古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『ヒトラーのはじめたゲーム』を読みました。

2014年03月16日 07時38分36秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ブログ『古希からの田舎暮らし』は2009年3月に書きはじめました。5年たってまだつづいています。ある日ぼくは思い立ちました。「パソコンも新しくしたし、まだしばらくは書くつもりだ。一度、一か月間一日も欠かさずブログを書く月をつくってみよう」で、3月は毎日書いています。
 ブログを書くつもりで夜中に起き出して、なに気なく読みかけの本を読みました。三木の図書館で借りていた『ヒトラーのはじめたゲーム』(あすなろ書房 2007年刊)です。題名を見て「どんな本だろう」と気になったのです。内容はナチスの強制収容所に3年以上収容されながら奇跡的に生きのびた少年のドキュメントでした。「ヒトラー」という文字があれば当然考えられることですが、それにしても「ゲーム」とは。引き込まれて読んでしまい、朝になって書いています。一部内容を紹介します。

 ※ 15歳ではじめの収容所で出会った散髪屋のアーロンさんに目をかけてもらい、言われたことです。

「ジャック」アーロンは断固とした口調で言った。「ここでは、悲しみに果てがない。だから、自分と、自分にいちばん近い人のことだけ考えるんだ。感情を持つことを自分に許したら、たちまち生きていられなくなる」   ……。  ある日、ジャックの髪を切っているとき、アーロンが言った。「いいか、ジャック。ここで起こることはすべてゲームだと思え。どんな目にあっても、くよくよしてはいけない。うまくゲームするんだ。そうすれば、ナチスより長く生きることができるかもしれない」 ……。 すべてはゲームだ。そう思え。だが、そのゲームでは、たった一つのミスが死を意味する。


 ポーランドに暮らしていたジャックは3年以上強制収容所で生きのび、すべての家族を失い、戦後アメリカに渡りました。そして「語り部」として強制収容所の体験を話しつづけてきました。そのジャックの述懐が読後に残ります。


 わたしには、ありとあらゆる恐ろしいことが起こりました。 …… わたしにはわたしの戦い方があります。それは、憎まないということです。大きな憎しみは、憎む人自身をのみ込んでしまうのです。 ……。わたしは、寛容と許しを自分の人生のテーマにして生きようと努力してきました。
 神さまはわたしたち人間に、良くなる力も、悪くなる力もあたえました。それを選択するのはわたしたち自身です。そして悪を選ぶ人間がいる以上、わたしたちは、それを見つけだし、止めるために、力を合わせなくてはならないのです。 …… その目標に向かってみんなが力を合わせるかぎり、人類には、希望があるのです。


 満蒙開拓団への仕打ちや青少年義勇軍への仕打ち、国民への軍部や憲兵の仕打ち、戦場での上官の独善的な命令と卑劣な行為、新兵いじめ、在郷軍人の掌をかえすような豹変、強欲な隠匿物資、空襲に逃げ惑う庶民、……、あの戦争では許すことのできないことが渦巻いています。いまも。
 想像を絶する極限状況を生きのびたジャックの「寛容と許し」という言葉を、わたしたちは受け入れられるのか。「正義」は無言のままでいいのか。
 人間の歴史は、あらゆる思いを全部飲み込んで流れていくしかないのか。 
  
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雨の日も電動ウオーカーで運動します。

2014年03月15日 03時44分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                      
「外を歩けば気分がいいのになんでベルトの上なんか歩くんだ」と思っていたぼくが、こんなに真面目に使うようになるとは。毎日少なくとも30分、時速4キロ以上で歩きます。室内ですが気分を出すために運動靴をはき、外の景色を眺めながら。ひどい雨の日もしっかり運動ができる〈ためになる機械〉だ、買ってよかった、と思うようになりました。
〈歩きはじめ〉の5分くらいは、「気分が乗らんから / 疲れが残ってるから / することがあるから / きょうは10分だけにしよう」と思ったりします。でも歩いてるうちに「もうちょっと / もうちょっと / ……」となるから不思議です。「ウオーキング」ってそういうものでしょうか。
 写真の向こうに立てかけてあるパネルは「三木市・小野市」の地図です。この地に移り住んだのは69歳のときですから、地名とか方向になじみがありません。だからいつでもサッと全体を見れるようにパネルに貼っています。村の人に上がってもらい、おしゃべりで「○○から嫁いできた」とか話が出たら、すぐこのパネルを出して〈土地の様子〉をきいたりします。
 お昼にテレビを見てたら、キムタクが出てて「宮本武蔵」をやると話してます。又八の子孫(自称)の本位田さんを思い出しました。
『又八クラブ』というホームページを立ち上げておられます。前に我が家を訪ねていただいたときは、〈宮本武蔵の友だちの子孫・秘伝〉の、畑に置く『動物脅しパネル』を教えてもらったこともあります。久しぶりにホームページをのぞいて、相変わらずの豊かなセカンドライフにしばし見とれていました。パラグライダー・キャンピングカー・神戸の近くに山の家を建て、そこでのワイルドライフ・陶芸・木工・果樹やシイタケや野菜づくり……。そしてなにより身内や仲間に囲まれて、人のぬくもりのなかで生きておられる。
 彼の自己紹介を見たら、又八さん、いつの間にか『晩年を幸せに生きてコロッと死ぬ会』立ち上げてました。そういえば伊丹のほうには『日本ヌートリア協会』とかいう会を自分一人で立ち上げてる人もありました。
 人生いろいろ。みなさんがなるべくしあわせでありますように。
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この雨で草も元気に伸びるでしょう。

2014年03月14日 02時04分59秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                    
 草を刈る足場に生えてきたオオイヌノフグリです。
 ホトケノザ、ナズナ、オランダミミナグサなども勢いが出てきました。雑草の名前は、ブログを書くようになって覚える努力をしています。名前を知らない「草」と出会うとネットで調べます。そのとき見るのが『松江の花図鑑』です。このサイトは写真がいい。いろんな角度から撮った写真がアップされています。植物への愛情が伝わるサイトで、「植物の特徴を知って名前を覚えましょう」と話し掛けられてるようです。どんな方がこのサイトを発信しておられるのでしょう。感謝しています。
 4月から5月にかけては、畑の遊歩道にしているところにツボミオオバコがびっしり生えます。これは草刈機で地面を削るようにしてとりのぞきます。
 ツボミオオバコの後は最強の雑草といわれる「ハマスゲ」がまるで芝生のように遊歩道にはびこります。3年前には、ハマスゲの根が畑に入らないように防波堤の畝をつくり、畑に耕運機を持っていくたびに耕していました。しかし畑に侵入してきました。でもいまのところ作物の邪魔になるほど生えていません。それに寒さに弱く半年は影を潜めます。
 ま、うちは除草剤を使いませんから安心して生えてください。でもね、マムシの潜む草むらにしたくないので、ときどき刈ります。
 一方畑の虫については『晶子の庭は虫づくし』というサイトで調べます。コイモの葉を食べつくす〈セスジスズメ〉とゴマの葉を食べつくす〈クロメンガタスズメ〉は大きな幼虫で、ぼくは素手でさわれません。このサイトの「虫愛ずる姫君」は掌を這わせて愛の眼差しで見つめるのでしょうか。えらいですね。
 
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雨! 龍神さま、ありがとうございます。

2014年03月13日 02時54分33秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 久しぶりに畑に行ったら土が乾いていました。この前の雨の後、一週間ほど植木の剪定や大工仕事をしていて、畑がこんなに乾いてるとは思いませんでした。一雨ほしいなあ。
 夜中にウッドデッキに出てみたらポツポツ。絶妙のタイミングで雨を降らせてくださいますね。龍神さま。ありがとうございます。
                      
 写真は『蛇が池』の堰堤にある祠です。この池に棲む蛇がとなり村の山に登り、龍となって天に昇ったという〈言い伝え〉があります。この祠はなにを祀(まつ)るのか知りませんが龍神さまの親戚かも。きのう畑から軽トラで帰るとき、回り道して拝んでおきました。
 こんなにきれいに焼けた「土手焼き」ははじめて見ました。祠の左の草原は草の繁った起伏があって、どんな地形かいままでわかりませんでした。ことしはしっかり見えます。10日の老人クラブ総会のときにたずねたら「あれは飛び火で焼けてしもたんや」。ほったらかしでも一応だれかの所有地ですから勝手に焼くわけにはいかんのでしょうが「飛び火ならしゃあない」。きれいになってよかった。
 一雨くると地中で「満を持している」草が生えてきます。春の草は勢いがあります。そこで先日耕運・土寄せをしておいた畝に黒マルチをかけました。すぐには使いませんから。10畝のうちのとりあえず5畝に。
                      
 風をはらんではがれないように、マルチの上に竹の棒を置いて押さえます。裏山に戻ってその竹を切り出しました。長さ5メートルの竹だと「とりまわす」のがしんどいので3メートルにしました。10メートルの畝ですから5メートルの竹だと2本ですみますが、3メートルだと3本いります。
 無理しない。頑張らない。いまの自分の力を素直に受容する。
 独善的にならないで「素敵に老いる」という〈美学〉をわきまえた老人になりたいです。
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実は『人生いろいろ』なんです。

2014年03月12日 03時59分33秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 この〈田舎暮らし〉ブログを訪れていただく方は、「あの夫婦は二人とも田舎暮らしを望んでいる。〈夫唱婦随〉か〈婦唱夫随〉か知らんけど、有機無農薬という方向で家庭菜園づくりに頑張ってる」と思われてることでしょう。
 「田舎暮らし」を二人とも〈心から願って〉あちこち探しまわり、移り住んでからは村の人と親しくなろうと「二人とも村の〈お伊勢参り〉に参加」したり、二人とも老人会総会に顔を出したり、二人とも毎月の大将軍神社(畑の神さん)にお参りしたり、二人とも裏山に木や花を植えたり……。
 そう思われてもかまいませんが、実は〈人生いろいろ〉というか〈それぞれ気の向くままに〉というか、二人がそれぞれに「自分の世界をもっている」ことが〈うまくいくコツ〉だと思います。
 『奇跡のリンゴ』という本が出て、それが映画にもなりました。「有機無農薬のリンゴをつくる」という途方もないことに挑戦した夫婦の物語でした。それをリンゴだけでなく全部の農業をひっくるめてやろうとする《農法》があるそうです。『アートテン農法』といいます。ちょっとネットを見ると「キムタク(木村拓哉)のおかあさんは10年前からこの〈農法〉にとりくんでいる」とか、あるいはちょっと読んでもよく分からんことが書いてあります。道子さんによると超一流の学者の「量子力学の世界」だそうです。
 「その手の」精神世界の本をいっぱい読んできた道子さんにはちょっとわかるみたいですが、ぼくにはチンプンカンプンです。知りたいとも思いません。今度彼女は自分のやってきた農業のレポートを提出して「その学習会に参加する」と言います。ぼくは「どうぞ」と言います。でも「ぼくもその農法を勉強してみよう」なんて小指の爪の先ほども思いません。
 仕事の分担を話し合ったわけではありませんが、種を播いたり苗を植えたりするのは道子さん、畝を耕したり草を刈ったり、その他あれこれ手伝うのはぼく、馬酔木の煎じ薬を散布したりするのは道子さん、サツマイモやコイモを植えて水をやるのはぼく、イチゴのマルチをかけるのは道子さん、イチゴのネットハウスをつくるのはぼく、デッキの前の花畑は道子さん、裏山に「木」を植えるのはぼく、「花」を植えるのは道子さん、などなんとなくすることが分かれています。
 アートテン農法は道子さんにおまかせです。
 ところで退職後ぼくがやろうとしたことに「書き物」がありました。随筆なのか小説なのか児童文学なのか方向もはっきりしないまま、ちょっと書いて入選した作品もありました。取材をしたこともありました。でも芽が出ないままで、そのうち「風船がしぼむ」みたいに創作意欲が抜けていき、ブログを書くようになりました。「これがオレの仕事だ」と思い、文を推敲して発信してきました。その発信が1000回を超え、まだ書く元気があり、つづけるつもりです。
 しかし、しかし、です。一度は手放した、あきらめた、「書き物」をしようという気持ちがチラッと動く気がします。ぼくには、まだ寿命があるようだ。そこで以前よく見ていた『公募ガイド』という雑誌を半年予約しました。この雑誌のページをめくりながら、なにか感じてみようと思います。
 でもいまは自分の中の「なんにも」ピリッとも動きません。「創作しようとする意欲」は、「自分という存在をかけるとてつもない大きなエネルギーだったんだ」と思い知っています。
 そんなこんなで、人生っていろいろなんだ。だから生きるのに厭(あ)きないのでしょうか。
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また大工仕事をしました。

2014年03月11日 07時21分05秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                           
 写真は我が家のウッドデッキです。キッチンの前は8尺のポリカ屋根を張り出して通路と物置にしていたのですが、今度デッキの床を張り替えました。雨のかからないところなので前の床のままでよかったのですが、板の隙間からナメクジが這い上がってくるのです。それを防ぐためにアスファルト紙をタッカー止めして隙間をなくし、上にOSB合板を張りました。床下の地面にもアスファルト紙を張って、草が生えないようにしようと思います。
 〈3尺×6尺〉の合板を運んだり切ったり取り回しながら、ふっと思いました。「何歳までこんな作業ができるかな」。大工仕事の好きな知人は「合板を買うときにホームセンターで必要なサイズに裁断してもらう」と話してました。その手がありますね。
 それにしてもこの2日ほどやったのは簡単な大工仕事ですが、はじめると次次イメージがわいて昼寝も忘れて夢中になります。やっぱりぼくは「大工仕事が好きなんだ」とつくづく思いました。それをこんなに思う存分できるいまの環境がうれしいです。
きのうはうちの村の《老人クラブ総会・懇親会》があり、二人で参加しました。来年度も「ラフター・ヨガ」をやりたいという声もあったのですが、実はインストラクターの『おさる』さんはアメリカなどに長期間出掛けています。残念ですが日本に帰られたらまたお願いします。
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『田舎暮らし』をしながら、思いました。

2014年03月10日 03時45分02秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 画家・横尾忠則の著書に『インドへ』という本があります。彼がインドに行って、瞑想した体験を書いているのですが、こんなエピソードにふれています。要約して紹介します。

 
 生前の三島由紀夫に言われたことがある。
 「人間の中にはインドへ行く人と、行かない人がある。そして〈その人がいつインドへ行くか〉は、その人のカルマによって決まる」
 その〈インドへ行く時〉が自分にもめぐってきた。


 「インドへ行く」はもちろん精神的な意味で「心がインドと出会う」ことです。ぼくはTM瞑想・シッダ瞑想をちょっとだけしたことがあり、インド旅行記やインド生活についての本を読むのは好きでしたし、「自分は 〈インドへ行く〉 部類の人間だ」と思っていました。
 ところが実際にインドツアーに参加してみて、「ぼくは 〈インドに行かない人〉 なんだ」と悟りました。むしろモンゴルに旅して 〈人間の善良さ〉 にふれて、「こんな暮らし、いいなあ」と思いました。
 さて田舎暮らしは、熟年の人たちには「憧れの一つ」になっています。ぼくも田舎暮らしをしたいと思い、「少し田舎の」三木市口吉川町に移住して8年目になります。そして「ぼくの場合、どうして今の暮らしが実現したのだろう」とときどき思い返してみます。いろんな条件がそろったからできたことでしょう。いくつか挙げてみます。
○ 山陰の田舎で生まれ育ち、おだやかな自然や人情に親しんできた。
○ 都会暮らしに憧れて阪神間で働いたが、定年退職を前に「やっぱり田舎で暮らしたい」と思うようになった。
○ 定年を前に田舎に勤め、地震の後2年間篠山の町で暮らした。数坪の畑もつくり、はじめて黒豆を植えてみた。
○ 定年退職後、神戸市西区神出で『大豆畑トラスト』を立ち上げ、畑づくりに精を出すようになった。
○ 耕運機で耕したり草刈りをしたり土にふれながら、「往復1時間かけて畑に通うのはもっと高齢になると負担だ」と思いはじめた。
○ 子どもは家を出て自立し、「また田舎で暮らしたい」ぼくの気持ちと「田舎で畑をつくりたい」妻の気持ちが足し算になった。
○ そんな背景・下地があって、「田舎に暮らしたい」我が家の空気が濃縮されていった。
 いろいろ思い返すのですが「なぜ実現したのか」ほんとうのところはわかりません。
 憧れる人、めざす人、実現する人、しない人、それぞれの人生があり、なにか大きな力がはたらいているのでしょうか。
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安納芋の焼き芋でおもてなし。

2014年03月09日 02時58分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 村の《公民館お掃除当番・女性グループ有志》の《たき火BBQ》は寒いので延期しましたが、おしゃべり会は予定通り。床にワックスをかけたり、デッキにイスを並べたり、ガラスを磨いたり。お客さんをテコにした「お掃除パワー」が全開になり、写真のようにきれいになりました。久しぶりです。
                 
 ここでおしゃべりしてもらいながら、ぼくは裏山でたき火の番をしました。ダッチオーブンで焼き芋をつくる指令が出たので。濡らした新聞でサツマイモ(安納芋)を巻き、その上をクッキングホイルで巻き、小石を入れたダッチオーブンに埋めて火にかけるのです。1時間で焼き芋ができます。
 サツマイモを冬を越えて保存するのは苦労しましたが、「寝室のベッドの下に置く」やり方が一番成功しています。「発砲スチロールの箱にもみ殻を入れて埋め込み、冷蔵庫の上に置く」。これはよさそうでダメでした。満蒙開拓青少年義勇軍の方には「家を建てるなら地下室をつくるといいですよ」と勧められました。極寒の満州でも地下室なら保存できたそうです。西洋では民家の地下室が映画なんかに出てきますし、たしかにいいでしょうね。
 女性会有志の《たき火・BBQ》は4月にやろうという話になりました。できれば老人会でもそんな会をやってみたいので、また呼び掛けてみます。
 春になるし、なんとなく「心弾むこと」をやってみたい。
 これを書いているいまは〈夜の二時半〉です。
 家の中で物音がしたような気がして、立ち上がり、電灯をつけて、リビングルームと玄関を覗いてみました。何もありませんでした。空耳だったのでしょう。それで不安が霧消するわけではありません。しばらく波立ったままです。
「独り暮らし老人の夜」がふっと胸をかすめます。
 そんな方がいっぱいおられます。いまも一人で寝ておられる。田舎だったら大きな家に一人。〈家鳴り〉もするでしょう。空耳もあるでしょう。微かな地震を感じるときもあるかもしれない。ペットでもいたら、通じなくても声を掛けるだけでホッとされるのでしょうか。
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お客さんがあると掃除パワーがあがります。

2014年03月08日 02時10分57秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きょうは村の公民館掃除女性グループの《たき火バーベキュー》の予定でした。しかし外は寒そうなのでBBQは延期して、《お茶・おしゃべり会》をすることになりました。久しぶりにお客さんがあるので、おじいさんとおばあさんは、きのうの朝から床を拭き、ワックスがけをしました。半年くらいワックスをかけてなかったけど、かけてみるとやっぱり気分が弾みますね。
 裏山のバーベキュー用のテーブルやベンチも勢ぞろいしました。
                   
 写真中央のテーブルは、ウッドデッキの階段代わりに使っていた台に脚を継ぎ足し、上にコンパネを張り、塗装したものです。相当に重いけど、上に乗って跳んでもビクともしません。ふだんは上にコンパネのカバーをかぶせて、作業台として使おうと考えています。
 気温が15度くらいになり、無風だと絶好のBBQおしゃべり会になるでしょう。来週の〈おたのしみ〉ということにしましょう。

 アジア図書館に送ったり、道端の「資源回収コンテナ」に投入して本を処分したのに、まだつぎつぎと「本の話」が出てくるじゃないか。と思われるでしょう。そうなんです。もし読みたければ図書館で借りる。あるいはタブレットでダウンロードして読む。そういうつもりだったのですが、まだ本棚約1本半分の本は残しています。一冊一冊に「思い入れ」があって「捨てられない」のです。
 みんな、この世への執着の糸を、一本一本切りながら、老いてゆきます。 わかってるんですが……。 
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『アファナーシエフ・ロシア民話集』を持っています。

2014年03月07日 04時13分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 中学から高校にかけてぼくが読みふけった本に『アファナーシエフ・ロシア民話集』があります。辞書のように分厚くて重い本でした。なぜそんな本が我が家にあったのかわかりません。表紙は千切れてなくなっていました。まだテレビ放送のない時代でしたし、好奇心旺盛な年頃でしたから、学校から帰ると繰り返し繰り返し読んだものです。
 いつの間にかその本は消えてしまいましたが、後年復刻版を古本屋さんで見つけました。うれしかった。いまも手元に置いています。
 元の刊行は大正13年で、訳者は中村白葉と米川正夫でした。
 復刻版のほうは5分冊になっており、昭和52年に現代思潮社から出版されています。いまもページを開くと「日本昔話」とはまったくちがう世界が広がり、トイレ本棚に置いてときどき読んでいます。なんというか、スケールがちがうというか、人間観がちがうというか、道徳観がちがうというか、この本だけの持つ世界があって、いまでも異世界へワープします。
 短い話を一つ引用してみます。なお戦前の本をそのまま復刻しているので旧かなづかい・旧字体です。


                 狐と蟹

 狐と蟹とが話合ってゐます。狐が言ひました。
『どうだ。駈けっこをしようか?』
『うん、やらう。一、二、三』
 走り出しました。
 狐が駈け出すや、蟹は狐の尾に噛りつきました。狐は決勝點まで走り着きましたが、蟹はまだ離れません。狐は蟹が何處にゐるかと思って、後ろを向いて自分の尾を見ました。蟹はやっと狐から離れて言ひました。
『なに、俺はもう先刻からここで君を待って居たんだよ』
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自分へのご褒美として《蟹》を食べました。

2014年03月06日 19時18分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 年を取るとやたらに「自分へのご褒美」を出したがるものでしょうか。
 ことしになって2回目ですけど、「自分へのご褒美」として城崎温泉に蟹を食べる一泊旅行をしてきました。何をした「ご褒美」なのか自分でもよくわかりませんが。
 城崎駅前には若い旅行者が多かったような気がします。宿の人にきいたら「卒業旅行とかのシーズンですからね」。若い人だって結構「自分へのご褒美」してるんだ。
 毎年車で行きますが、ことしは電車にしました。ビデオを撮ったり車窓の景色を眺めたり読書をしたり。そんな旅行気分を久しぶりに味わいました。これからはなるべく車をつかわないで遠出しようと思います。

 50ページくらいまで読みかけていた『クラバート』を持っていき、夜中に目覚めて明け方まで読み、帰りの電車で最後まで読んでしまいました。読んだのは二度目ですが、とってもおもしろく、読むのをやめられませんでした。この本を処分しないでよかったです。そのうちまた読むつもりで手元に置きます。
 もしぼくが中学生の頃に『クラバート』と出会ってたら、すっぽりはまってたでしょう。(1980年の出版ですからぼくはもう40代でそんなことはあり得ませんが)文のつくるイメージがくっきりしていて、おじいさんになってから読んでも「シュヴァルツコルムの村」や「コーゼル湿地」や「粉引き小屋」のイメージが立ち上がってくるのです。ネットで感想ブログを見ると10代の少年少女たちがいまもはまってるみたいです。
 プロイスラーは長年かけて〈クラバート〉伝説を自分なりに書き上げたかったけど、途中で行き詰まりました。そこで筆を止めてしまい、「ホッツェンプロッツ」を書いたそうです。
 巻末の解説から引用します。 


 …… 作者はつぎのように語っています。
 「わたしはこの仕事を中止せざるをえなくなり、『クラバート』は失敗に終わったと思いました。そして、ただこの絶望から『大どろぼうホッツェンプロッツ』を書いたのでした。」
『クラバート』のこの一時の中止は、少なくとも年少の読者にとってはさいわいでした。なぜなら、そのためにあのゆかいなホッツェンプロッツ氏がひと足先に生まれることになったのですから。

 
 人間っていいですね。書く人もいて。読む人もいて。
 
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やっぱり大工仕事が好きです。

2014年03月05日 03時59分28秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 裏山で〈たき火バーベキュー〉をする話が出ています。ちょっとしたテーブルがあると便利です。そこでウッドデッキの階段として使っていた台を、作り変えることを思いつきました。上に板をのせればテーブルになります。
 で、きのうは小屋で木材を切ったり削ったりねじ止めしたりと、大工仕事をしました。台に脚を継ぎ足して補強材を入れ、枠をつけたコンパネをのせて、頑丈なテーブルができました。写真を撮ったのですがサイズダウンする仕方がわからず(新しいパソコンでは)、アップできません。後日見ていただきたい思います。
 木材を切ったり削ったりねじ止めしたりしながら、なんともいえない満ち足りた気持ちでした。作業に使った、インパクト・ドライバー、ディスク・グラインダー、電動丸鋸、電気カンナなどの電動工具は、どれも退職してから使うようになったものです。
 木材をあれこれ加工する大工仕事はむかしから好きでした。でも使う工具は、のこぎり、金づち、かんな、錐(きり)、それにサンド・ペーパーくらいで、仕事場は玄関先でした。ひよどり台の団地に移ったときは玄関の下駄箱前のせまいスペースが仕事場でした。仕事といえば、棚をつけたり、下駄箱・戸棚・本棚をつくったり、踏み台を作ったりする程度でした。
 退職してから神出の田んぼで〈大豆畑トラスト〉を立ち上げようと呼びかけ、20人ほどの市民が集まりました。その中に一級建築士の方がおられ、借りた小屋を改築しながら、工具類の使い方や大きな大工仕事の仕方を教えてもらいました。また大型ホームセンターがあちこちにできて、さまざまな電動工具類が手頃な値段で手に入るようになりました。
 そしていまの田舎暮らし。ウッドデッキをつくり、パントリーや作業小屋を建て、好きな大工仕事を思う存分できます。
 裏山でウグイスをききながら、たき火に手をかざして作業手順を考え、のびのび、ゆったり。
 この項、どんな一行でしめくくろうかとさっきから思案しているのですが〈しあわせ〉しか浮かんできません。すんません。
 
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どんどん右に傾いていきますね。

2014年03月04日 04時02分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 のんびり田舎で暮らして老後の時間を過ごしたいと思っても、今の時代いろんな情報が入ってきます。一応新聞はとってますし、テレビも「お年寄りの友」として鎮座していますから。でも新聞やテレビから入ってくる情報には気分がわるくなることがあります。
 テレビを見ていて幼児虐待とか殺人事件とか右傾化する安倍政権とかいったいやなニュースがあれば、その情報を遮断しています。テレビのチャンネルを変えても、地上波のテレビは同じような報道をするか「人を笑いものにする」バラエティー番組ばかりです。人を〈笑いもの〉にするのがそんなにたのしいのでしょうか。
 そんなときはBS放送やCS放送にチャネルを変えます。きのう《アニマル プラネット》チャンネルで「昆虫の世界」を見ていたら「地球上には一人の人間に2億匹の割合で虫がいる」と放映していました。すごいですね。

 それにしても右傾化する安倍政権が支持され、外交も教育も変えられていく。今の政府のレベルは、この国の国民レベルに合っているのか。そうだとするとあまりに情けない。あんな大きな犠牲を強いられた戦争から一世紀も経ってないのに。ぼくは「真の自由や平和を希求する庶民の底力」をまだ信じますが、それは幻影かもしれない。そんな気のするときがあります。
 政権交代があって、陳情政治や天下り利権にメスが入った頃の、あの清新な政治の雰囲気はいつのことだったか。
 道徳教育復活を唱えていますが、あの戦前の〈道徳〉教育を受けた上官たちは、兵士たちは、なにをしたか。昭和10年前後に生まれ、敗戦後の平和教育を受けて育ったぼくたち老人は、ため息をついていまの政治を見ています。
 兵庫県出石町にある『静思堂・斉藤孝夫記念館』に行ったことがあります。戦前の国会議員で、暴走する軍部に「粛軍演説」をしたことで有名です。
 ぼくの生まれた昭和12年に、日本は「中国を懲らしめるため」という名目で戦争を仕掛けました。戦争を仕掛けたことを隠すために『支那事変』と呼びました。軍部は「中国(当時日本では『支那』と呼んでいました)なんて弱いもんだ。ちょいと懲らしめれば降参する。2か月もあればいい」とはじめた戦争です。北京から攻め下って南京を攻め、内陸部に侵攻し、広い中国のあちこちに戦線を広げて昭和20年8月まで戦争をして負けました。
「すぐやっつける。戦争を終わらせる」といいながら、いつまでたっても終わらない戦争をする軍部に、勇気をもって立ち向かったのが斉藤孝夫でした。

 彼の出身地の出石の人たちが、国会議員・斉藤孝夫に陳情に行ったことがありました。
「出石には鉄道の駅がありません。出石にも汽車が走るようにお願いします」
「わしは、国会議員だからのう」(そんな末梢なことでなく、国のあり方・将来を考えねばならん)
「我田引水」をもじった「我田引鉄」という言葉があります。おらが県に鉄道・新幹線を引こうとゴソゴソする代議士のことです。そんな記事を見ると、志の高かった斉藤孝夫を思い出します。
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裏山で『たき火バーベキュー』をしようと計画中です。

2014年03月03日 01時17分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 春めいてきました。裏山でウグイスが鳴いています。道子さんが去年女性部(婦人部)の集まりのとき「裏山たき火バーベキュー」の話をしたら、「やろう」という話になったそうです。まだ寒いけどたき火にあたればたのしくできるでしょう。もしうまくいけば、老人会でもやってみたいな。
 電動ウオーカーはつかっています。30分のウオークを2回するのを目標にしており、ほぼ毎日できています。
 こんなに真面目にするとは。自分で感心しています。
 そのかわり、外散歩はサボり気味です。きのうは久しぶりに孫たちがやってきたのに、おじいさん・おばあさんは〈みんなの散歩〉について行きませんでした。外散歩は遊びのつもりで「ぶらぶら歩き」、運動は電動ウオーカーですることにします。
「野菜づくりを体験しよう」と日曜日に街からやってくる青年は今年も頑張っています。きのうはジャガイモを植えました。でもよく降ったので畑を歩くと長靴がゴテゴテ。(どんな感じを想像されますか)こんなときは畝間を歩かないほうがいい。
『クラバート』を読みはじめました。数日引き込まれそうです。
 
 
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『クラバート』を読もうと思いつつ日が過ぎてゆきます。

2014年03月02日 04時36分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 蔵書を処分して、ほとんどの本は〈アジア図書館〉に送ったり廃品回収に出したりしました。
 しかし本棚には本が少し残っています。満蒙開拓関係/日本の戦争や昭和の歴史関係/北朝鮮を告発する基本図書/藤沢周平の作品群、などぼくの〈思い入れ〉を切れない本が。
 児童文学の分野では、安房直子の童話集、ゲド戦記、ロシア民話集、日本の民話など。そんな児童向けの本の中にプロイスラーの『クラバート』があります。400ページ近い分厚い本ですが実におもしろい。また読んでみたいと手元に置いています。
 でも「読むには気力がいる」と思うようになりました。
 8年前引っ越した頃は『カラマーゾフの兄弟』の新訳が話題になっていて文庫本を買って読みました。それだけの気力をなんとも思いませんでした。体力と同様、「頭」も「気力」も老いてきました。それでもなんとか「勢い」をつけて『クラバート』を読もうと、同じプロイスラーのもっと読み易い作品を図書館で借りてきました。
『クラバート』は1971年に発表され、日本では1980年に翻訳・出版されています。本には帯がついています。

   《 宮崎駿監督推薦の長編ファンタジー「いい本です。自信をもっておすすめできます。」 》

 彼の全盛期のコメントでしょうか。「宮崎駿がいつかこの作品を映画にしてくれたらよかったのに……」と思うのも〈老いの繰り言〉か。人はみな老いてゆきます。
 今月は『クラバート』を読むことにします。
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