嫌われる勇気(6)

2014年09月23日 09時30分00秒 | 沖縄の生活

▲<台風16号は、台湾を北上してくれて沖縄には、殆ど影響がなかったが、24日あたりから「九州~中国地方」へ行くようです。ご注意を!>

第3章 『他者の課題を切り捨てる(2)』 
アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 139~146P

c.「課題の分離」とはなにか
例えば、子供が「勉強する」という課題があった時、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えて行きます。勉強するのは子供の課題です。それに対して親が「勉強しなさい」と命令するのは、他者(子供)の課題に対して、親が土足で踏み込む行為。これでは、衝突を避ける事は出来ないでしょう。

私達は「これは誰の課題なのか」という視点から、自分の課題と他者の課題を分離して行く必要があるのです。

およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に対して土足で踏み込む、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれる事、によって引き起こされます。課題を分離するだけで、対人関係は激変する。

子供を勉強させるのは、親の責務と言う人もいます。誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるには誰か?」もしも、子供が「勉強しない」という選択をした時、その決断によってもたらされる結末は、親ではありません。間違いなく子供です。すなわち勉強とは、子供の課題なのです。

親達は、明らかに自分の目的(それは世間体や見栄、支配欲かも知れません)それを満たすために動いています。

つまり、「あなたのため」ではなく「私のため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子供は、反発するのです。

じゃあ、放任して子供がまったく勉強しなくても放任しろ?アドラー心理学は、放任を推奨するものではありません。

放任とは、子供が何をしているのか知らない、知ろうとしない、という態度です。そうではなく、子供が何をしているかを知った上で、見守る事。勉強について言えば、それが本人の課題である事を伝え、けれども、子供の課題に土足で踏み込む事はしない。頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。

無論、精一杯の援助はします。しかし、踏み込まない。「馬を水辺に連れて行く事は出来るが、水を飲ませる事は出来ない」という諺通りです。

アドラー心理学におけるカウンセリング。また他者への援助全般も、そういうスタンスです。本人の意向を無視して「変わる事」を強要したところで、後で強烈な反動がやって来るだけです。

カウンセラーには、相談者の人生を変えられません。自分を変える事が出来るのは、自分しかいません

d.他者の課題を切り捨てよ
例えば、「引きこもり」を考えてみましょう。引きこもりの状態から抜け出すか抜け出さないか、これは原則として本人が解決すべき課題で、親が介入する事ではありません。とはいえ、子供が窮地の陥った時、素直に親に相談しょうと思えるような普段からそれだけの信頼関係を築けているかになります。

子供との関係に悩んでいる親は、「子供こそ我人生」だと考えてしまいがちです。要するに、「子供の課題」までも「自分の課題」だと思って抱え込んでしまう。

自分の人生から「私」が消えている状態です。しかし子供は、独立した個人です。親の思い通りになるのではありません。

子供は、親の期待を満たすために生きているのではない。信じるという行為もまた、「課題の分離」なのです。

他者との関係でも、相手の事を信じる。あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。そこを線引きしないままに、自分の希望を押し付けると、たちまちストーカー的な「介入」になってしまいます。

例え、他者が自分の希望通りに動いてくれなかったとしても、なお信じる事が出来るか。愛する事が出来るか。

アドラーの語る「愛のタスク」には、そこまでの問いが含まれています。難しいと考えるでしょう。でも、こう考えて下さい。他者の課題に介入する事、他者の課題を抱き込んでしまう事は、自らの人生を重く苦しいものにしてしまいます

もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら、その悩みは対人関係なのですから、まずは、「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう。そして他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くして、人生をシンプルなものにするのです

※「親と子供の関係」は、教育評論家が良く言われる話です。「馬を水辺に連れて行く事は出来るが、水を飲ませる事は出来ない」という諺通りですですね。真剣な親ほど、我を忘れてしまうのですね。