャガーに応援をお願いすることにしました。突然の要望に来てくれないかなと思いましたが、ジャガーは律儀に来てくれて、へバっている僕に檄を飛ばしてくれました。ジャガーはその日だけ来てくれれば良かったのですが、次の週も、そのまた次の週も欠かさずに応援に来てくれました。当時まだコロナでマスク等の期制が厳しかった中で、来る必要もないのに応援しに来てくれる同期の存在はとても貴重でした。その頃からジャガーのスタッフ魂みたいなものを感じていましたが、2年生になってからも、その魂は健在で、ずっと冬練のクソ退屈なUTを見守ってくれたし、動画も撮ってくれたし、高校時代の漕手の経験も活かしてアドバイスもしてくれたし。どれだけ感謝しても仕切れないくらいの気持ちです。冬練のときは本当にありがとう。
新人期間のエルゴタイムを振り返ると面白いもので、初めての2000mTTのタイムは7分27秒でしたが、翌月のTTでは7分18秒、更に年末のTTでは7分08秒と短いスパンで確実にタイムを伸ばしていました。こうやってタイムが伸びるとキツいエルゴもモチベーションが爆上がりするのですが、問題は伸び悩んだときです。
僕が最もエルゴに悩んだのは、最高学年のシーズンでした。同期3人の中でエルゴベストタイム最下位の僕が偉そうに語れる分際ではありませんが、それでも僕がエルゴにどうやって向き合ってきたか振り返ってみようと思います。ここではTTで失敗した例をいくつか紹介することにしましょう。
まずは3年目の冬。当時の僕は練習で出すエルゴタイムは誰にも負けていませんでした。1時間UTのタイムが明らかに伸びたことに加えて、500m×6のタイム、12分エルゴのタイムどれに於いても過去最高のタイムでした(シーズンが始まってから冬練で出したタイムを超えることが出来なかったくらい、最も調子が良い時期でした)。その頃エルゴが一番回るのは小方だったので、僕は小方に勝つことを目標に6分40秒カットの目標を打ち立てました。
しかし、当日は思うように体が動きませんでした。いつも短漕で楽々と1分40秒ペースで漕ぐことが出来ていたのに、いざウォームアップで漕いでみると何故か出ない。しかし、自分が決めたプランを変更したくなかったので、そのまま本番に挑みました。結果は、ベストタイムから2秒落ち。ペース配分を完全に間違えて、頭では必死で漕ごうと思っても思うように体は動かず、後半はガス欠でした。一方で練習では確実にタイムが伸びていたのにもかかわらず、本番では何も変わらない現実に打ちのめされました。
このままでは終われないと思い、後日納谷に見守られながらリベンジTTを敢行しましたが、途中から気力がなくなり、完全に失敗に終わりました。そのころからエルゴに対しての自信がなくなってまた恐怖心が強くなっていました。
続いての失敗例は最後の夏、8月末のTTです。これはブログにも書いたので省略しますが、リベンジTTに向けて乗艇練習の合間にこそこそと1000mエルゴを何発か引いていました。正直に言うとタイムは満足いくものではありませんでした。練習後の補強でやっていたためかも知れませんが、500mのラップタイムを1分40秒でキープするだけでも精一杯で、レートを上げる以外に選択肢はありませんでした。そのため、自分が現状出せるペースは前回のベストタイム程度だと考えていました。あとは1秒でもいいからベストは更新したいと思っていました。
当日はリベンジTTをやることを誰にも伝えていませんでした。自分だけで完結させるつもりでした。オフ明けの乗艇前、これしかチャンスはないと思い、ハンドルを握りました。結局大勢の人に応援されながらエルゴを回しましたが、500m過ぎたあたりからまたコンスタントへの恐怖心が出てきて、急に漕ぎが弱くなりました。コンスタントは結局目標のペースよりも2秒遅く、得意のスパートで巻き返しを図るも最終的にベストタイムには届きませんでした。皆が「ああ、やっぱりそうだよね」という感じで去って行くのが哀しくて、虚しかった記憶があります。インカレ前に何も成長していない自分がとても情けなく感じられました。
これらの例はあくまで一部で、何回もTTをやっているので、多くの漕手がそうだと思いますが、何回もベストを出せずに悔しい思いをしているし、その分何度もベストを更新してきました。特に自分の場合、弱点はコンスタントにありました。逆に、スパートは大の得意で、コンスタントさえ決まれば後は勝ちでした。500m過ぎたあたりからベストを出せない原因は何か。僕は以下の通りだと考えました。
- 自分が漕ぎきれるペースを理解していない
- 自分が目標としているペースに自信がない
- それゆえ本番では目標のペースと現実で出せるペースが乖離している
- 自分が目標としているペースに自信がない
まず、最初の失敗例からもわかるように、自分が漕ぎきれる2000mTTのペースは必ずしも練習のベストタイムに比例しない、ということです。逆に、練習であまり伸びていなくてもTTで伸びることだってあります。なので、自分が漕ぎきることが出来るペースを掴むことは非常に難しいです。だからといって、自分が楽に漕げるタイムを狙いすぎるとベスト更新にはつながりません。ではどうすれば良いのでしょうか。
僕がこれらの失敗例から次のような教訓を得ました。
まず、TT本番は常に最良のコンディションとは限らないということ。だから、できる限り定期的に同じATメニューをこなしておくことです。
ベストを狙うならコンディションを整えるのは当然のことですが、それでもコンディションは大きく変化します。なので、練習で出た「ベストタイム」は決して参考にしてはいけません。ATトレーニングは基本的にキツいメニューなのでくり返しやりたくないのは事実ですが、同じタイムを別の日のコンディションでも出せると信じるためには、再現性をとることが必要になります。なので、1回やったタイムではなく、同じメニューで複数のタイムを参考にすることです。ここで1つ注意しなければならないのは、半年以上前のタイムは参考にならないということです。TTはそんなに短期間で訪れるイベントではないので、TTに関わらず定期的にATメニューをこなしておくことがポイントです。これはガムシャラにATメニューをやりまくればいいという話ではなく、高頻度である必要はありません。自分でなにかTTに向けて参考にするメニューを決めてそれを最低でも月に1回はやるなどと決めておくと、TT前だからといって焦ることはなくなります。また、定期的にATメニューを行えば、それなりにキツいことをやるメンタルの耐性もついてくるはずです。そして実際にそれらのタイムから自分が出せる最適な2000mTTのコンスタントペースを割り出すのです。メニューのタイムからコンスタントペースを割り出す明確な計算方法はありません。なので、自分だけでなく、周囲のデータも参考にすることです。もちろん、余りにも体格差を考慮しないで参照するのはよくありませんが、自分の身長と体重も考慮して、いろんな先輩の過去の記録を見たり、コーチに相談したりすることが成長への近道だと僕は思います。
一番良くないのはこの日にTTやるからといって、あわてて数週間前からATメニューをたくさん回して、1回きりのメニューだけで自分の状態を把握しようとすることです。僕はほとんどこのやり方でTTに臨んでいたので、理想の高いプランを立てて、タイムが伸びなくてもその時のコンディションが悪かったからだと言い訳していました。しかし、今思えば、もっと定期的にATメニューを行い、過去の蓄積から冷静に自分の出せるタイムを見極めて、プランを立てるべきだったなと思っています。
練習の記録からある程度自分のペースを割り出すことで、自分が漕ぎきれるペースをある程度理解することはできます。しかし、それだけでは不十分です。僕の2つ目の失敗例では、TT前に複数回行ってきた1000mエルゴタイムから自分がベストタイムと同じペースで漕ぐことはできると理解していたにもかかわらず、途中で自信を失ったがために、ベスト更新を逃してしまいました(もちろん、そもそもペース配分を理解できていなかった可能性もあります)。
この事例から言える2つ目の教訓は、自分のペースを理解するだけではなく、実際に同じ強度で漕いだときに漕ぎきれる自信をもつことが必要だということです。
自分のプランに自信を持つためには、なるべく本番の強度に近づけたトレーニングをする必要があります。例えば、1週間前にTTを一人でやってみたり、B4を漕いだり、1000mを漕いだりするなど、人それぞれやり方が異なります。自分の場合、成功例は多くないですがTTの強度を再現することで自信を付けるタイプだったので、TT前に一人で2000mTTを敢行することもありました。3年目の東北戦選考の時は、1週間くらい前に2000mTTを行って6分50秒をギリギリでカットし、本番では6分47秒でフィニッシュし、ベスト更新したのを覚えています。
このように、自分の漕ぐことが出来るペースを理解し、そのプランに自信を持つことが出来て初めて、ベスト更新が見えてきます。僕は1年生の頃からタイムを40秒以上伸ばしてきましたが、ベスト更新したTTの多くは、現実のペースがプランにマッチしているときでした。ペースを理解しないまま根性で押し切ろうとしたり、逆にペースを理解していても、キツいところを乗り越えるメンタルが弱かったりすると、上手くいきません。振り返ればガムシャラに何の考えも無しに練習をこなしてきた自分に対して、もう少し頭使えばよかったな、と思うことは山ほどあります。でも、最後まで諦めずにエルゴに向き合ったからこそ、最後の表彰台に結びついたのかもしれません。
さて、かなりエルゴの話が長くなってしまいましたが、漕手としてエルゴと同じくらい重要なことは乗艇練習です。乗艇技術について偉そうなことはなにひとつ言えませんが、今まで組んできたクルーの思い出は沢山あります。
僕にとって大きなターニングポイントは2年生の夏、インカレクォドルプルのクルーに選ばれたときでした。当時、僕の新トレだった伊藤悠哉さんがクルーキャップで、かなり厳しく指導された記憶があります。今思えば、修士2年の先輩が僕と千里の2年生2人を指導することはかなり大変だったと思います。今でも覚えているのは、僕がバウに乗ったとき、漕ぎについて行くだけで精一杯で後ろを見る余裕がなく、ペケレットの曲がる地点で後ろを見ずに逆漕しかけて怒られたことです。当時の伊藤さんの練習に一切妥協しない姿勢は、後の自分に大きな影響を及ぼしたと言っても過言ではないと思います。乗艇距離は絶対で、ノルマが達成出来なかったら陸に揚がってからもサーキット、体幹、懸垂・・・などなど。 上級生の中でもトップレベルのハードワークで頑張りましたが、結局、インカレはコロナの影響で棄権。伊藤さんの引退に華を添えられなかったことは非常に残念でしたが、大西さんたちが成し遂げたインカレ入賞という革命は僕の中で大きな希望でした。しかし、その喜びを現場で分かち合うことはできず、ホテルの一室で無限に出てくる咳とともに苦しみました。
2022年9月男子クオドルプル予選
療養していたホテルから見たスカイツリー。いまだにこれを見ると思い出す・・・
インカレでの無念を晴らすべく、奮闘したのが新人戦でした。レースについてはブログに残してあるので、そちらを参照していただきたいと思います。かなり記憶が美化されているので、あまりちゃんとしたことは覚えていませんが、最初の予選で僕が臆病で足蹴りを入れなかったところに、後ろから千里がたくさん足蹴りを入れてくれたことを今でも覚えています。普段斜に構えて面倒なヤツだと偏見しか持っていませんでしたが、レースで魅せたアツい一面に心動かされました。。あのときの足蹴りは今でも感謝していて、敗復で攻めたレース展開ができたのは後ろから千里が支えてくれたおかげでした。あのときは本当にありがとう。
レースでは悔しい思いを味わった一方で、新人戦の運営面でもかなり自分の無力さを痛感することになりました。当時は僕が2年目の代表という立場でしたが、実際に運営の切り盛りをしていたのは納谷と上野さんたちでした。当時から納谷の責任感の強さと行動力の高さはかなり相当レベルの高いものでした。代表者会議をすっぽかして、ブレードカラー不統一にあたふたする自分と比べて、テキパキミーティングをこなす彼女の存在は、まだ何も知らなかった僕にとって、自分よりも遙かに強く、優秀な存在に見えました。このころから、リーダー格としての納谷を自分と比べることが増えていました。挙げ句の果てには、主将は自分じゃなくて納谷が務めた方が良いのではないか、とすら思っていました。
話が少し逸れてしまいましたが、新人戦が終わってからはスイープを漕ぐ機会が増えました。スカルを漕いでいた頃はまだ良かったのですが、スイープを漕ぐことになってからある大きな壁にぶち当たることになります。初めからそうだったのですが、僕にとって重要な課題は、自分が漕ぎづらい環境下におかれたときに、上手く対処できないことでした。乗艇練習ではよく「リラックス」を意識しますが、僕はそれが非常に苦手でした。常に力が入っていないと思い通りに体が動かせないと勘違いしている、典型的な運動音痴だったのです。そんな僕にとってクルーに合わせることは何よりも難しいことでした。なので、「自分が気持ちよく漕げないから合わせられなくて当然だろ」という考えの方が大きく、こんなに必死で頑張っているのに気持ちよく漕げないのはなぜ?と不満を顕わにすることが非常に多くありました。自分の技術に自信があれば、漕ぎにも余裕が生まれてくるのですが、下手クソな僕はその余裕がありません。でも、クルーでそろえることができないと重たいし、漕いでも漕いでも良くならないし、不満は募るばかり。その不満はいつしか他人に向くようになっていました。
去年の夏、3年目のインカレのシーズンは一番クルーに迷惑をかけた時期でした。
僕は付きフォアに乗ることが初めてで、バウを担当するのも初めてでした。怪我を乗り越えて勝ち獲った対校の座だったからこそ、初めはとてもワクワクしていました。しかし、その期待もつかの間、バランスの取れない付きフォアで様々な苦労が待っていました。そう、気持ちよく漕げないのです。当時自分は東北戦を経験したことで、それなりに上手い選手だという自惚れがありましたが、エイトの安定したバランスでできていた漕ぎは、付きフォアでは全くできませんでした。付きフォアは当然ですが4本のオールしかないので、8本のオールでバランスを誤魔化すことはできません。上手くリラックスなどできず、UTは重たいし、ふらふらするし、技術は狙えない。バウだった僕は積極的に声を出して今まで得た経験や自分の感覚だけを頼りに、こうすれば上手くいくと思ったことをできる限り実行に移そうと考えていました。そしたら後ろから飛んでくるコールは何故か自分が思ったことと全然違う。背中合わせで違う方向を向いているだけで、思った通りのコールが飛んでくると思ったら違う。違和感で済んだら良かったのですが、上手くいかないときほどその違和感は大きくなり、感情に表すことが増えました。なぜキツいことをしている漕手のことを分かってくれないのか?漕いだこともない人間に技術の何が分かるのか?自分が気持ちよく漕げないことを分かっているのか?手探りで、漕いだこともないからこそ積み重ねてきた納谷の努力を知る由もなく威圧的な要求だけして、COXを育てることはしませんでした。様々な感情をごちゃ混ぜにして自分から壁を作っていました。しかしそれのせいで、他のクルーにも、特に千里には沢山迷惑を掛けました。人のミスを指摘したり、出来ないことを責めたりすることは簡単でした。でも僕はこのインカレ期間で、COXからの指摘を一切改善することなく終わりました。エントリーも、キャッチも、フィニッシュも。何一つ。
本当に、申し訳ありませんでした。
インカレで急遽代漕で出てくださった佐々木さん、ありがとうございました。
その年のインカレはC決勝止まりでした。クルーキャップを務めた純大がレース後に言葉を失う姿は、見ていて辛いものがありました。悔しかったし、自分が起こしたトラブルに対する責任も感じましたが、何より、大西さんたちが成し遂げた8位入賞の偉業が、ずっと、遠くにあるように感じられました。誰よりもリスペクトする先輩たちに、こんな自分が届くのだろうか。そんな不安を抱えたまま代替わりを迎えました。
代替わりしてからも、乗艇中にイライラしたり、自分の下手くそさに萎えたりことは沢山ありました。乗艇で上手くいかなかっただけで、練習後もあまり誰とも口をききたくないと思ったことなんて山ほどあります。本当に切り替えが下手クソでした。それでも、最高学年が雰囲気を悪くしてはいけない、自分を変えなければいけないということは分かっていました。
それと同時に、段々ローイング熱が冷めてきたのもこの頃でした。主将になり、自分が何のために部活をやっているのか、何を目的としているのか明確な答えを出せないまま時間だけが過ぎていきました。自分は心の底からメダルを獲りたいと思って言うのだろうか?と自分の覚悟を疑う程でした。理想と現実の遠さを実感したからこそ、目の前のハードワークのキツさが「割に合わない」と感じていたのでしょう。ローイングを見る分には好きでしたが、自分が心からローイングを楽しむことは全くできていませんでした。
最後のシーズンが始まり、東北戦ではクルーキャップを務めました。ヌルっと決まったのは今でも覚えています。自分が主将だから、大事なレースでキャプテンを務めなければいけない、というプライドだけが全てでした。春遠征の頃はガタガタだった艇もペアの練習を積んだおかげで、艇のバランスも良くなり、初めてのTTで6分10秒(強い順風だったけれど)を切って、東北戦勝利はもう目の前だと思っていました。
しかし、ある日のミーティングで出た発言を僕が一笑に付したことがきっかけで、一人の後輩の機嫌を損ねたあたりから雲行きが怪しくなり始めました。度重なる肋骨の怪我、体調不良、ミーティングの間延び、4年目の意見の食い違い、後輩との信頼関係のゆらぎ。当時小林(2)が「このエイトは楽しくない」と言っていたのを今でも覚えています。僕自身、クルーキャップとして急速に自信失っていき、方針決定ができない状況にありました。しかも、そもそもクルーのメンバーが揃わず、練習をこなすだけで精一杯でした。特にクルー変更をして7番に乗ってからは佐々木さんのリズムに合わせられないことに悩みました。悩んでいる側からエントリーが遅れている、1枚入っていないなどと澄ました顔で指摘してくるCOXにまたイライラし始めました。今思えば、あのとき自分が抱いている漕ぎの悩みをハッキリ話しておけば良かったと思うし、ここのキツいところで応援が欲しいと誤魔化さずに伝えておけば、なんてことはなかったと思うのですが、そういったことはせず自分が漕ぎやすいか漕ぎにくいか、今の状況が自分にとって正解か不正解かだけを考えていました。情けないクルーキャップだったと思います。「向いてない。」そう思って逃げていました。
インカレで結果残せたから良かったように見えてるけど、あのときは辛かった。自信がなくてクルーの誰にも頼れなかった。頼っているように見えても、自分が何とかしなければというプライドのようなものにしがみついて最後まで頼り切れなかった。
こうして迎えた東北戦、男子エイトは負けました。ただ、良いレースだったとは思います。田中や小林が一生懸命声を張り上げて後ろからサポートしてくれたことは今でも覚えているし本当に感謝しています。また、僕らよりも一足先に同期の大向がシングルスカルで大勝し、新人エイトも接戦を制して勝利しました。大向のSlackはよく見ていたのですが、孤独なシングルスカルを小澤さんと二人三脚で頑張っていることはよく知っていました。だからこそ、素直に同期が喜んでいる姿は嬉しかった。新人エイトの勝利も久々で、北大が負けっぱなしの時代は終わりを迎えつつあるなと思いました。
東北戦後、あることがきっかけで当時北大ボート部のテクニカルアドバイザーであった浅野さんに全てを打ち明けて相談に乗って頂きました。今でも覚えていることは、「相手にも親がいて、家族がいて、子供がいることだってある。そんな人に威圧的な口を利けるか考えたらいいよ」、と言われたことです。それをきっかけに、すこし意識を変えてみようと思うようになりました。恥ずかしながらタイトルだけ見てアンガーマネジメントの本を図書館で借りてみましたが、おかげで自分が感情的になったときに、その裏で自分が何を期待しているからムカつくのか?を考えるようになりました。また、相手を否定しないこと、まずは聞く姿勢を持つことも大事なんだと知りました。それで何か自分が変わったわけではありませんが、大きな目標のためには自分の態度を変えていかなければならないという気持ちは強くありました。
あのとき相談に乗って頂いた浅野さんには本当に感謝しています。ありがとうございました。
浅野さん(左)、後神さん(右)
こうして、あっというまに迎えたインカレ選考では対校クルーにギリギリのタイミングで選ばれて首の皮一枚繋がったという感じでした。その頃にはもうまさすけが実権を握り始めていて、僕がしゃしゃり出る隙など一ミリもありませんでした。ある日、クルーで初めてミーティングを開いたときは自分がクルーキャップを名乗り出ようかと思いましたが、自分が今までのようにプライドに固執してクルーキャップになるよりは、まさすけをクルーキャップにする方が良いと思ったので、心の中にこびりついていた主将としてのプライドは捨てました。
インカレクルーを組んでからは、上手く行くことばかりではありませんでした。正規のクルーでまともに漕げる日は少なく、茨戸でのTTも数えるほど。タイムも6分40秒台前半で、このままインカレに出てもB決勝が関の山といったところでした。それでも、あることをきっかけに僕が成長するチャンスが訪れます。
ある日、僕が今まですっと悩んできたリラックスすることが苦手で漕ぎが固くなってしまうことをまさすけに思い切って打ち明け、どうすれば良いか尋ねてみました。そしたら、まさすけは一言、「ノーワークで漕げば良いんじゃない?」といって去って行きました笑。この言葉は余りにも衝撃過ぎました。乗艇中に手を抜くことは僕にとって許されませんでしたが、それでも乗艇中に力みが取れなくなったら試してみることにしました。
実際試してみると、最初はうまくいきませんでしたが、段々改善の兆しが見え始めました。パドルの合間に手を抜くことは良くないと考える人が多いとは思いますが、僕にとって、手を抜くくらいがちょうど良くて、フォワードとドライブのメリハリを付けるためのいいきっかけを与えてくれました(※後輩はマネしすぎないで下さい)。おかげで、フォワード中はこんなに休んで良いんだと分かるようになりました。逆に、力み始めたら、フォワードのリラックス感を思い出すようになっていきました。乗艇中のバランスへの対応力も良くなり、漕ぎづらさも減ってきました。そして、戸田の予選前日にはかなり良いイメージとともに仕上がっていました。まさすけのぶっきらぼうな一言がなければ、ここまでたどり着いていなかったと思います。大感謝です。本当にありがとう。
最後のインカレはあっという間にやってきました。
どのクルーも例年以上に追い込んでいる印象でした。そんな中で、僕ら対校付きフォアのメンバーは誰一人、メダルを取れる100%の自信は無かったと思います。唯一の希望は何かをきっかけにこのクルーが「化ける」こと。ただそれだけでした。
今年のインカレについては沢山の人が書いていることだと思うので、レースの詳細は省きます。ただ1つだけ、メダルを獲った大きな理由は何かと言われたときに、レースの前日に練った戦略にあったと僕は考えています。レース戦略を練る際には、他大学のペース配分やエルゴタイムなどの情報が非常に重要です。予選まではデータが少なく、相手がどこまで仕上げてきているかが分からないので、自分たちのプランで攻めるしかありません。しかし、予選を超えてからは違います。各大学のペース配分やスタートの速さ、スパートの掛けるタイミングが予選のレースから見えてくるからです。予選が終わったその夜、僕はかねてから納谷と約束していた、レースデータの分析を行いました(単にタイムをグラフ化して並べただけですが)。それを納谷のレースプランと細かく摺り合わせながら、どこでコンスタントに入るべきか、スタートの本数はどうするか、コールはどうするか、などといった具体的な対策を念入りに相談しました。これは予選だけでなく、毎レース、前日の夜に打ち合わせをしていました。おかげで、レース本番は何の迷いもなく、漕ぐことができました。こんな経験は全く初めてのことでした。このレースプランを練る時間は人生で最も有意義な時間だったと思います。納谷と組んで初めて上手く行ったレースでした。
決勝の日、僕は千里を自由に漕がせることだけを考えていました。自分の役目はストロークを支えることだと本気で思っていました。いつもだったら500m過ぎて「北大、出てるぞ!」のコールを信じることはできなかったと思いますが、納谷のプランを完全に信じ切っていたので、100%信頼して足蹴りを入れ続けました。僕は唯のCOXの指示に従うローイングマシーンでした。
今納谷が自分のCOXに対する評価をどう捉えているかは知りませんが、僕は納谷がいなければ、足蹴りを入れる余裕などありませんでした。間違いなく、北大ボート部80年の歴史が誇るCOXです。そしてこれからも舵を取り続けてください。
こんなクソみたいな漕手に、どんな辛いときも発破を掛けてくれてありがとう。
小林という次世代のスーパーエースと、最も信頼しうる同期3人が共に乗ってくれていたからこそ、初めてローイングを心から楽しいと思うことができるようになりました。インカレで化けたことで、やっぱりまだまだ自分は上手くなれるし、もっと速くなれると思えるようになりました。
感謝を述べたら切りがなですが、一緒に乗ってくれたクルーの皆、サポートしてくれた同期、大西さん、浅野さん、そして駆けつけてくれた野田さん、伊藤さん、先輩・後輩の皆さん。本当にありがとうございました。
久我さん(右)
都雲さん(左)
二人とも僕にとって憧れの主将でした。
僕はこのインカレを通して本当の意味で、ローイングが好きになりました。
振り返れば、これまで自分が主将になって抱えてきた、「自分が立てた目標を何が何でも達成したいと思えない」悩みについては、目標を達成したときに側にいる人がどんな気持ちになるかを明確に想像していなかったことが原因にあると思います。当時の僕は高尚な目的ばかり考えていましたが、「自分がローイング未経験でも活躍する姿を見せることで、自分のようにスポーツの経験が浅い人を勇気づけたい!」とか、「自分が代表になってローイング界を盛り上げたい!!」みたいなことは、口にすることは簡単ですが、だれしも最初から持っている訳ではありません。そんな漠然とした広い範囲の対象よりも、重要なことはもっと近くに目を向けることです。目標を達成した時に「自分の近くにいる人」例えば同期がどんな顔をしているのか、後輩がどんな目で見てくれるのか、お世話になった新トレや先輩方はどんな気持ちになってくれるのか。これを考えることが目標に向かって努力する1番の原動力になると考えています。身近な人のために頑張ろうと思うことで、チームのために頑張ろうと思えるし、そうやってチームのために頑張る人が増えることで、全国の舞台での結果に結びつくのだと思います。今年のインカレではそのことを強く実感させられました。
応援団のみなさんもありがとうございました!!
こうして、今までは主役として前線で戦ってきましたが、今度はチームのために後方から支援する番だと思っています。ここで宣言しますが、来年は新トレを務めさせて頂きます。1年生を育て、今流れる北大ボート部の上昇気流を止めることなくむしろ加速させていきたいですね!
何はともあれ、ひとまず3年半北海道大学ボート部にお世話になりました。
また来年もお世話になります。
漕手は引退しません
※引退ブログの投稿遅くなってすみません。