お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

白骨の章 その2

2008年07月22日 | 仏教
 昨日、ご紹介した「白骨の章」
 初めて聞かれた方のために「御文章 ひらがな版」を基に現代語訳にて、ご紹介します。
 「人の世の はかない様子をよくよく考えてみますと、この世は幻のような一生です。一万年も生きた人がいるなどと聞いたことはありません。人の一生はすぐに過ぎてしまうのです。今、いったい誰が百年の命を保つことなどできるでしょうか。
 私が先か、人が先か、今日とも知れず明日とも知れず、人の命の尽きる後先は絶え間のないものです。朝には元気な顔であっても、夕べには白骨となってしまうような身です。無常の風に吹かれると、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息はながく絶えて、元気な顔もたちまち美しい姿を失ってしまいます。そうなってしまえば、家族が集まって嘆き悲しんでも、どうしようもありません。
 そのままにしてはおけないので、野辺のおくりをし、荼毘にふして煙となってしまうと、ただ白骨だけが残るのです。それはもう言葉にも言い尽くせない悲しみです。
 人の世のはかないことは、老若にかかわらないことですから、誰も皆 後世の浄土というもっとも大事なことを心にかけて、阿弥陀如来を深くたのみたてまつって、念仏しなければなりません。 謹んで」


 
 「後生」「後世」は、死んでからのこと・・・というよりも、この命の行く末・・・普段生きているのが当たり前と命の現実を忘れて生活している者が、命の現実に気づかされる、それ以後の「私の生き方・心のもちよう」だと、私は味わっております。

 「浄土」は、「死者の世界」「あの世」ではなくて、「悟りの世界」「仏の世界」のことです。

 「阿弥陀仏をたのむ」は、私が力を入れて「阿弥陀様、私を悟らせてください!お願いします」と、「頼む」「お願いする」というより、「あるがまま、おまかせする。阿弥陀仏の御心にそう」って感じでしょうか。

 「念仏する」は、「行」として阿弥陀仏の名を称えるのではなく、もれなく浄土に導いてくださる「阿弥陀仏の仏恩に感謝して心を合わせる念仏」であります。

 あ、「誰か百年の形体を保つべきや・・・」現代では、ご長寿で百歳の方もたくさんおられますので、現代に合わせるなら、「誰か百五十年の形体を保つべきや・・・」くらいに年齢を引き上げておかなければならないですね。



 
コメント (5)
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