沖縄の太平洋戦争遺産「不発弾処理」

2016年05月23日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<那覇市役所のHP「避難マップ」。5月22日、10:30~ゆいレール「赤嶺駅」南側、県道231号線沿いの半径283メートル。「スーパーサンエー」や「飲食店」がある住宅街で公道を含む16ヵ所の交通を遮断して「不発弾処理」が行われた

5月22日、日曜日の朝、我が家の周辺は、異様な空気で覆われていた。
我が家マンションから見える、県道231号線を走る車が異様な渋滞!国道331号からも、小道の生活道路に迂回して来る車の数・・・。通常の、交通渋滞でない異常な状況だ。

家人が、県道に出てみたら、県道231号の「道路封鎖」を見て帰って来た!
近くで、「不発弾処理」が行われていたのだった(我が家は、ちょうど避難圏の外側です)。
一昨日、消防車での避難告知があったらしいが、我家は「不発弾処理」の事を知らなかった。

以下、ネットからの「不発弾処理作業」「沖縄県の不発弾」の情報です。


▲<「自衛隊の不発弾処理隊」による処理作業(沖縄タイムズ)>

那覇市宇栄原3丁目で22日、アパート新築工事現場から発見された旧日本軍製250キロ爆弾の不発弾処理作業(爆発させるのではなく安全除去作業)があった。処理は午前中に終了した。爆弾が大型で、現場が住宅密集地だった事から避難対象は2700人余に上った(那覇市では4年振りの規模)。国道331号が一時通行止めとなった。避難誘導開始:9:00~ 交通規制開始:10:30~処理完了まで 処理作業:10:40~ 処理作業終了:12:00 【沖縄タイムズネット版より】 

※昭和49年3月に那覇市小禄で起きた不発弾爆発事件(死者4名、重軽傷者34名)を契機に、二度と悲惨な事故が発生しないよう、不発弾の事前探査・発掘・除去対策を協議するため、昭和49年5月に「沖縄県不発弾対策協議会」が設置された。

※沖縄は、去る大戦において熾烈な戦 闘が展開された事から大量の砲弾・爆弾が投下されており、どれだけの量の不発弾が地中に埋没しているかを示す確実な資料はないが、使用された爆弾・艦砲弾等は、その数約20万トンにも及ぶと言われており、その内の5%にあたる約1万トンが不発弾として残されたとも推定されている。終戦後沖縄県では、ある時期までは、不発弾 が地表面にゴロゴロしていたが、これらを住民等によってかなりの量(約 3,000トン)が処理され、また復帰が実現した昭和47年までに、米軍 によって約2,500トンが処理されているので、復帰時点までに約5,500トンが処理をされたと推定される。昭和47 年以降は、自衛隊によって平成15年度 までに約1,600トンが処理されたが、約500トンは永久不明弾が見込まれるとしても、今なお約2,100トンの不発弾が眠っている事になる(沖縄県不発弾対策協議会+内閣府沖縄総合事務局平成25年7月18日)


▲<処理が終わり平和な生活が戻った。不発弾を出した丸い鉄板の穴があった。いつも通る場所の地面下に「250キロ」の不発弾があったなんて驚き!>

沖縄では、日常的に「建設現場」などから、「不発弾」が良く出て来る。発見された不発弾状況より、毎回住民が避難する訳ではないが、今回は爆弾が大型だったのと、住宅密集地だったので、大規模な避難になった。この件で、観光客は、レンタカー返却が遅れ、飛行の乗り遅れが無かったか心配だ。