彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『戦国怪談話』その5 岩村城お艶の方の祟り

2011年08月28日 | 『戦国怪談話』
織田信長には、お艶というとても美しい叔母がいました。
信長は、甲斐の武田信玄との戦いに備えて、美濃東部の国人たちを味方に引き入れるため、お艶を岩村城主遠山景任に嫁がせます。遠山一族は岩村城以外にも苗木城や明智城などの城主を務めた家で、一族の子孫が江戸後期に活躍した遠山の金さんこと遠山景元です。そしてこの時には一族の中に遠山景行という頼もしい武将もいました。

元亀3年(1572)に景任が武田家との戦の傷が元で病死します。この戦では景行も戦死したともいわれています。信長は五男坊丸(織田勝長)を養子として送り、岩村城はお艶が女城主として守りながら坊丸の成長を待ったのです。その後、武田信玄の上洛に伴って岩村城は秋山信友に攻められ落城します。お艶は信友の妻に迎えられ、坊丸は人質として武田勝頼に保護されたのです。

天正3年(1575)5月21日、織田信長は長篠の戦に勝ち、11月に息子信忠に岩村城を攻めさせます。このときに信友とお艶は城兵の助命を条件に、信忠軍先鋒の河尻秀隆に捕えられて岐阜に送られました。秀隆には、岩村5万石を与えられ、11月21日に信友とお艶は処刑されたのです。
信友とお艶の処刑のされ方は、逆さ磔でした。これは磔柱に逆さまに縛られる方法で、やがて血が頭に上り、目・耳・鼻・口などの穴から血が噴き出して激しい痛みと、なかなか死ねない苦しみを味わうものだったのです。信友は武士として潔く死に、お艶は信長や岩村城を落した者を恨みました。それは助命を約束しながら岩村城の城兵を殺したことにも向けられたのです。

7年後の天正10年(1582)3月23日、森蘭丸が信長から岩村城を与えられ、河尻秀隆は甲斐へと国替えになります。
この2ヵ月半後本能寺の変が起こります。本能寺の変で不慮の死を迎えたのは、織田信長・信忠と一緒に二条城にいた坊丸こと織田勝長そして森蘭丸。甲斐では本能寺の知らせを聞いた人々によって河尻秀隆も殺されて、岩村城に関わった人物がこの瞬間に死んだのです。