お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

「誰でもよかった」

2008年07月30日 | 仏教
 先日、NHK朝の連続テレビ小説「瞳」の中で、落ち込んでいる主人公に対し、中学生の少年が学校の先生の言葉として言ったのが、

「今、気分で落ち込んでいるだけだよ。本当の意志は違うはずだから頑張れるよ」(正確なセリフは覚えていませんが・・・)

 「気分」・・・そうなんだろうな~
 
 簡単に人を殺傷する事件があまりにも多すぎる。
 
 自分の一時的な「快・不快」の「気分」に、自分が支配され、何でも人のせいにして、どうにも取り返しのつかないことをしてしまう。

 しかも「誰でもよかった」と言うならば、
 
 「他人」でなく「自分」でもよかったわけで・・・
 
 その自分の「気分」がはれるまで「誰ならぬ自分」を思う存分、刺してみればよかったんだ。

 そうしたら、その痛みの中で、「自分が他の誰でもありえたわけで、自分は、こんなことをするために生まれてきたのだろうか」と、薄れゆく意識の中で、やっと気がつくことができるのではないだろうか・・・

 自殺も悲しいが、有差別で(自分が除外されているなら、無差別ではない)・・・いっしょうけんめい生きている人(自分も他人も大切に生きている人)を害することは、一番くやしくて、悲しい。

 
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4 コメント

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そうなんですよね~ (維真尽(^.^))
2008-07-30 16:59:19
ひとがわるい
という言葉しかでてきませんよね
疎外感はわかるんですが
人のせいにして
そういう事するのが わかりません
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気分 (法専寺)
2008-07-31 09:01:34
維真尽さん、

本当に・・・「わからない」
「誰でもよかった」という理由で殺害された被害者のご遺族、友人のお気持ちを思うといたたまれません。
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家はあっても家庭がないとか・・・ (名も無く貧しく・・尋ね人)
2008-07-31 13:13:17
坊守様のくやしくて、悲しいと、仰る気持ち同じ思いでおります。
「誰でもよかった」と言いながら、強そうな相手でなく弱い相手を選んで事件を起こしているのです、強い相手・弱い相手を判断して・・・・だから、判断する時点がもっと手前にあるのに・・・・気づいてほしかった事件を起こす前に・・・取り返しのつかなくなる前に。しかし、こんな事件の起こるのも、我々親の責任がすごくあると思われます、お寺に参る家庭が少なくなっているのも一因と思われます(親の背中を見て子は育つそうで)、また、学校の教科書に仏教の教えを組み込まれていたらと思いますが、宗教となればこれまた問題が出てくるそうで、中々難しいとか!?
坊守様の、ブログをごらんの皆さんの家庭で、お食事の時「いただきます・ごちそうさま」と言っておられますか??どうでしょうか!?ささいな事かも知れませんが、これだけでも言って食事している家庭の子供さんたちの非行は少ないように思いますが、私一人の思い違いでしょうか?。
      「いただきます・ごちそうさま」この一言が言えるなら・・・
         坊守さまよろしくお願いします。
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家庭のあたたかさ・教え (法専寺)
2008-07-31 16:51:07
名も無く貧しく・・・尋ね人さん、

そうですね。
心が殺伐とした子ども達・・・立派な「家」はあっても、心温かい「家庭」がないのかもしれません。親の責任が大きいでしょうね。
「家」の中で「示」す教え=「宗教」だと どなたかが仰っていました。
財産(モノ)は残さなくていいから、「人生に大切なこと(心・教え)」を残したいです。私の場合、尊敬は絶対無理だとしても、若い人に親しまれる婆ちゃんになれたらいいなと思います。
浄土真宗の教えに生きられた「佐賀のがばいばあちゃん」のように・・・

仰るとおり「いただきます・ごちそうさま」と手を合わせるのは、とても大切なことですね。
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