▲<2月19日、東京駅八重洲口。「夕方の空」>
アドラーの「嫌われる勇気」 岸見一郎+古賀史健著より 245~250P
第5章 「いま、ここ」を真剣に生きる
f.ワーカーホリックは人生の嘘
世の中には善人ばかりではありません。間違ってはいけないのは、攻撃してくる「その人」に問題があるだけであって、決して「みんな」が悪い訳では無い、という事実です。
神経質なライフスタイルを持った人は、何かと「みんな」「いつも」「すべて」といった言葉を使う。
「みんな自分を嫌っている」とか「いつも自分だけが損をする」とか「すべて間違っている」と言う。
アドラー心理学では、こうした生き方を「人生の調和を欠いた生き方」と考えます。これは物事の一部だけを見て、全体を判断する生き方です。
ユダヤの教えに、こんな話があります。「10人の人がいたら、そのうち一人はどんな事があってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人の事を好きになれない。そして10人の内2人は、お互いにすべてを受け入れ親友になれる。残りの7人は、どちらでもない人々だ」と。
この時、あなたを嫌う一人に注目するのか。それともあなたの事を好きな2人にフォーカスを当てるのか。
人生の調和を欠いた人は、嫌いな人だけを見て「世界」を判断してしまいます。
対人関係が上手く行かないのは、自己受容や他者信頼、他者貢献が出来ていない事が問題なのに、どうでもいいはずのごく一部だけに焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとする。
例えば、ワーカーホリックの人。この人達もまた、明らかに人生の調和を欠いている。「仕事が忙しいから家庭を顧みる余裕がない」と弁解する。
しかし、これは人生の嘘です。仕事を口実に、責任を回避しているに過ぎない。
本来は家事や子育て、あるいは交友や趣味にも、すべてに関心を寄せるべきであって、どこか突出した生き方などアドラーは認めません。
それは、人生のタスクから目を背けた生き方です。そうした人は、「行為レベル」でしか、自分の価値を認める事が出来ていないのです。
自分は働き、家族を養う金銭を稼いでいる。だから自分は家族で一番価値が高いのだ、と。
しかし、誰でも自分が生産者側でなくなる時が来る。この時、「行為のレベル」でしか自分を受け入れられない人は、深刻なダメージを受ける事になる。
自分を「行為のレベル」で受け入れるか、それとも「存在のレベル」で受け入れるか。これはまさに「幸せになる勇気」に関わってくる問題なのです。
※ユダヤの教えは理解出来る。しかし、家族を養う事を「自慢」はしないが、「自負」はしている。それを「行為レベル」で、「存在レベル」ではなく、「幸せになる勇気」には繋がらないと言われても理解出来ない。