彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

8月3日、藤原不比等死去

2011年08月03日 | 何の日?
養老4年(720)8月3日、藤原不比等が亡くなりました。

今回は『どんつき瓦版』の記事をそのまま紹介します。

『源氏物語』が書かれるよりも300年近く前の頃、大化の改新で功績があり“藤原姓”を与えられた中臣鎌足の次男に不比等(史とも書く)という人物が居ました。

功臣の息子ですから政界に登場した瞬間から大きな責任を負う仕事を任されていたようなイメージを受けますが、実は11歳という幼さで父の死に遭遇し、跡目を継いだ数年後には壬申の乱によって中臣(藤原)一族が重要視されていた近江朝廷が滅亡。不比等は幼かった為に壬申の乱に参戦しなかった代わりに一族の有力者が処刑されてしまったので、下級役人として改めて朝廷に出仕する形となったのです。
不比等という名は「等しく比べられる者がいない(不らず)程に優秀だった」という意味で平安時代に命名されています。その優れた能力で立身出世を遂げ後に栄華を誇る藤原一族の基礎を築いたのでした。

そんな不比等が和銅年間(708~715)に近江国太守を務めたという説があり、その時に現在の芹川町に構えた屋敷が“長者屋敷”と呼ばれています。ただし長者屋敷という呼び名は彦根に構えた屋敷だけに付けられたモノではなく、朝廷の高官に出世した藤原不比等が住んだ屋敷は全てこう呼ばれていたようです。『竹取物語』に登場する“くらもち(倉持)皇子”のモデルが不比等である事が最近の歴史の定説になっていますが、これも不比等が長者屋敷という大きな屋敷に住んでいたからなのです。

さて近江国守として彦根に住んだと言われる不比等は、ある時に屋敷から見える山に目が留まりました。その山を眺めていると、近江に住んでいてはなかなか参る事ができない心残りの場主に似ていると気が付いたのです。
その場所とは明日香にある父・鎌足の墓所である佐保山でした。そこでこの山を“佐保山”と命名したのです。やがて時代が下り佐保山は軍事拠点として館や城が建てられるようになりました、そしていつの間にか“佐和山”と呼ばれるようになり佐保山は別称として伝わるようになったのでした。

このように藤原不比等は近江での記憶が余程に大きかった為か?死後は“淡海公”との諡号が付けられます。淡海とは近江の事ですし愛荘町にある八幡神社には淡海公御墓と刻まれた不比等の墓が存在します。
 

不比等には四人の息子が居て、彼らは藤原四子政権という独裁に近い政治を行った時期がありました。そんな四兄弟の中で次男の房前も不比等と同じように近江国司として彦根の安清に住んでいた時期があったと言われています。彦根では不比等と房前が建立した寺社が形を変えて伝わっている例もあるそうです。古記の記すところでは彦根村(元町)には七堂伽藍大寺院として淡海公が建立された天台宗養花院が数々の滅びと再建を繰り返し臨済宗慈眼院(佐和町)と改名したのです。ここには不比等の娘の墓があります。慈眼院は井伊直孝が藩主の時代に龍潭寺の末寺となり淡海公から伝わったとされる宝物は龍潭寺に納められたのだとか…

彦根の歴史を紐解くとよく目にする彦根山周辺にあった彦根寺や門甲寺は房前の建立と伝わっています。

その他にも、滋賀県内のあちらこちらにひっそりと佇む古い社の由来を調べるとこの二人に辿り着くことが多いそうですよ。

最後に余談を記すならば、房前-真盾(房前三男)-内麻呂(真盾三男)-冬嗣(内麻呂次男)と続いて繁栄を極めた藤原北家。
その藤原冬嗣の六代目が遠江守の三国共資で、共資が娘婿として迎えたのが井伊家の始祖となる井伊共保なのです。