彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

8月17日、源頼朝挙兵

2011年08月17日 | 何の日?
治承4年(1180)8月17日、源頼朝が伊豆で平家に対して挙兵しました。


頼朝は、挙兵の最初として伊豆目代山本兼隆を攻めます。兼隆は罪を得て伊豆に流されていたのですが平家一門に連なる人物であったために目代(江戸期の代官のような職)として権力を握るようになりました。
また頼朝が北条政子と恋愛関係をはぐくんでいた時に、源氏と繋がりを持つことを恐れた政子の父の北条時政が、政子の嫁ぎ先として決めたのが兼隆だったのです。
頼朝にとっては、平家一門という以外にも恋敵という一面を持つのが山本兼隆でした。


声をかけていた周囲の豪族に挙兵の前日に集合を呼びかけました。
頼朝が特に期待していたのが佐々木一族でしたが、この日にやってこなかったために落胆したとの話があります。しかし佐々木一族は川が溢れていたために間に合わなかっただけで17日になって頼朝の前に姿を現しました。この一族の中の一人の佐々木定綱がのちに近江守護となり近江に残る佐々木一族の祖となるのです。


こうして頼朝は日の登る前に山本館への襲撃を命じます。
佐々木定綱は、北条時政の命で山本兼隆の後見役となっていた堤信遠の屋敷に向かいました。そして定綱の弟である経高が信遠の屋敷に向かって放った矢の一閃が「源家が平家を征する最前の一箭」(『吾妻鏡』)と評価されているのです。定綱は順調に信遠を討ち取り初戦を勝利で飾ります。

同じころ、北条時政らが山本館を攻めました。
その戦の途中で堤屋敷を落とした佐々木兄弟も参戦し、山本館に火が放たれて兼隆は討ち取られたのです。
頼朝は挙兵を勝利で終えて、反平家勢力の旗頭となったのです。

この戦が無ければ、佐々木一族は近江に来ることはなく、戦国時代に佐々木一族の末である六角氏と京極氏の覇権争いも、まったく別の形になっていたかもしれないのです。
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