お寺のオバサンのひとりごと

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中道

2008年07月31日 | 仏教
 お釈迦様は、釈迦族のプリンスでしたが、王宮の快楽生活を捨てられました。
 お金も女も地位も・・・人にチヤホヤ、頭を下げられることも・・・「虚しい」と思われたわけですね。

 そして、それはそれは厳しい苦行に励まれるのですが・・・
 その苦行・極端な禁欲主義も捨てられます。

 それは、「キツイから、もうヤ~メタ」ってことじゃなく、
 肉体を極限に追い込んで修行しても、精神的に疲れて?、正しくない「妄想」を観、それを「真理に至った」なんて勘違いするかもしれない。

 お釈迦様の弟子・ソーナさんが激しい修行を続けておられた時、お釈迦様はこう仰ったそうです。
 「ソーナよ。おまえは琴を弾くのが上手らしいが、琴の弦は、あまり強く張っても、逆に、弱く張っても、いい音は出ないだろう。弦をほどよく整えることで、よい音を出すことができる。仏道もそれと同じではないか」

 極端を排する「中道」が仏教であります。「ほどよく」「よいかげん」
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5 コメント

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なるほど~ (維真尽(^^))
2008-07-31 22:56:49
よいかげんが~なかなか難しいんですよね
じぶんでは~
そう思っていても~
採りようによっては~過剰にも不足にも
自分の問題として
捕らえればいいんでしょう~か
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中庸 (ふくろう)
2008-07-31 23:36:36
ヨーロッパの哲学者に中庸を言った人が居ましたね。名前は失念しました。たとえ話では、けちも浪費もいけない、気前がよくなければ・・ってなことだったと思いますが。

孔子も中庸の徳を説いていたように記憶します。

中庸(中道と同じことなんでしょうか?)は、足して二で割ればいいというものではなく、バランスと思います。
バランスをとるには、両極端を知っていないと具合の良さもまた、判らないようにも思えます。

一知半解で中間に居るようなことを言う人が居ますが、足して二で割る、式の思考が多いようです。

長年剣道をやっていて、年をとると技術以外の気持ちのコントロールが重要だと感じるようになります。恐れず、油断せず、平常心が終点ではないかと。

中道を知るのは、悟りということなんでしょうか?
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Unknown (法専寺)
2008-08-01 09:31:39
維真尽さん、

そうです。難しいです。お釈迦様だからこそであって、私のような凡夫には、実践できないことです。
自分で「よいかげん」と思うのは、たぶん自己中心の「自分に都合のよいかげん」になりますもの・・・




ふくろうさん、

難しいご質問なので、ウキペディアで調べてみました。
「中庸」「中道」同じようで違う。
「中」が「偏らない」というのは同じですが、
「庸」は「平凡」「恒常」の意味だそうです。←私はこの説明ではよくわかりませんが・・・

「道」は、仏道、修行の道

「中道」は、とらわれない、偏らない自由な仏道の実践、悟りへの正しい道 ということになります。

では、私・・・
「自分で!」考えると「とらわれ、偏った」仏道修行しかできないだろう・・・
だから、達人?(阿弥陀如来)に「任せちゃう」・・・そういう仏道を歩ませていただいておるのでございます。
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なるほど (ふくろう)
2008-08-01 19:33:29
わかったような、わからないような。
中道が仏教用語だということは、とりあえず覚えておきましょう。
中庸より、ずっと価値あることのようですね。

ありがとうございました。
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私もわからない・・・ (法専寺)
2008-08-01 20:10:00
ふくろうさん、

「中道」は、仏道だけど、「中庸」は、極端を排除する、道徳的、倫理的に尊い生き方の実践?なんでしょうか?

う~ん、やっぱり、わかりません。<(_ _)>
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