お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

お墓

2008年07月24日 | 仏教
 先日、ある方がこう言われた。
「初めて『千の風になって』を聞いたとき、おいおい、そんなこと言うなよ と違和感をおぼえました」
 
 別の方もこう言われた。
 「『私はお墓にいません』なんて言ったら、お寺は困るだろう。何のための墓参りなのか

 う~ん、前に書かせていただきましたが、結論から言うと、「千の風になって」は、極めて浄土真宗に近い考え方(味わい方)です。仏教では故人のお骨に霊がやどっているとは、考えません。
 冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、お骨は、お骨。

 もちろん、遺族の感情としては、
 亡くなった最愛の者は、姿も無くなり、「白骨の章」のように、「ただ白骨だけが残る」 
 自分の最愛の者を偲ぶ「直接の縁(よすが)」は、お骨だけ・・・
 だから、お骨を大切に埋葬(納骨して)、お墓の前で、生前の姿を思い、偲ぶ・・・
 それは、遺族としては、当然の感情です。
 
 でも、亡くなった最愛の者は、生前の「凡夫」のままの感情をもった「霊」として、お墓の中で、じっと眠っているのではない。
 「生前、好きだったから・・・」とお酒や饅頭のお供えを期待しているわけじゃない。
 今や、故人は、さとりの「仏」となって、後に残った者の心に、はたらきかけてくださっている・・・「さとりに導こう」とはたらいてくださっている。

 その仏さまの「はたらき」に気づき、心を合わせ、なるべく、仏さまを悲しませない生き方をさせていただくのが、遺族の「仏さま」への報恩感謝。そういう気持でお参りさせていただくのが、「墓参り」だとオバサンは味わうのであります。

  
 

 

 
コメント (10)
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