お釈迦様は、釈迦族のプリンスでしたが、王宮の快楽生活
を捨てられました。
お金も女も地位も・・・人にチヤホヤ、頭を下げられることも・・・「虚しい」と思われたわけですね。
そして、それはそれは厳しい苦行に励まれるのですが・・・
その苦行・極端な禁欲主義も捨てられます。
それは、「キツイから、もうヤ~メタ」ってことじゃなく、
肉体を極限に追い込んで修行しても、精神的に疲れて?、正しくない「妄想」を観、それを「真理に至った」なんて勘違いするかもしれない。
お釈迦様の弟子・ソーナさんが激しい修行を続けておられた時、お釈迦様はこう仰ったそうです。
「ソーナよ。おまえは琴を弾くのが上手らしいが、琴の弦は、あまり強く張っても、逆に、弱く張っても、いい音は出ないだろう。弦をほどよく整えることで、よい音を出すことができる。仏道もそれと同じではないか」
極端を排する「中道」が仏教であります。「ほどよく」「よいかげん」
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お金も女も地位も・・・人にチヤホヤ、頭を下げられることも・・・「虚しい」と思われたわけですね。
そして、それはそれは厳しい苦行に励まれるのですが・・・
その苦行・極端な禁欲主義も捨てられます。
それは、「キツイから、もうヤ~メタ」ってことじゃなく、
肉体を極限に追い込んで修行しても、精神的に疲れて?、正しくない「妄想」を観、それを「真理に至った」なんて勘違いするかもしれない。
お釈迦様の弟子・ソーナさんが激しい修行を続けておられた時、お釈迦様はこう仰ったそうです。
「ソーナよ。おまえは琴を弾くのが上手らしいが、琴の弦は、あまり強く張っても、逆に、弱く張っても、いい音は出ないだろう。弦をほどよく整えることで、よい音を出すことができる。仏道もそれと同じではないか」
極端を排する「中道」が仏教であります。「ほどよく」「よいかげん」
じぶんでは~
そう思っていても~
採りようによっては~過剰にも不足にも
自分の問題として
捕らえればいいんでしょう~か
孔子も中庸の徳を説いていたように記憶します。
中庸(中道と同じことなんでしょうか?)は、足して二で割ればいいというものではなく、バランスと思います。
バランスをとるには、両極端を知っていないと具合の良さもまた、判らないようにも思えます。
一知半解で中間に居るようなことを言う人が居ますが、足して二で割る、式の思考が多いようです。
長年剣道をやっていて、年をとると技術以外の気持ちのコントロールが重要だと感じるようになります。恐れず、油断せず、平常心が終点ではないかと。
中道を知るのは、悟りということなんでしょうか?
そうです。難しいです。お釈迦様だからこそであって、私のような凡夫には、実践できないことです。
自分で「よいかげん」と思うのは、たぶん自己中心の「自分に都合のよいかげん」になりますもの・・・
ふくろうさん、
難しいご質問なので、ウキペディアで調べてみました。
「中庸」「中道」同じようで違う。
「中」が「偏らない」というのは同じですが、
「庸」は「平凡」「恒常」の意味だそうです。←私はこの説明ではよくわかりませんが・・・
「道」は、仏道、修行の道
「中道」は、とらわれない、偏らない自由な仏道の実践、悟りへの正しい道 ということになります。
では、私・・・
「自分で!」考えると「とらわれ、偏った」仏道修行しかできないだろう・・・
だから、達人?(阿弥陀如来)に「任せちゃう」・・・そういう仏道を歩ませていただいておるのでございます。
中道が仏教用語だということは、とりあえず覚えておきましょう。
中庸より、ずっと価値あることのようですね。
ありがとうございました。
「中道」は、仏道だけど、「中庸」は、極端を排除する、道徳的、倫理的に尊い生き方の実践?なんでしょうか?
う~ん、やっぱり、わかりません。<(_ _)>