ひとり旅への憧憬

気ままに、憧れを自由に。
そしてあるがままに旅の思い出を書いてみたい。
愛する山、そしてちょっとだけサッカーも♪

再びの横岳縦走:自己との対話

2015年04月16日 21時32分18秒 | Weblog
 奥の院のリッジへは短い登りであり、遠くからの見た目ほど厳しい状況ではなかった。
むしろあっけなく奥の院へ登ることができた。

前回とはうって変わっての天候、そして自分自身の安定した心境だった。

突発的な強風は相変わらずだったが、ここで小休止をとることにした。
赤岳の少し東には富士山が見え、西には諏訪湖が目視できた。
贅沢な風景に囲まれての休憩、煙草も美味い。

ちょうど二ヶ月前にも俺はこの場所に居た。
ここにいたのは一分にも満たなかったが、何の感動も充実感も、そしてささやかな自己満足すら感じることはなかった。
「すべてを受け入れる覚悟の中に自由がある」などと、まるで単独登山を知り尽くしたかように偉そうに嘯いていた自分は、孤独感、虚無感、敗北感にこれでもかと痛めつけられ、ただひたすらに「帰りたい、戻りたい」と願っていた。
「生」に対してしがみつくように喘いでいたような気がする。

行動食を食べながら、腹ペコ山男さんが言っていた言葉を思い出した。
『登山というプロセスを通じて自らの思考、意思、行動を問い続けることではないかと。それは苦しくもありますが、そこから逃げることは山では極限まで行けば死につながるわけで、もうすこし簡単に言えば、普段身をおいている日常社会がいかに安全で守られていて、生きるということがかくも様々な自己との対話が要求されるものかに手っ取り早く気付き、体感し、そしてその対話に耐えた自分と新たな自分を見つけるのが、媒介としての単独登山なのかもしれませんね。』

今振り返ってみて分かったことがある。
大袈裟な言い方になってしまうが、あの時の俺はただ死にたくない、生きて帰りたいという思いだけだったような気がする。
日常生活では決して感じることのない、味わうことのない「生きること、そして生きて帰ることへの思い」だけだったような気がする。

自ら望み、計画し、実行しておきながらも「吐きまくった弱音」。
だからこそ、今までただなんとなくぼんやりとしか分からなかった「自己との対話」がどういうものであるのかが見えてきた。
あくまでも趣味の世界に過ぎない登山であるが、人との出会いや、大自然の過酷さや、己の弱さを知ったことから分かりかけたことだ。
そしてこれは間違った考え方かも知れないが、もう一つ分かりかけたことがあった。
天候やルート状況に恵まれ、何のアクシデントも無くすべてがスムーズに上手く行った登山の場合だと、ここまでの自己との対話はあり得ないのではないかということだ。
安全にスムーズに事が運ぶことが悪いと言っているのではない。
辛く厳しい状況だからこそ、そのから分かることや見えてくるものがあるのではないかと思うのだ。
改めてそれを教えてくれた腹ペコ山男さんに感謝した。

柄にもないことを考えながらしばし休憩をとった。

こんな笑顔、前回ではただの一度もなかったっけ(笑)。

この先、まだ気が抜けないポイントはいくつかある。
独りであるが故に、大いに自己との対話をしながら進もう。