先日、ある方がこう言われた。
「初めて『千の風になって』を聞いたとき、おいおい、そんなこと言うなよ
と違和感をおぼえました」
別の方もこう言われた。
「『私はお墓にいません』なんて言ったら、お寺は困るだろう。何のための墓参りなのか
」
う~ん、前に書かせていただきましたが、結論から言うと、「千の風になって」は、極めて浄土真宗に近い考え方(味わい方)です。仏教では故人のお骨に霊がやどっているとは、考えません。
冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、お骨は、お骨。
もちろん、遺族の感情としては、
亡くなった最愛の者は、姿も無くなり、「白骨の章」のように、「ただ白骨だけが残る」
自分の最愛の者を偲ぶ「直接の縁(よすが)」は、お骨だけ・・・
だから、お骨を大切に埋葬(納骨して)、お墓の前で、生前の姿を思い、偲ぶ・・・
それは、遺族としては、当然の感情です。
でも、亡くなった最愛の者は、生前の「凡夫」のままの感情をもった「霊」として、お墓の中で、じっと眠っているのではない。
「生前、好きだったから・・・」とお酒や饅頭のお供えを期待しているわけじゃない。
今や、故人は、さとりの「仏」
となって、後に残った者の心に、はたらきかけてくださっている・・・「さとりに導こう」とはたらいてくださっている。
その仏さまの「はたらき」に気づき、心を合わせ、なるべく、仏さまを悲しませない生き方をさせていただくのが、遺族の「仏さま」への報恩感謝。そういう気持でお参りさせていただくのが、「墓参り」だとオバサンは味わうのであります。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hearts_pink.gif)
「初めて『千の風になって』を聞いたとき、おいおい、そんなこと言うなよ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/down.gif)
別の方もこう言われた。
「『私はお墓にいません』なんて言ったら、お寺は困るだろう。何のための墓参りなのか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/atten.gif)
う~ん、前に書かせていただきましたが、結論から言うと、「千の風になって」は、極めて浄土真宗に近い考え方(味わい方)です。仏教では故人のお骨に霊がやどっているとは、考えません。
冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、お骨は、お骨。
もちろん、遺族の感情としては、
亡くなった最愛の者は、姿も無くなり、「白骨の章」のように、「ただ白骨だけが残る」
自分の最愛の者を偲ぶ「直接の縁(よすが)」は、お骨だけ・・・
だから、お骨を大切に埋葬(納骨して)、お墓の前で、生前の姿を思い、偲ぶ・・・
それは、遺族としては、当然の感情です。
でも、亡くなった最愛の者は、生前の「凡夫」のままの感情をもった「霊」として、お墓の中で、じっと眠っているのではない。
「生前、好きだったから・・・」とお酒や饅頭のお供えを期待しているわけじゃない。
今や、故人は、さとりの「仏」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/shootingstar.gif)
その仏さまの「はたらき」に気づき、心を合わせ、なるべく、仏さまを悲しませない生き方をさせていただくのが、遺族の「仏さま」への報恩感謝。そういう気持でお参りさせていただくのが、「墓参り」だとオバサンは味わうのであります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hearts_pink.gif)
なぜお墓を作るのか。お墓はどんな意味があるのか、もう少し詳しくご説明いただけませんか。
遺族の感情の拠所???
ピラミッドじゃないですが
ある意味~そこに魂が宿っていると思うのは
自然だと思いますが...
残った骨に執着していたら私自身がお浄土には行けなくなる様で・・・・・早く蓮の葉の上に座らせていただきたいと思えばこそ・・・。
ご指導をよろしくお願いします。
尋ね人さんが仰っているように、親鸞聖人は、「自分の遺体は鴨川に捨てて魚の餌にしてくれ」と仰ったくらいです。
死んで逝く私の立場から申せば、私も尋ね人さん同様に、自分の墓なんてどうでもいい・・・と思っています。
しかし、最愛の家族を失った遺族の気持ちからすれば、大切な人を大切に偲びたい・・・お骨をその辺に捨ておく という気持にはならないでしょう。
お墓は、死者のため(鎮魂、慰霊)のものではなく(故人は、今や悟りの仏さまなのですから、凡夫の私ごときが、なだめ、慰める存在ではない)
お墓は、遺族のためのものです。
そう言う意味では、ふくろうさんの仰るように、「遺族の感情の拠り所」
故人を偲び、感謝する場だと思います。
でも、往生した(死んで逝った)故人の立場から言えば、お墓の中に「生前の感情のまま、宿っているのではない」「仏となっていつでも、どこでも、遺族の心に はたらいていますよ。気づきなさいよ~」
という味わいだと思っています。
尋ね人さん、
味わい深いお言葉ありがとうございます。
こちらこそ、ご指導よろしくお願い申し上げます。
亡くなられた方が、この娑婆世界に生を受けて存在された証としての遺骨を因として、残された遺族の皆様がご法縁に遇われることを命をかけて願われていると・・・。
「信じなさい・・信じなさい・・」でなく!!「聞けよ・・聞けよ・・」と!聞いて・なるほどと頷いて・気づかせて戴いて、ご法縁を喜んであり難く受けとめていただければ、それこそが残された皆様の今生の一大事かもと?・・・・。受け取らせていただいておりますが・・・・遺骨を大事にされることは、ありがたい事です、(納骨堂・お墓)預けっぱなしは悲しすぎます・・・。
ご指導よろしくお願いします。
まことに、仰るとおりです。
「遺骨を大切に思う」家族の情は、仏縁に結びつきますが、「納骨堂・お墓に預けっぱなし」は、本当に悲しいですね。
余談ながら、戦争中遺族に届いた白木の箱(いわゆる遺骨のいれもの)には、大半が遺骨は入っておらず、戦死の日時場所の書かれた紙片だけ、でした。
海戦や空戦はもちろん、玉砕の島から遺骨が届くはずもなく、当然の結果ではあります。
しかし、遺族の感情としては割り切れぬものがあったようで、ここで語られるような説明があれば、ずいぶんよかったろうな、と感じた次第です。
ありがとうございます。
現代でも、海の事故や土石流などの災害で、ご遺体が見つからない場合もあります。
遺族は、おつらいでしょうが、
遺体を荼毘に付さなければ、亡くなった方が「仏に成れない」わけじゃない。どんな亡くなり方をしても、たとえ遺体が無くても、「往生成仏」に何の問題もない。
すべて、阿弥陀仏が仕上げてくださることなのであります。
お念仏して、いづれは皆往くお浄土です。必ず遇えます先立たれた方とも、それがお念仏の世界と信じています。
有り難いコメントをいただき御礼申し上げます。