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2022 10/1の拝観報告3(伏見 研究者といく伏見ミッドタウン、水都の蔵めぐり!明治の醤油蔵を拝見 まいまい京都)

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写真は、月桂冠 昭和蔵の分析室兼事務所。

祇園四条駅から京阪電車で伏見桃山駅へ。
ちょっと時間が早かったので、御香宮神社で時間をつぶしました。

 9:30に桃山御陵前駅に集合して参加したのが、まいまい京都の「伏見 研究者といく伏見ミッドタウン、水都の蔵めぐり!明治の醤油蔵を拝見」でした。
最近のまいまい京都では、街ブラに参加してその街をよく知るツアーに惹かれがちですw

伏見系のツアーにはよく参加していますが、街の成り立ちとか地理とかが、
いわゆる京都市内より複雑な気がするからでしょうか。

この日もいろいろ勉強しました。
おおまかなルートと内容です。
桃山御陵前駅を南下し、高架下商店街へ。
戦前に近鉄を通す際に,行政から道路との平面交差を禁止された。
なので安価な堀を掘ってその下に電車を走らせて、道路は橋を架ける方法を選ぼうとしました。
そしたら酒造会社から水源が枯れるかもしれないと反対されたので、当時京都府下では初めての高架が採用され、さらにガード下のお店が出来たらしいです。

商店街を抜けて、油掛通を西へ。
突き当り左カーブになる手前で北へ。
この辺りはマンションが多いですが、元は全部酒造会社の酒蔵だったそうです。
そして大手筋へ。
大手筋にはみずほ銀行、三井住友銀行、東京三菱UFJの支店が今でもあり、
元々はもちろん酒造会社への融資目的で支店が並んだそうです。

そのまま北上し、途中で西へ。
南部公園があります。
ここにはもともと陸奥南部家の下屋敷があったそうです。
ここからさらに西の濠川に向かいますが、この濠川は伏見城の外堀だったんですね。
今の国道24号線から東に諸大名の上屋敷があったそうです。
秀吉の時代は、本丸に近い上屋敷に大名は滞在していたそうです。
しかし徳川政権、家光の頃になると、伏見は参勤交代の途中に寄る宿場町になりました。
すると船で淀川から上がってきて、何も上屋敷まで行く必要がなく、下屋敷がメインの屋敷になったそうです。
江戸時代は宿場町として栄えますが、明治維新になると大名の宿泊需要がなくなります。
そこでまずはお茶の栽培を始め、その後の明治20年頃に酒造が盛んになったそうです。
なので伏見がお酒で有名になったのは、明治中期以降だそうです。
それまでは伊丹や灘のお酒が、樽廻船に乗って日本中に流通していたそうです。
南部公園から北→毛利橋通を西→竹田街道を南と進むと、写真の月桂冠 昭和蔵があります。
こちらでお酒の研究もされていたそうですが、伏見の酒造が発達したのはこのような研究成果を伏見の会社間で共有されていたからだそうです。

大手筋を西→大手橋→濠川の西岸沿いを北上→毛利橋を渡り→濠川の東沿いを北上。
すると濠川が右に直角に曲がりますが、これこそが城のお堀だった証拠なんですね。
その場所で荷物を荷揚げした遺跡が残っています。
ここの少し東側にある松山酒造さんの土地は旧薩摩藩の下屋敷です。

最後は小山醸造さんへ。
かつては伏見にも醤油蔵が複数あったそうですが、今ではここだけだそうです。
なかなか量や価格では大手と勝負できないので、個別のニーズに対応して生産されているそうです。
1番分かりやすいのが、ラーメン店で使われるお醤油です。
店主さんの要望に沿うように作られているそうです。
また昔は醤油を瓶詰めで売っていたので、洗う際に剥がした古い醤油蔵のラベルもたくさん壁に貼られていました。
こちらの店主さんがいい方で、丁寧に説明して下さり、お茶も出して下さったりと、非常に歓迎して下さいました。

つまり大手筋界隈は、
桃山から江戸初期:秀吉が伏見城を作り、上屋敷メインで繁栄
江戸中期以降:参勤交代の宿場町となり、下屋敷メインで繁栄
明治20年以降:一旦廃れるも下屋敷のまとまった土地を活用して酒蔵が繁栄
近年:大手の業務拡大、酒需要の縮小により、酒蔵のまとまった土地がマンションになる(融資銀行からのすすめも)
という、変遷のようでした。

12:00頃に終了し、昼食へと向かいました。

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